山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

2015年秋、皇室の菩提所・泉涌寺へ (その 2)

2016年04月21日 | 寺院・旧跡を訪ねて

015/11/24(火)「御寺(みてら)」と呼ばれる天皇家の菩提所・泉涌寺を訪れた時の記録です。

 大門(重要文化財)と楊貴妃観音堂  


来迎院から元の参道(泉涌寺道)に戻る。10分位歩くと泉涌寺の入口となる大門(重要文化財)にたどり着く。大門には、泉涌寺の山号「東山」(とうぜん)の額が掲げられているところから「東山門」とも呼ばれている。くる。門脇に受付があり伽藍拝観料 500円必要。
創建について公式サイト
「当寺は天長年間(824-34)、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名された。建保6年(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師・俊(がちりんだいし・しゅんじょう)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみた。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れることなく涌き続けている。」と書かれている。

月輪大師は肥後国(熊本県)出身で、正治元年(1199年)宋に渡り天台と律,禅を学び、12年後の建暦元年(1211年)日本へ帰国した。彼は宋から多くの文物をもたらし、泉涌寺の伽藍は全て宋風に造られた。嘉禄2年(1226)に伽藍の完成をみた。そうしたことから実質的な開祖は鎌倉時代の月輪大師とされる。

泉涌寺は皇室・公家・武家など朝野から尊信篤く,深く帰依された。貞応3年(1224)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められ,仁治3年(1242)に四条天皇が当寺に葬られてからは、歴代天皇の山稜がこの地に営まれるようになる。こうして皇室との結びつきが深まり、皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めることとなり,「御寺(みてら)」と呼ばれるようになった。

伽藍は中世の戦乱で荒廃するが、信長・秀吉・徳川家の寄進で再興され、なかでも寛文4年(1664年)からの6年間に徳川家綱によって大規模な再建事業がなされ、現在の姿になった。

大門を潜ると,真っ直ぐな広い参道が仏殿まで続いている。寺院では珍しく下りの坂道となっています。そこから「下り参道」と呼ばれている。紅葉シーズンだが、華やかな明るさはなく、深緑に覆われ静寂な雰囲気が漂う。大混雑の東福寺に比べ、地味な泉涌寺はさすがに訪れる人は少ない。路上に散乱する落葉が、泉涌寺で唯一の華やかさでした。

大門を入った左横に,後水尾天皇中宮東福門院が寛文5年(1665年)に寄進した楊貴妃観音堂がある。
建長七年(1255年)中国に渡った僧・湛海律師(月輪大師の弟子)が仏舎利とともに宋より請来した中国・南宋時代の観音菩薩坐像が祀られている。
通称「楊貴妃観音像」(重要文化財)と称されている。玄宗が亡き楊貴妃の面影を偲ぶため香木で等身坐像にかたどった聖観音像を造ったという伝承が残され,近世初期以降に楊貴妃観音として信仰を集めた。
私は拝観していないのだが,整った鼻筋、紅を差したような唇,日本一美しい観音像といわれているそうです。そして口のまわりにヒゲが・・・との噂も?。

 雲龍院(うんりゅういん)  


大門を潜ってすぐの右側(楊貴妃観音堂の反対側)に入っていくと雲龍院があります。右側の門が「勅使門」で、皇族方の出入りだけに使われ普段は閉じられている。近年では常陸宮妃華子殿下がお使いになられたそうです。我々下々のものは、手前の山門から入り拝観料400円支払う。

山門脇の由緒書きによれば、南北朝時代の応安5年(1372)に北朝第4代の後光厳天皇が竹巌聖皐(ちくがんしょうこう)律師を招いて菩提所として建立されたのがこの寺のはじまりとされる。その後、歴代天皇の信仰があつく、皇室の帰依を受けて発展したとされる。以来、天皇家ゆかりの寺として、泉涌寺山内にありながら別格本山という高い寺格が与えられている。

写真の建物は霊明殿。明治元年(1868年)に再建された皇族の位牌堂です。
(公式サイト)「当院は後水尾天皇以降の歴代の陵が後山にあり、皇室と大変密接なご関係のお寺です。霊明殿はその皇族の位牌堂のことで、現在の建物は明治元年に孝明天皇・大宮御所・静寛院宮・各尼門跡宮からの援助を受け建立されました。内陣の中央には、北朝の後光厳天皇、後円融天皇、後小松天皇、称光天皇の御尊牌そして左側には後水尾天皇から孝明天皇までの歴代天皇、右側には東福門院・普明照院といった江戸時代の皇子・皇女の尊牌が奉安されています」とある。

霊明殿の前の燈籠は、最後の将軍となった15代将軍徳川慶喜が寄進したもの。白砂で形造られ皇室の十六菊の御紋が印象的。京都を愛したサスペンスの女王、山村美紗さんのお墓もここ雲龍院にあるという。(皇室の仲間入り・・・?、皇室を題材にしたサスペンスって面白そう・・・)

多くの人は、皇族の位牌が安置されているから雲龍院を訪れるのではない。この雲龍院の魅力は、庭園の美しさとそれを眺める仕掛けです。訪れる人の大部分は庭園を眺めることが目的でしょう。
書院前には広い庭園が広がっている。東山月輪山を借景に、苔と石組み、刈込、楓、松を配置した築山式庭園です。畳敷き「大輪(だいりん)の間」には縁側、半開きされた障子、赤い毛氈が設えられ、好みの位置・角度から庭を額縁の絵のように鑑賞できるようになっている。それほど人も多くないので寝転がって寛ぐのが一番でしょうか。枯山水より、こうした緑の築山式庭園のほうが落ち着きます。

「大輪の間」の隣が「れんげの間」。雪見障子の四角いガラス越しに、額縁で切り取ったように四枚の絵色紙が眺められる。「しきしの景色」と名付けられています。左の窓から椿・灯籠・楓・松が透かし見える。四季折々に異なった趣の絵色紙を鑑賞できるという。
部屋の一角に座布団が置いてあり、その座布団に座って鑑賞するのが「報道ステーションのお天気お姉さん推奨」と説明書きされていました。

台所から右へ曲がりさらに奥の部屋に行くと、有名な「悟りの間」があります。悟りの間には、四角い窓と丸い窓があります。四角い窓は「迷いの窓」と呼ばれているそうです。人生に於ける「生老病死」の苦しみを四つの角で象徴しているとか。

正確な真円を描いてる「悟りの窓」は、禅における悟りの境地を表しているという。春には紅梅やシャクナゲが、秋には紅葉が鑑賞できるそうです。
知られた撮影スポットだけあって、玄人、素人集まってくる。良いアングルをとるには順番待ちしなければなりません。

 泉涌水屋形と清少納言の歌碑  


下り参道の正面に仏殿があり、その東横に「泉涌水屋形(せんにゅうすいやかた)」がある。泉涌寺の名前の由来ともなった湧き水が出た場所です。今も尽きることなく水が湧き出ています。寛文8年(1668)の再建で、間口2間に奥行き1間半の屋形で覆われている。

泉涌水屋形の傍に,平安時代の歌人・清少納言(966-1025)の歌碑が設置されている(1974年建立)。
清少納言は一条天皇皇后定子(藤原定子、977 -1001)に仕えた。定子が亡くなり鳥部野陵に埋葬されると、彼女はその近くの泉涌寺付近に庵を結び隠棲し生涯を終えたとされています。
歌碑には,藤原行成と交わした歌「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」の歌が彫られている。

 仏殿と舎利殿(しゃりでん)  



境内の中央にあるのが本殿にあたる「仏殿」(重要文化財)。応仁の乱で焼失後,寛文8年(1668年)徳川四代将軍徳川家綱の援助で再建された。桁間5間、梁間5間、一重裳階付入母屋造、本瓦葺で唐様建築の代表作。

内部には、運慶の作と伝えられている本尊の三世仏が祀られている。即ち過去・現在・来世を表す阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来です。そしてお堂の左奥には開山された月輪大師像が祀られています。
仏殿内陣の鏡天井には,江戸時代の画家狩野探幽の「雲竜図(うんりゅうず)」(パンフは「蟠龍図(ばんりゅうず)」となっている)が描かれている。畳八畳分の大きさをもつ龍の絵です。

仏殿の背後にある白壁の建物が舎利殿(しゃりでん)。御所にあった御殿を移築したもので、ここには仏牙舎利(釈尊の骨)が祀られている。安貞2年(1228)、月輪大師の弟子湛海が宋から持ち帰ったもので、釈迦の口元の骨(歯)だそうです。
現在同時に将来された韋駄天像・月蓋(がつがい)長者像(共に重文)とともに内陣に奉祀されている。

ここ舎利殿の天井にも狩野山雪筆の『蟠龍図』(ばんりゅうず)が描かれている。天井画の下で手を叩くと、その音が反射して龍が鳴いているような音が返ってくるという。そこから「鳴き龍」と呼ばれている。通常非公開ですが、12年に1度、辰年にのみ特別公開されるそうです。 世阿弥作と伝えられる謡曲「舎利」の舞台がこの舎利殿。

 御座所(ござしょ)と霊明殿(れいめいでん)  


舎利殿の裏手にはお坊さんの住む本坊と繋がって御座所(ござしょ)がある。御座所とは天皇・皇后をはじめ皇族の方々が訪れた際に休息所として使用した所。現在も皇室や宮内庁の関係者が来寺したときには休息所として使用されているが、普段は一般にも公開されている。

建物は明治17年(1884)年、明治天皇の命により京都御所内にあった皇后宮の御里御殿(おさとごてん)を移して再建されたもの。女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などの部屋があり,狩野探幽などの貴重な襖絵が見られる。またここの「御座所庭園」も美しさで有名です。
中へ入るには特別拝観料(300円)が別途必要。今日は枯山水の庭園をたくさん見てきたので,庭園はもういいか,と入らなかった。しかし皇族の気分を味わえるよい機会だったのにと,後で後悔しました。

御座所の東側には「海会堂(かいえどう)」と呼ばれる御堂がある。明治政府が発足すると、神仏分離・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる。神道を基とする皇室も例外ではない。他の寺院のように仏教物を破壊するわけにもいかない。そこで明治9年(1876)、京都御所にあった天皇の念持仏が祀られている御黒戸(おくろうど=仏間)を丸ごと泉涌寺に持ってきた。これが海会堂で、今でも歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏が祀られているそうです。

舎利殿の右奥が霊明殿。ここには天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇以降、昭和天皇に至る歴代天皇・皇后の尊牌(位牌)がお祀りされている。これも明治初期の神仏分離で、各地の寺院に分散していた皇室の位牌を集め、ここ霊明殿に祀りしたもの。

毎月の御命日やお彼岸・お盆等には御法要が行われ、また日々の回向が行われているという。そして祥月御命日には皇室の代理として宮内庁京都事務所からの参拝が行われるそうです。

現在の建物は明治15年(1882)の炎上後、明治天皇によって明治17年(1884)に再建されたものである。入母屋造、檜皮葺で寝殿風の造り。

門より中へ入ることはできない。菊の御紋が目を光らせている・・・。




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