山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

2015年秋、紅葉の東福寺(その2)

2016年04月04日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015/11/24(火)京都・東福寺へ紅葉見物に出かけたときの記録です。

 本堂と三門  


境内のほぼ中央に二つの巨大な建物が佇む。 東福寺の中心伽藍である本堂(仏殿 兼 法堂)と三門(国宝)です。
本堂(仏殿 兼 法堂)は、鎌倉時代中頃に高さ5丈の本尊釈迦像を安置するため建てられた。明治14年(1881年)に焼失したが、昭和9年(1934年)に再建された。裳階付き重層入母屋造り、高さ25.5m、間口41.4mで昭和期の木造建築としては最大級のもの。
本尊釈迦三尊像(中尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)が祀られているが、これは明治14年の火災後に万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作。
皆さん正面の扉から中を覗き、見上げていらっしゃる。内部の大天井には仏教を守護する雲龍図が描かれている。内部が非公開のため入ることはできないので、覗いているのです。。京都生まれの画家、堂本印象画伯の作品で、東西約22m、南北約11mの天井に描かれた龍の大きさは体長54m、胴廻り6.2mにもなるという。私も見上げたが薄暗くてよく判らなかった。
本堂の南には三門(国宝)がどっしりと構える。元応元年(1319)の大火によって失われた後、室町時代初期の応永年間(1394年~1428年)に室町幕府四代将軍、足利義持によって再建された。「三門」とは空門・無相門・無作門の三解脱門のことで、現存する禅宗寺院の三門としては日本最古のもの。国宝になっている。
五間三戸(柱間五間で入口が三つの門)、二階二重門、入母屋造、本瓦葺、棟高は22m余で、南禅寺・知恩院の門と並び京都の三大門と称される。
手前の池は「思遠池(しおんち)」。夏には、「思遠の蓮」と呼ばれる美しい白い蓮が咲くそうです。池の中央には、三門へとつながる石橋が懸けられている。近くには勅使門があり、天皇の勅使が出入りする時だけに使われる橋です。

思遠池の橋を渡り、そのまま直進すれば三門を潜り本堂へ通じている。天皇の勅使しか歩めないコースです。

三門の左右には階上へ登るための階段が設けられている。しかし特別公開(3月14日~16日の涅槃会に公開、拝観料:大人500円)以外は一般公開されていない。
楼上からは洛南一帯の雄大な景色を一望でき、かの石川五右衛門が「ここも絶景だゾ!、絶景だゾ!」と叫んだとか、叫ばなかったとか・・・。


 浴室と東司(便所)  


本堂や三門の東側の境内を歩いて見ます。こちらには浴室(重文)、五社成就宮、十三重石塔、大鐘楼などがある。
浴室(重文)は、室町時代の長禄3年(1459年)の瓦銘が残り、禅宗伽藍としては現存最古の浴室建築。奈良・東大寺の湯屋に次いで古い浴室で、1907年(明治40年)に国の重要文化財に指定される。内部は非公開。
内部は、土間の奥の左右に腰掛が設けられ、中央の板敷を洗い場にした蒸し風呂形式。現在のサウナの同じ。説明版によれば、「沐浴にお湯を使用すると膨大な量となる。当然お湯を沸かす貴重な水はもとより、水を沸かす薪の量も多く、東山三十六峰の山々が禿げ山になる可能性がありました。そのためお湯でなく蒸気で体の垢をふやかし擦り落とすことで、お湯の使用量を格段に節約し、自然を大切にしたのである」のだそうです。
後方に釜と焚き口があり、蒸気をスノコを通して下から送っていた。

本堂や三門の西側には禅堂と東司(とうす)がある。二階建てに見える白壁の建物が禅堂で、お坊さん達が寝食を共にしながら坐禅をし修業する道場。
手前の平屋の建物が「東司」、いわゆる共同トイレです。現代でもこれだけの規模の便所って無いですよネ。
禅堂内で修行する僧が使用するもので、禅寺には必ず禅堂の隣に用意されていたという。室町時代の建築で、現存するのはここだけで、浴室と共に室町時代の禅僧の生活を知る上で貴重な建物となっている。
非公開だが、東側の連子窓から内部を見ることはできる。いわゆる”覗き見”です。窓の下には覗き見し易いように親切に踏み段が置かれています。内部は中央通路をはさんでその両側に便壺が十五個づつ並んでいる。多くの修行僧が一斉に用を足すことから「百雪隠(ひゃくせっちん、百間便所)」とも呼ばれる。

説明版に「当時の排泄物は貴重な堆肥肥料であり、京野菜には欠かせない存在となっていた。京都の公家、武家、庶民の台所をおいしい野菜で潤した。叢林としても現金収入の大きな糧となっていた」とあります。厳しい修行に励んだ僧たちの便だからこそ、おいしい京野菜が・・・。

明治35年(1902)に国の重要文化財に指定されている。便所で重要文化財指定って他にあるんだろうか?。浴室と共に室町時代の禅僧の生活を知る上で貴重な建物です。

 勅使門(ちょくしもん)と六波羅門(ろくはらもん)  


三門前の思遠池の南西角にあるのが勅使門(ちょくしもん)。天皇の勅使をお迎えする時だけに使われる。通常は閉ざされ、開かずの門なのです。天皇の勅使は、この勅使門から入り思遠池中央に架けられた石橋を渡り、三門をくぐって本堂前に進む。
桃山時代の天正18年(1590)に、現在地より南方にある塔頭の南明院に建造された。明治18年(1885)に現在地へ移築された(私の推測だが、明治初めの廃仏毀釈で東福寺の境内が大幅に縮小され、勅使門も境内外になってしまったので移築したのでは・・・)。四脚門、切妻造、本瓦葺で、1993年(平成5年)4月9日に京都府指定文化財に。

勅使門の直ぐ西にある門で、こちらは開いており、境内南側の通用門としてくぐれる。もと北条氏の六波羅探題にあったものを移したことから、この名で呼ばれている。

鎌倉時代前期の門で、東福寺では月下門とともに最も古い建築物で、国の重要文化財に指定されている。
一間一戸・切妻造・本瓦葺。



 芬陀院(ふんだいん、雪舟寺)  


本堂西の日下門から出ると、さらに西の中門まで参道が伸びている。その中ほどに「雪舟寺」として有名な、東福寺の塔頭寺院のひとつ芬陀院(ふんだいん)があります。大混雑の東福寺境内から一歩外れると、訪れる人も少なく、静かな雰囲気になってくる。
鎌倉後期の元亨年間(1321~1323)に、時の関白・一條内経(うちつね)が父親の菩提を弔うために創建した寺。それ以来、摂関家の一つであった一条家の菩提寺となっている。一條内経の戒名が「芬陀利華院殿(ふんだりかいんでん)」だったので「芬陀利華院」と呼ばれていたが、略して「芬陀院」となった。

ここの南庭は禅院式枯山水の「鶴亀の庭」といわれ、寛正年間(1460-1466)から応仁年間(1467-1468)に、時の関白一條兼良公の好みにより雪舟が作庭したと伝えられている。
水墨画などで有名で、また禅僧でもあった雪舟(1420-1506)が少年時代を過ごした備中(岡山県)の宝福寺は東福寺の末寺だった。その縁で雪舟が東福寺に参った時は芬陀院に起居していたという。

その後二度の火災で荒廃していたが、作庭家・重森三玲(1896-1975)が東福寺の方丈「八相の庭」や光明院「波心庭」を作庭した同じ年の昭和14年(1939)に、修復・復元した。重森三玲はそれまでの実測調査の結果と、雪舟が山口に作った常栄寺庭園の実測資料を参考にして復原したという。白砂と苔と石組みによる京都最古の枯山水庭です。
白砂の奥にウマスギゴケを敷き詰め、その中に石組みで表された鶴島と亀島が浮かんでいる。右の二重基段状になっているのが亀島、左が折鶴を暗示した鶴島。

方丈の東側には、昭和14年(1939)南庭の修復・復元時に、重森三玲が新たに作庭した「東庭」がある。モチーフは南庭と同じ苔と石組による鶴亀の島からなる枯山水庭園。
その奥に茶室「図南亭(となんてい、恵観堂)」があり、茶室には丸窓が設けられ、障子の隙間から東庭を切り取って眺めることができます。

 光明院(こうみょういん)  



東福寺境内から南に出て、南に続く路地には幾つかの東福寺塔頭寺院が並んでいる。その中の一つに「光明院(こうみょういん)」があります。「苔の虹寺」とも呼ばれ、美しい庭園があるというので訪ねてみることに。

明徳2年(1391)金山明昶(きんざんみょうしょう)により創建された東福寺塔頭。入口には「雲嶺庭」の石柱が建ち、数段の石段を登った山門には「波心庭」の札が掛けられている。

方丈前の枯山水庭園は、重森三玲の作庭で「波心の庭(はしんのにわ)」と呼ばれている。東福寺方丈庭園と同時期(昭和14年、1939年)に作られたもので、重森三玲の初期の名作とされる。
寺号にちなみ「光明」をテーマに作庭され、大海原を表す白砂と杉苔の間に、斜線状に立石が並べられ、仏の光を表しているという。また、背後の刈り込まれたサツキやツツジは雲紋を表すそうです。

庭の奥には、茶亭「蘿月庵(らげつあん)」がある。紅葉の時期にはここの茶亭でお抹茶や京番茶とおはぎ、饅頭などをいただくことができます。
抹茶+おはぎか饅頭:600円
京番茶+おはぎか饅頭:400円
ここも芬陀院同様に、訪れる人は多くないので、静かに落ち着いた気分で鑑賞できます。
蘿月庵の丸窓は月を表し、「波心庭」から眺めると、東の空に月が昇る様子を楽しむことができるそうです。
京の寺には窓越し、障子越しに庭や紅葉を鑑賞できる仕掛けが多い。作為を感じなくも無いが、これも創作美としてとらえるべきでしょうネ。

 法性寺(ほうしょうじ) 


東福寺境内を西に外れた、京阪電車沿いの本町通り(鳥羽街道)に小さな小さなお寺が在ります。京阪・東福寺駅にも近い。入口は閉められ、誰も振り向かない街中のありふれたお寺に見えます。ところがこのお寺は、東福寺よりも古く大変由緒ある古刹なのです。
浄土宗西山派の尼寺「法性寺(ほうしょうじ)」。延長三年(924)、左大臣・藤原忠平によって創建された。藤原家の氏寺として栄え、藤原忠通(法性寺入道)の時には、広大な寺域に大伽藍を構え、京洛二一ケ寺の一刹に数えられていた。しかし、その後藤原氏の衰退や兵火により、堂宇は悉く焼失してしまった。 その跡地に創建されたのが現在の東福寺なのです。
現在の法性寺は明治維新後に再建されたもので、東福寺に比べ陰の薄い存在になってしまっている。本堂に安置されている千手観世音菩薩像は、旧法性寺の五大堂の一つである灌頂堂の本尊と伝えられ、国宝に指定されています。


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