山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

2015年秋、皇室の菩提所・泉涌寺へ (その 1)

2016年04月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015/11/24(火)京都・東福寺の紅葉見物の後、近くの泉涌寺(せんにゅうじ)に立ち寄る。泉涌寺は「「御寺(みてら)」と呼ばれ、天皇家と大変深い関係があります。境内には月輪陵と呼ばれる御陵があり、沢山の天皇さんが眠っておられる。今まで前方後円墳などの多くの天皇陵を見てきたが、天皇陵の総本山たるここを見過ごすわけにはいかない。

 新熊野神社(いまくまのじんじゃ)  


京阪・JRの東福寺駅へ戻り、今度は東大路通りを北東へ歩く。泉涌寺道への入口が見えるが、それを通り越し200mほど進むと路傍にクスノキの大樹が見えてくる。ここが新熊野神社です。

後白河法皇(在位:1155年~1158年)は退位後も法住寺にて院政を敷き、「法住寺殿」と呼ばれていた。当時熊野詣が盛んで、法皇も34回熊野に参詣したという。しかし紀州熊野はさすがに遠い。そこで永暦元年(1160年)、近くに鎮守社として新熊野神社を創建し、熊野の神をここに勧請したのです。造営を平清盛・重盛父子に命じ、熊野より土砂材木等を運び社域を築き社殿を造営、神域に那智の浜の青白の小石を敷き霊地熊野を再現しようとした。紀州の熊野に対して、京の新しい熊野として「新熊野(いまくまの)」と呼ばれた。同時に鎮守寺として三十三間堂も創建された。




神社入口左手に、しめ縄のかけられた樟(クスノキ)の大樹がそびえる。神社創建時に、熊野より移植した後白河上皇みずからお手植といわれている。幹周/6.58m、樹高/21.9m、樹齢/伝承800年。樹齢900年以上京都市指定天然記念物 (S58年6月1日指定)


ここの境内は、能楽発祥の地といわれている。能楽の礎をつくった観阿弥・世阿弥の出たところです。






 泉涌寺道(せんにゅうじみち)  


新熊野神社から東大路通りを200mほどバックすると、泉涌寺へ通じる道がある。これが「泉涌寺道(せんにゅうじみち)」と呼ばれ、泉涌寺の大門まで500mほど緩やかな坂道となっています。



泉涌寺道の中ほどに泉涌寺の総門が構える。道の両側には、即成院、戒光寺、悲田院、来迎院、今熊野観音寺などの泉涌寺の塔頭寺院が点在している。

毎年成人の日(1月の第2月曜日)には、泉涌寺道で「泉山七福神巡り(せんざんしちふくじんめぐり)」が盛大に行われるそうです。泉涌寺道沿道の塔頭を順に参拝していく人で、例年多くの人出があるという。

 即成院(そくじょういん)  


泉涌寺総門の手前にある即成院は、泉涌寺の山内にある塔頭です。
寺伝によれば,正暦3年(992)、恵心僧都源信により伏見(宇治川北岸)に建立された光明院を起源とするとされる。 その後いろいろ転移を繰り返し、最終的に泉涌寺塔頭の法安寺と合併し明治35年(1902年)に総門近くの現在地に移された。本堂には、本尊・木像阿弥陀如来坐像並びに二十五菩薩坐像が安置されている。いずれも国の重要文化財に指定されています。本尊は、ぽっくり信仰を集め「ぽっくり寺」とも呼ばれるとか。
即成院は那須与一ゆかりの寺とされており、本堂裏には与一の墓と伝えられる高さ3メートルにも及ぶ石造宝塔が建っている。与一は、熱心に即成院の阿弥陀さまを信仰していた。そして平家の船上に掲げた扇の的を見事一発の弓矢にて射抜くという武勲を立てた。最終的には即成院の阿弥陀さまの前で亡くなったという。
門を潜った右手に「与一の手洗い所」が設けられている。「願いが的へ」と書かれた箱もあります。紙石鹸が入っており、湿らせた手に紙石鹸をのせ、願いを込めて手を洗うと「願いが的へ」へ通じるという。
那須与一は『平家物語』に描かれた半ば伝説上の人物とされるのだが・・・

 悲田院(ひでんいん)  


総門を入ってしばらく歩くと、右手に悲田院への標識が見える。悲田院とは奈良時代より、仏教の慈悲の思想に基づき、身寄りのない老人、孤児、貧窮者、病者などを収容するの救済のための福祉施設。平安時代にも京に幾つか建てられたという。正保2年(1645)、高槻城主・永井直清が現在地に移建し、如周和尚を迎えて住持としたのが現在の悲田院でとされる。
泉涌寺の塔頭寺院のひとつで、本尊は阿弥陀如来。除災招福の毘沙門天が有名とか。

山の中腹に位置しているため、眺望がすこぶる良い。建物の西側には、柵が設けられベンチが置かれている。まさに展望台で、京都タワーをはじめ、京都市内を一望できます。境内は無料で入れますので、疲れを癒すのに最適な場所です。

 今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)  


悲田院から泉涌寺参道に戻り、少し歩くと左側に「紅葉まつり」の立て看とともに「頭の観音さん 今熊野観音寺」の標識が見える。緩い坂道を下ってゆくと今熊野川に架かる朱色の橋が見えてきます。橋の名前は「鳥居橋」。朱色の橋といい、”鳥居”という名前といい、まるで神社のようです。古くからこの地には熊野権現社が鎮まっていた名残のようです。
鳥居橋を渡ると今熊野観音寺の境内に入ります。通常の寺のように山門はありません。この鳥居橋が門の代わりなのでしょうか?。

寺伝によれば、平安の昔、弘法大師空海が創建したと伝わる。850年代、左大臣藤原緒嗣が伽藍を造営したと伝えられ、当初は東山観音寺と称していた。「熊野信仰」の大流行の際、後白河法皇が永暦元年(1160)に新熊野神社を勧請創建された際、その本地仏を祀る寺として今熊野観音寺と称するようになったという。その後、泉涌寺をも凌ぐ大寺となったが、応仁の乱の戦禍でほとんどの堂宇を失ってしまった。
境内に入り杉並木の参道を通り抜けると、本堂へ続く階段前に「子護り大師」像が建つ。子どもの心身健康・学業成就などにご利益があるといわれている弘法大師像です。像の周りには砂が敷き詰められ、「南無大師遍照金剛と唱えながら四国八十八箇所のお砂を踏んでお大師様を廻って下さい」と書かれた札が立てられている。

「子護大師像」後ろの石段を上がると本堂の前に出る。本堂も応仁の乱で消失たが、正徳3年(1713)に再建され現在に至っています。本尊は、弘法大師御作と伝えられる十一面観世音菩薩(身丈・一尺八寸)。秘仏なので直接拝観することはできない。
本堂の東側に、弘法大師をお祀りしている大師堂があり,その入口階段横に「ぼけ封じ観音」が建てられている。
頭痛の悩んでおられた後白河法皇が、今熊野観音に頭痛平癒のご祈願を続けられたところ、不思議にもたちまちに癒えた、という「後白河法皇頭痛封じ霊験記」からきているそうです。

「ぼけ封じ観音」の傍には多数の小さな「身代わり石仏」並んでいる。授与所で奉納料(2万円)を支払い,いただいた小石仏にボケ封じの願を掛け,本堂で御祈祷を受けた後この場所に奉安される。
「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」なるものがあり,今熊野観音寺はその第一番札所だそうです。私もそろそろ霊場巡りを・・・それとも身代わり石仏を((-_-;))。

 来迎院(らいごういん)  


今熊野観音寺から引き返し鳥居橋を渡ると,参道に出る手前に宮内庁書陵部の管理事務所「月輪陵墓監区事務所」がある。その前の道を林の中へ入っていくと来迎院への入り口が見えてくる。

薄暗い山中の山門。いかにも大石内蔵助が隠れ住み,謀議を話し合ったという雰囲気が現在でも漂う。訪れる人は少ない。

泉涌寺の塔頭寺院。創建は,大同元年(806年)に弘法大師空海が唐で感得した三宝(仏・法・僧)荒神像を安置して開いたと伝えられ、今も大師ゆかりの独鈷水がある。応仁の乱(1418)の兵火により伽藍が焼失し、荒廃したが、織田信長や徳川家の援助により再興される。明治時代になると廃仏毀釈により荒廃したが、大正時代になって修復され、現在に至る。本堂には運慶の作と伝えられる阿弥陀如来が安置されている。
本堂前を奥へ進むと,大石内蔵助ゆかりの含翆軒と含翆庭があります。拝庭料400円払い,中に入る。小さな庭園はこの時期紅葉で色づくが,それ以外熊笹で覆われ,華やかさはない。

庭の一角に大石内蔵助が建てたという茶室・含翆軒(がんすいけん)が佇む。
赤穂浅野家断絶後,大石は外戚にあたる当時の泉涌寺長老でここの住職であった卓巖和尚を頼り、来迎院の檀家となって寺請証文を受け山科に居を構えた。そしてここ来迎院でよく茶会を催し、赤穂の浪人たちと密談をかわした、とされています。そして、今も本堂に安置されている勝軍地蔵を念持仏として祈願していた。その甲斐あってか見事に討ち入りを成就さした。


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