山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

「葛城古道」北から南へ (その 2)

2014年11月12日 | 街道歩き

 葛城坐一言主神社(かつらぎにいますひとことぬし)  


九品寺から次の綏靖天皇高丘宮跡を目指したが、どこでどう道を間違えたのか県道30号線(別名を御所香芝線)に出てしまった。車の往来を眺めながら、俺はどっちへいったらよいんだ?、と狼狽。葛城の道は迷い道です。近くで作業中の農婦の方にお尋ねする。車道を歩き、ロータリーから県道30号線の下をくぐるトンネルを出ると、石鳥居のある細い参道と一般道が並列している。この鳥居は「二の鳥居」で、「一の鳥居」はズッーと東の長柄の集落にありました。

参道正面の50段の石段を登ると、狭苦しい境内に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥に本殿(一間社流造・銅板葺)が鎮座する。祭神は一言主大神と大泊瀬幼武尊(わかたける、雄略天皇)とが合祀され、全国各地の一言主大神を御祭神とする神社の総本社となっている。一言主神は、地元で「一言(いちごん)さん」「いちごんじんさん」として親しみをこめて呼ばれ、願い事を一言だけ叶えてくれる神様として有名です。そのせいか葛城古道の中でもここが一番の人出でした。しかし一言主神の出自や実体は謎に包まれているようです。

「一言」の云われとなった神と雄略天皇の出会いの場を、記紀によりアレンジ再現すると
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雄略天皇がお供を従えて葛城山で狩をしている時、天皇らと全く同じ姿格好をした一行(神)と出会った。
天皇「この国には自分をおいて王はないのに、同じ格好をしたお前は何者だ!」
神「この国の王は私だ、同じ姿のお前こそ何者だ!」
天皇「無礼者!、矢を撃つぞ!」
神「「そちこそ無礼者!、矢を撃つぞ!」
天皇「それではお互いに名乗り合おう、まずそちから」
神「吾は悪事(マガコト)も一言、善事(ヨゴト)も一言で言い放つ神、葛城の一言主の大なり」

この後が記紀で若干ニュアンスが異なる。
古事記では、それを聞いた天皇は弓矢を捨て「恐れおおいことだ、大さまとは気づかなかった」と申して、自分の太刀や弓矢を始めお供の衣服をも脱がせて一言主神に献上し、拝礼された。一言主は悦んで献上品を受け、天皇が帰るときは、泊瀬の山の入口まで見送られた。
日本書紀(雄略紀)では、二人は共に狩を楽しみ、日が暮れて狩が終わると、神は天皇を久目川(現曽我川)まで送って行ったという事です。
天皇家の正史・日本書紀の立場として、天皇が葛城の神にひれ伏すことなどできなかったのでしょう。事実、この周辺を本拠とした葛城氏は雄略天皇によって滅ぼされている。
さらに後世になれば、一言主神は惨めな神として扱われている。『続日本紀』(平安時代初期の797年に編纂された)や『釈日本紀』(鎌倉末期の書紀註釈書、13世紀末頃)によれば、「一言主神が雄略天皇と獲物を競いあい、天皇の怒りに触れ、一言主神は土佐国に流刑された」と記紀とは異なる内容となっている。そして天平法宇8年(764)、葛城氏の末裔・高賀茂朝臣田守らが、由緒ある一言主神を戻してほしいと願いで、その後許されて葛城の高宮付近に祀られたという。それが現在の一言主神社です。高知市には流刑された「一言主神」を祀る土佐神社が現在も存在しているそうです。

さらに『今昔物語』には、役行者が一言主神を呪によって縛り上げ、谷の底に置くという逸話がある。流刑されたり、縛りつけられた神様など聞いたこともない。謎に包まれた哀れな神様のようですが、私も両手を合わせ、一言だけお願いしました。もちろん、一言分のお賽銭で・・・。

一言願掛けとともにこの神社を有名にしているのが、拝殿前の大銀杏の御神木。「乳銀杏(ちちいちょう)」と呼ばれている。幹周:4m、樹高:25m、樹齢1200年と言われる古木で、県の保護樹木に指定されている(平成9年7月18日指定)
樹の前にある説明板には「幹の途中から乳房のようなものがたくさん出ており、「乳イチョウ」「宿り木」と呼ばれている。この木に祈願すると子供を授かりお乳がよく出ると伝えられており古くから親しまれてきた」と書かれている。見上げると大木の樹皮がめくれ、お乳のようなものがたくさん垂れ下がっている。これは樹皮のコルク質が発達し表面が柔らかくなって出来たもので、銀杏の古木に見られるという。
この大銀杏に手を合わせ、さらに一言主神様に「お乳がたくさん出ますように!」とお願いすれば、絶対間違いなし、ですネ。

この神社には土蜘蛛伝説による蜘蛛塚が残されている。
『日本書紀(神武紀)』に「高尾張邑(たかおわりむら)に土蜘蛛がいた。その人態は、身丈が低く、手足が長く、侏儒(シュジュ、小人の意)に似ていた。磐余彦尊(いわれひこ、後の神武天皇)の軍は葛(かづら)の網を作り、覆い捕らえ、これを殺した。そこで邑の名を変えて葛城邑(かつらぎむら)とした」と書かれている。
これは神武東征のおり、葛城山裾を平定した時のお話。「葛城」の名称の始まりでもある。日本最初の正史とされる天皇家の歴史書は、皇軍に反抗した在地土着の民たちを、「土隠(つちごもり)」する獣の如く”土蜘蛛”と蔑称し、後世に残した。天孫降臨族が地の国の先住民を獣を押し潰すごとく制圧していく英雄創として描く。その後、この土蜘蛛の話は陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前など各地の風土記にもでてくるそうです。
その後「土蜘蛛」は都(朝廷)を脅かす「怨霊」や「妖怪」とみなされ、神楽・能・歌舞伎・狂言・謡曲など古典芸能の題材となり現在まで語り継がれている。
神楽の口上で、土蜘蛛は「大和の国は葛城山に住む土蜘蛛である」と謡われ、歌舞伎の「土蜘」では「汝知らずや、我れ昔、葛城山に年を経し、土蜘の精魂なり。此の日の本に天照らす、伊勢の神風吹かざらば、我が眷族の蜘蛛群がり、六十余州へ巣を張りて、疾くに魔界となさんもの」と語る。こうした演目が語り継がれているのは、”わが恨みを忘れるな!”という地の声か、それとも妖怪退治でカタルシスを得ている支配族の自己満足か。征服者・天皇族は後世になっても虐殺・略奪していった民の亡霊に悩まされてきたのでしょう。

神武天皇は土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足の三部分に切断し別々に埋めたという。ここ一言主神社境内には、それを供養するためか三カ所に土蜘蛛塚が残されている。胴の部分は拝殿右脇に、頭は本殿の下に、足は参道入口の鳥居脇に置かれている。

 綏靖天皇高丘宮跡(すいぜいてんのうたかおかのみや)  


一言主神社入口の階段右横に山側に入っていく道があり、そこからハイカーが下ってくる。どうやらこの道が九品寺から綏靖天皇高丘宮跡伝承地を経て一言主神社へ続く「歴史の道・葛城古道」らしい。私は入口を見失い、高丘宮跡を経ずに別の道を通って一言主神社へたどり着いてしまった。
せっかくだから、逆コースながら綏靖天皇高丘宮跡へ行ってみることにした。人家の散在する坂道を通り過ぎると平坦な道となり視界が開け、田畑が広がる。所々に杉林の茂みが見える。ガイド本によると高丘宮跡は杉林の中だと書かれている。農道のような畦道のような道を不安を抱きながら進むと、前方の杉林の一角に石碑が見えてきました。

「日本書紀」によれば、初代神武天皇の第三子だった神渟名川耳命(かむぬなかわみみのみこと)は、神武崩御後、異母兄の反乱を鎮圧し、ここ葛城高丘宮で第二代「綏靖」天皇として即位したという。しかし現代の歴史学では、「欠史八代」などと呼ばれて、二代綏靖天皇から八代開化天皇までの実在性が疑問視されている。
それよりもここ「高丘宮」の地は、仁徳天皇の后となった磐之媛(いわのひめ)の望郷の歌で有名です。
「あおによし 奈良を過ぎ 小楯 大和を過ぎ  我が見が欲し国は 葛城高宮吾家のあたり」
この辺りは葛城氏の根拠地でもあった。磐之媛は、葛城氏の実質的な祖・葛城襲津彦(そつびこ)の娘。16代仁徳天皇の皇后となり、17代履中天皇、18代反正天皇、19代允恭天皇の母でもある。気性の激しい女性だったようで、夫・仁徳帝の浮気を許さなかったようだ。仁徳帝が磐之媛の留守中に別の皇女を妃にしたので、これに怒り宮に帰らず山城の筒城に篭ってしまったという。この時、生まれ故郷の「葛城高宮」あたりを懐かしんで詠んだ歌なのでしょうか?。

石碑から少し先へ行ってみました。イノシシ避けの柵が設けられていた。「イノシシはヤマトに入るな!」ということでしょう。この畦道が本来「葛城古道」で、この道を通って高丘宮跡に入ってくる予定っだったのですが・・・。真っ直ぐ伸びる畦道の先に”ヤマトの国”が広がっている。磐之媛もこの風景を眺めながら育ったのでしょうか。

 長柄神社(ながらじんじゃ)  


11:30 一言主神社に戻り、参道からトンネルをくぐり東へ長柄の集落を目指して歩く。500mほど行くと集落内に大きな鳥居が現れる。これが一言主神社の「一の鳥居」で、神社前にあったのは「二の鳥居」。この一の鳥居から一言主神社の参道になるのでしょうか?。
鳥居をくぐると突き当たりになるので右に曲がって進むと、長柄の民家が並ぶ。長柄神社の案内板に「長柄」の名称の由来として次のように書かれている。「長柄の地名は、長江(ながえ)が長柄(ながえ)になり、音読して長柄(ながら)になった。長江はゆるやかく長い葛城山の尾根(丘陵)を意味し、ナガラは急斜面の扇状地に残った古語であるともいわれる」。ところが何故か現在の地名は「名柄(ながら)」と書く。天理市の長柄町と混同されるので、「名柄」にしたという説もあるが、歴史ある名称なのに残念です。

長柄の街中をさらに南に進むと、左角に古く由緒ありそうな鐘楼と白壁が印象的な「浄土宗・龍正寺」が建つ四つ辻に出る。今歩いてきた南北の道が「長柄街道(旧高野街道)」で、かって京都・奈良の人々が吉野川沿いに五條を通り高野山へお参りする道でした。東西に交わる道が、かっての「水越街道」。河内から大和葛城山と金剛山の間の水越峠を越えて大和に下りて来る街道です。現在は国道309号線となり、水越トンネルが開通している。こうした交通の要衝に発達したのが長柄の街で、その中心にあるのが長柄神社。龍正寺の角を左に曲がると、すぐ長柄神社です。


ケヤキの巨樹に覆われた長柄神社境内はそれほど広くない。日本書紀には、天武天皇が境内で流鏑馬(やぶさめ)をご覧になったと記されているが、当時は馬が疾走できるほど広かったのでしょうか?。
現在の境内には、一服できるベンチが置かれ、子供の遊び場なのかブランコが垂れ下がっている。かって天皇が行楽された場所が、今は庶民の憩いの場になっており、親しみを感じさせてくれる神社です。

拝殿奥に鎮座する本殿は、一間社春日造・檜皮葺・丹塗り、創建年代は不明。奈良県の重要文化財に指定されている。祭神は下照姫命(したてるひめのみこと)。地元では「姫の宮」と呼んでいる。出雲大社に祀られている「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の娘にあたる神様です。また高鴨神社の神様「阿治須岐高日子根命(あじすきたかねひこのみこと)」の妹でもある。安産の神様のようです。

筆でガッポリ稼がれたのか、神社入口に「堺屋太一 建之(池口小太郎)」の新しく立派な石灯籠が。実家の池口家はすぐ近くです。

 長柄の旧家  




長柄の集落に入って最初に目にするのが、かっての大庄屋「末吉家」住宅。母屋は江戸中期に建てられたもの。どっしりと落ち着いた古風な佇まいの家構え。それ以上に屋敷内の巨木(ケヤキかクスノキ?)に歴史を感じさせられる。現在、家人は裏に新宅を建て、住んでおられるそうです。





長柄神社のある辻から、さらに数軒南に進むと江戸中期の建物「本池口家」がある。ここはあの元国務大臣で著作家の堺屋太一さんの実家でもある。堺屋さんの本名は「池口小太郎」。Wikipediaには「大阪市生まれ。本籍地は奈良県」とあるので、もしかしたら父の実家なのかも?。近くには同様に古い作りの「池口家」もありました。



本池口家の南隣が「中村家住宅(国重文)」。表札もかかっていない。これだろうかと自信なかったので、通りがかりの方に尋ねると「コレですヨ」とおっしゃる。

江戸時代初期の慶長年間(1596~1615)に建てられた長柄を代表する旧家。御所市内で最も古い建物で、中世の吐田(はんだ)の城主吐田越前守の子孫にあたる中村正勝が建てたと推定されています。中村家は長柄で代々郡山藩の代官を務めた家柄なので、代官屋敷のような造りになっている。
白壁と黒褐色の格子戸・板の色合いのバランスが美しい。昭和47年8月から同49年8月まで、奈良県教育委員会により改体修理が行なわれたようで、そのせいか他の旧家と比べて新しく感じた。現在でも個人の私有なので、内部は非公開となっている。しかし奈良県を代表する旧家で、国の重要文化財・観光スポットにもなっているので案内板くらいは置いて欲しいものです・・・。

中村家住宅と道を挟んだ南隣が「葛城酒造」で有名な「久保家」。元々は、大宇陀町で元禄年間(168~1704)から酒造りをされていた老舗だが、明治20年にここに分家された造り酒屋さん。この辺りは葛城山からの良質の伏流水があるため大和でも有数の地酒の産地という。家の軒先には、酒造業のシンボルともいえる杉玉がぶら下げられています。代表銘柄は「百楽門」で、ネットで注文できます。


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