山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

「王陵の谷」 河内飛鳥を往く (その5)

2014年05月05日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 竹内街道 (たけのうちかいどう)  


磯長谷(太子町)の古跡を一通り巡ったので帰ることに。竹内街道へ回り、そこを歩いて近鉄・上ノ太子駅へ出ることにしました。
竹内街道は、『日本書紀』の推古天皇21年(613年)11月の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記され、我が国最古の官道とされる。その一部がここ太子町内を通り、街道沿いに「王陵の谷」と呼ばれる古跡を残している。「竹内街道」という呼称は明治以降のもので、それまでは「丹比道(たじひみち)」と呼ばれていたようです。

竹内街道は、奈良県葛城市當麻町の長尾神社から出発し二上山の南にある竹内峠を越えて、大阪府の太子町・羽曳野市・松原市を経て、堺市の大小路(おおしょうじ)に至る約26kmの街道です。
古来、大和盆地には「横大路」と呼ばれる官道が東西に走っていた。大和盆地の西側には生駒山、二上山、葛城山の山々が連なり、西方への出口を塞ぐ。横大路からさらに西の河内、難波(大阪)へ出るには場所が限られていた。一つは二上山の北側の穴虫(あなむし)峠を越えて行く長尾街道(古名で「大津道(おおつみち)」)で、もう一つが二上山の南側の竹内峠を越えてでる竹内街道。
峠を越えて、中国や朝鮮半島のすぐれた大陸文化が大和へもたらされ、また渡来人をはじめ、遣隋使や遣唐使たちも行き来した。そして聖徳太子、推古天皇を始めとする王族達の葬列が竹内街道を通って磯長谷に入ってゆく様子が想像される。
近世になると、聖徳太子ゆかりの地への「太子信仰の道」として、伊勢、長谷参詣のためのの道として、さらに商人の町・堺と大和を結ぶ経済の道として利用された。街道沿いには茶屋や旅籠が軒を連ね賑わったという。
写真は、竹内街道沿いの「大道旧山本家住宅(国登録有形文化財)」。江戸末期の数少ない「かやぶきの古民家」という歴史的景観を残すものとして太子町によって保存・公開されている。
現在の太子町の竹内街道には、古風な家並みや白壁の塀など、所々に懐かしさを感じさせてくれるものも見られるが、”最古の官道”とまではいかなくても古の街道といったイメージを沸き立たせてくれるようなものは全く見られない。よく整備・改修され、道幅も広く舗装され、明るく・清く・美しい街道として生まれ変わっている。
間隔をおいて立てられた”竹内街道”と書かれた真新しい幟、家々の道脇に置かれた美しい花壇、官(町)民あげての”町おこし”の気概がひしひしと伝わってきます。歩いても歩いても、ゴミ一つ落っこちていない、感動!、or 異常さを・・・
案内板があり「平成二十五年(2013年)は、竹内街道が施設されて1400年にあたります。これを契機に、街道沿線自治体で取組む「竹内街道・横大路(大道)1400年活性化プロジェクト」の一環として太子町春日に「緑の一里塚」を整備しました」とあります。太子町の竹内街道を歩いていると、街道沿線自治体と住民の方々の”街おこし”へかける気概が痛いほど伝わってきます。古道にしては”美し”すぎるような気がしますが・・・。
竹内街道が国道166号線と合流する「春日西」交差点。竹内街道はさらに西に伸び堺まで続いている。しかし歴史街道として整備された竹内街道は「春日西」交差点で終わっている。平成7年(1995)、ここ「春日西」から葛城市當麻町の長尾神社までの約7.4kmの区間が、国によって歴史国道に選定された。そういうう意味では,ここ「春日西」交差点が竹内街道の出発地点といえる。案内板が建てられ「竹内街道」と書いた石柱が立っています。

 飛鳥戸神社(あすかべ)と観音塚古墳  


近鉄・上ノ太子駅裏に飛鳥戸神社と観音塚古墳があるという。少し時間があったので寄ってみることに。駅裏を5分ほど丘陵側に登っていくと,民家の並ぶ住宅路に、飛鳥戸神社の扁額を掲げた石の鳥居が建っている。さらに200mほど登っていくと飛鳥戸神社だ。民家とブドウ畑の広がる段丘状の台地なかに、ポッコリとした森が見えるのですぐ分かる。
小さな神社で狭い境内だが、覆っている大きな樹木などの雰囲気は何か伝承のありそうな臭いを漂わせる。

この付近は五世紀末雄略天皇の時代、昆支王(こんきおう)という百済の王族が渡来し、大和朝廷からは後に「飛鳥戸郡」と呼ばれるようになる土地を与えられ土着した。その子孫が飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)であり、昆伎王を一族の祭神として祭祀していた。現在は、素盞嗚命(すさのおのみこと)が祭神となっている。
神社入口の石垣は、ぶどう畑の開発のため取り壊された周辺の古墳の石を利用したものという。
飛鳥戸神社からさらに背後の山側に上って行く。この丘陵周辺は見渡す限りブドウ畑一色。しかし千五百年ほど前は墓場だったのです。この丘陵地帯には、古墳時代の後期に小型の円墳が群集して築かれ、その数が多いことから「飛鳥千塚」と呼ばれた。しかし戦後のブドウ畑の開発に伴い、その大半は破壊されてしまったという。観音塚古墳は飛鳥千塚の中の、残された代表的な古墳のひとつです。
丘陵を上っていくと飛鳥新池という大きなため池に突き当たる。左上方を見上げると丸い小高い丘があり、上のほうに水色のフェンスが設けられている。そのフェンスの中に観音塚古墳があります。かなり急勾配で狭い階段を登りきると、案内板とポッカリ口を開けた石室が見え、中に入ることもできます。

古墳時代終末期、7世紀中ごろの貴重な円墳、「横口式石槨(よこぐちしきせっかく)」の代表的なもので国指定史跡となっている。この周辺に渡来し定着した飛鳥戸造一族の墓だと思われます。

詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする