山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

「西の京」から大和郡山へ(その2)

2014年05月20日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 喜光寺(きこうじ)  

菅原天満宮を南に5分ほど歩けば、車が多く騒々しい国道308号線沿いに出る。国道沿いを西に少し歩けば、喜光寺の新しい赤っぽい南大門と黒っぽい大きな屋根が見えてきます。
この本堂は養老5年(721)の創建だが、現在のものは室町時代の天文13年(1544)に再建されたもの。二階建てのように見えるが、実際は「裳腰(もこし)」付の単層の建物です。東大寺大仏殿のモデルにされたそうで、よく見れば似ているようでもあります。
本堂前には沢山の鉢が並べられている。喜光寺は「蓮のお寺」として有名で、境内には約100種、200鉢のさまざまな品種の花蓮の鉢があるそうです。極楽浄土の蓮の花の後ろに浮かび上がる本堂は、西の京の撮影スポットの一つでもあるそうだ(シーズンは人が多すぎスポットにならないとか・・・)。蓮の花は、6月下旬から8月上旬までが見頃。

 垂仁天皇陵(宝来山古墳)  



喜光寺から国道308号線と阪奈道路を渡り南へ歩いていると、満々と水をたたえた池に囲まれた森が現れる。宮内庁が垂仁天皇の「菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)」に治定している「宝来山古墳」です。田園の広がる中に、水鳥の戯れる広い周濠とその中に浮かび上がる厳かな佇まいの古墳。その姿から神仙境にある”宝来山”の名がつけられた。
第10代祟神天皇の第三子といわれる11代垂仁天皇はベールに包まれた謎の4世紀の天皇で、『日本書紀』、『古事記』に記される事績には史実性に乏しい内容が多い。年齢も140歳(『日本書紀』)、153歳(『古事記』)、139歳(『大日本史』)と記され、その実在性を疑問視されるが・・・。

御陵の東側の広い周濠の中に浮かぶ小いさな島がある。これは田道間守(多遅麻毛理)の墳墓とされている。田道間守って?、初めて聞く名前です。
日本書紀によると、垂仁天皇から「常世の国から不老不死の霊菓、非時香菓を探してくるように」の命を受け、苦難10年やっと日本に持ち帰ってきたが、天皇はすでに1年前に亡くなっていた。持ち帰った枝を天皇の御陵に捧げ、その前で悲しみのあまり泣き叫びながら死んだという。垂仁天皇は殉死を禁止したはずなのですが・・・。
非時香菓は「ときじくのかぐのこのみ」といわれ、橘(みかん)の実のこと。その葉が寒暖の別なく常に生い茂り栄えるので、古くから長寿瑞祥の樹として珍重されていた。またその果実は菓子のルーツとされ、今では田道間守は「菓祖神」として菓子業界の信仰を集めているそうです。

垂仁天皇陵(宝来山古墳)の周辺は田園が開け、散歩道「歴史の道」になっており散策に最適な場所。この時期、黄色い菜種の花が綺麗です。とおくに霞んで見えるのは若草山や春日山。夜になると東大寺二月堂の常夜灯が見えるそうです。春うらら、散歩道を気持ちよく歩いていくと唐招提寺や薬師寺さんです。

走っている近鉄電車も写真に入れようとしたが、俺の腕では難しいナァ・・・

 唐招提寺  


井上靖の小説『天平の甍』で有名な唐僧・鑑真和上によって建立された私寺。聖武天皇の招きに応じ苦難の連続の末、唐から日本にたどり着いた鑑真は、東大寺で5年を過ごした後、朝廷からここの土地(新田部親王の旧宅地)を譲り受け、戒律を学ぶ僧侶たちの修業の場としての道場を開いた。これが唐招提寺の起源です。
他の寺院の多くが火災、兵火などで焼失、そして再建などを繰り返したのに対して、この唐招提寺は若干の改修・補修はあるものの、当時のままの様子を現存さす貴重な存在となっている。その黒錆びた色は歴史の重みをしみじみと感じさせてくれます。この後訪れる薬師寺とは対照的です。

南大門を入ると、広く真っ直ぐな参道が伸び、その正面にたたずむのが国宝の金堂です。これぞ『天平の甍』!。井上靖さんも、ここで立ちすくみ作品名が浮かんだんでしょうか?

内部には入れないが、外から覗いて拝観するようになっている。堂内中央に本尊・廬舎那仏坐像が、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の三体が安置されている(いずれも国宝)。やや薄暗い中で、3メートルを超える仏さんに見下ろされると威圧感を感じる。しかしその眼差しをしみじみ見ていると、何か安らぎを受けるのです。どのお寺でもそうだが、写真を撮れないのが残念です。写真集やネットの写真を見れば済む話ですが、どの角度で、どの部分に感銘するのかは個人々によって違います。フラッシュ禁止で撮らせて欲しい!、仏さまのお慈悲で、「どうぞ、お写真を!」とはならないものでしょうか。

大屋根の左右には鴟尾(しび)が飾られている。奈良時代のものは沓(くつ)の形に似ていることから「沓形(くつがた)」とも呼ばれる。その後鴟尾は、建物を火災から守るためとして魚形に変化し鯱になっていく。戦国時代に鯱はとくに城郭建築に使われるようになり、名古屋城の金の鯱は特に有名。

御影堂の前を右手に進んで行くと、樹木に囲まれやや薄暗くなった小道の脇に、古びた今にも崩れそうな土塀が続く。さっきまでの境内の雰囲気とちゃっと違った空気が漂う。「鑑真和上御廟」と書かれた、瓦屋根の古びた小さな門をくぐると、さらに雰囲気が一変する。直立する杉木立としっとりと艶やかな青苔の広がる静寂な世界。否が応でも気が引き締まります。
青苔の敷き詰められた中の小道を直進すると、そこが鑑真和上の墓所です。小高くなった墳丘の上に塔が建てられている。周りを一周でき、墳丘の斜面にもみずみずしい青苔が覆っている。この下に鑑真さんは眠られているんでしょうか?。
コメント
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