薬師寺の金堂
高田好胤管長さんらの努力で昭和51年(1976)4月に再建された金堂。二重の建物だが、「裳階(もこし)」が付いているため四重に見える。裳階の中央が一段浮き上がっているのが特徴的。東大寺金堂や平等院の鳳凰堂にも見られるという。その均整のとれた美しさは「竜宮造り」と呼ばれているそうです。
金堂内部には、中央に本尊の薬師如来座像、その右に日光菩薩像、左に月光菩薩像の薬師三尊像(白鳳時代、いずれも国宝)が祀られており、間近に見ることができます。高さ254.7cm、黒くつややかな薬師如来さんは、その両手の表情が印象的でした。どんな病気でも癒すことができるという仏さん。左手は、掌の上に薬壷を持っておられる様子。右手は、手首をかかげ、親指と人差し指で円を作り、”どんな病でもオッケーだよ!”とささやいていおられるようです。
薬師寺は、680年11月天武天皇が后・鵜野讃良皇后(うののさらら、後の持統天皇)の病気平癒を祈願するため「薬師如来」の仏さんを造り、それを安置する寺院として薬師寺の建立を発願されたことが起源とされる。その場所は飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿町)の地ですが、和銅3年(710年)の藤原京から平城京へ遷都とともに薬師寺も飛鳥から平城京の右京六条二坊(現在地)に移転された。薬師如来さんのご加護があってか、天武天皇の皇后さんは病から回復、後に持統天皇となってご活躍されることに。
薬師寺の西塔
薬師寺の伽藍はほとんど兵火・雷火や地震・台風等で消失、そして再建を繰り返してきた。現在、奈良時代からの建物は焼け残った東塔だけです。薬師寺の顔だったその東塔だが、平成21年(2009年)より解体修理中で、現在は覆屋に覆われており、平成31年(2018年)の春までその姿を拝むことは出来ない。
「東塔」がベールに包まれているので、対称位置に建つ西塔で想像するしかない。西塔は享禄元年(1528年)に戦災で焼失し、昭和56年(1981)に伝統様式・技法で再建されたもの。
六重の塔のように見えるが、実際は三重の塔。各階に裳階(もこし)と呼ばれる屋根が取り付けられているためです。塔のテッペンに細長い相輪(そうりん)た立つ。実はこれが卒塔婆で、その基部へ仏舎利を納めた。
”あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり”(万葉集の一節)
奈良の枕ことば「青丹良し」は、西塔の連子窓に使われている青色、扉や柱に使われている丹(に)色からきているそうです。東塔もそうか、といえば違うようだ。東塔の連子窓は、度重なる修復時に白壁に変えられてしまったという。その他、屋根の反り、基檀の高さなど東塔と異なる部分もあるようです。
玄奘三蔵院の中央に建つ玄奘塔
境内のの北側に、玄奘三蔵のご頂骨を真身舎利とし祀る玄奘三蔵院が平成3年(1991年)に建てられた。
玄奘三蔵とは、あの「西遊記」でお馴染みの三蔵法師。孫悟空、猪八戒などは架空の人物だが、三蔵法師さんは実在したお坊さん。何故、三蔵法師と薬師寺は関係あるんでしょう?。
以下は薬師寺公式サイトからの要約です。
玄奘三蔵は、27歳のとき国禁を犯して密出国し、草木一本もなく水もない灼熱のなか、砂嵐が吹きつけるタクラマカン砂漠を歩き、また、雪と氷にとざされた厳寒の天山山脈を越え、時に盗賊にも襲われる苛酷な道のりを天竺(インド)を目指して旅します。三年後に、ようやくインドにたどり着き、中インドのナーランダー寺院で戒賢論師に師事して唯識教学を学び、インド各地の仏跡を訪ね歩きました。17年間にわたりインドでの勉学を終え、帰国後は持ち帰られた経典の翻訳に専念、その数1335巻に及ぶという。玄奘三蔵の教えの流れを継承している宗派が法相宗です。現在、薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の始祖に当たる。
回廊に囲まれた玄奘三蔵院の中央に八角堂の塔があります。これが玄奘三蔵の舎利(分骨)と坐像を安置している「玄奘塔」です。内部には入れず、外から見て回るようになっている。
薬師寺・公式サイトに「昭和17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が土中から玄奘三蔵のご頂骨を発見しました。その一部が昭和19年(1944)に全日本仏教会にも分骨されましたが、戦時中でもあり、埼玉県岩槻市の慈恩寺に奉安され、その後ご頂骨を祀る石塔が建てられました。薬師寺も玄奘三蔵と深いご縁のある事から、遺徳を顕彰するため全日本仏教会より昭和56年(1981)にご分骨を拝受し、平成3年(1991)玄奘三蔵院伽藍を建立しました。」とあります。”日本軍が土中から骨を発見した”とあるが、どうして玄奘三蔵の骨を発見できたんでしょう?。これは明らかに盗掘、略奪の類ではないでしょうか。
玄奘塔は回廊で囲まれ、回廊の北側で「大唐西域壁画殿」という建物で繋がっている。このに壁画殿には、日本画家平山郁夫が30年をかけて制作したといわれる「大唐西域壁画」が描かれている。玄奘三蔵の17年間にわたる求道の旅を13枚の絵に描いたものです(私は何にも感じなかったのですが・・・)。
休ケ岡(やすみがおか)八幡宮
南門を出、小橋を渡り孫太郎稲荷神社の横を抜けるとすぐ休ケ岡八幡宮に出会う。薬師寺の守り神を祀るとされているから、ここも薬師寺の境内か参道になるのだろうか?。
平安時代前期の寛平年間(889~898)に薬師寺別当栄紹によって、大分県宇佐八幡神社からこの地に、薬師寺の鎮守神として三柱の神像が勧請祭祀されたのが始まりとされる。僧形八幡神像、神功皇后像、仲津姫像の三神像です。日本最古の木彫神像なので、現在は国宝として東京国立博物館に預けられているそうです。現在の社殿は慶長8年(1603)の建物で、豊臣秀頼の寄進によるもの。他に瑞垣門・楼門・中門なども有ったようだが、地震で崩壊し無くなったようです。
仏さんも神さんの守護に頼らなければならなかったのでしょうか?。
入口に掲げられた「薬師寺休丘八幡宮縁起」の末尾には、次のように記されている。
「明治以後は神仏が分離され、一寺院が神社を管理している例は少ない。将来はさらに神域を整備し、楼門などの復興を含め、本地垂迹・神仏習合の日本古来の信仰の姿にかえすよき信仰の道場として復興したいと念願している」
本末転倒されないよう。明治の初めのように、神社によって寺が管理される、あるいは寺が破壊される時代が来ないことを願います。
撮影スポットの大池
薬師寺で拝観料を払うとパンフレットをくれます。このパンフレットの表紙の写真は、池を前にして金堂、東西の塔が佇み、その背後に若草山が連なる。あまりにも有名な奈良の観光ショットで、よく見かけます。この撮影場所が近くにあるというので、たち寄ってみることに。
薬師寺から近鉄の踏み切りを西に渡る。住宅街の中を10分ほど、南へさらに西の丘陵へ少し登れば大きな池に出会う。これが「大池」で、万葉集では「勝間田池」と詠われている。医療センターの前あたりが絶好の撮影スポットらしく、季節や時刻によっては多くの写真マニアが集まるそうです。でも誰もいませんでした。
この場所から見る大池越しの遠景は、さすがに絵になり、奈良を代表する風景の一つとなっている。若草山の山焼きの写真の多くがこの場所から撮影されているそうです。
しかし残念なことに、現在は邪魔者が全てを台無しにしている。東大寺大仏殿の屋根、興福寺五重塔も見えません。東塔の完成する2018年の春まで待つしかないようです。
詳しくはホームページを