山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

伏見城と明治天皇陵 3

2017年10月29日 | 名所巡り

2017年9月29日(金)今は明治天皇御陵となっている旧伏見城周辺を歩く

 伏見桃山城運動公園  



桓武天皇陵入口まで戻り、東への道を進む。100mほどで伏見桃山城運動公園の入口ゲートです。ゲート奥は広い駐車場ですが、今日は平日のためか車は見当たらない。
明治天皇陵背後のこの丘陵地に、昭和39年(1964)春、近鉄によって大規模遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が開園した。ところがバブルが崩壊し遊園地ブームが去り、2003年1月閉園する。その跡地が京都市によって「伏見桃山城運動公園」として整備されたものです。

このお城は、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」のシンボルタワーとして建てられた。2003年に遊園地は閉園し、お城も取り壊すことになった。ところが地元から保存運動が起こり、結局京都市に無償贈与され、京都市の施設として存続し現在に至っている。伏見の町を造るきっかけになった伏見城は取り壊され今は無く、その領域に明治天皇陵が居座っている。伏見の住民にとっては、たとえ擬似とはいえ伏見のシンボルとしてお城を残してほしかったのでしょう。
五重6階の大天守と三重4階の小天守、櫓門などが鉄筋コンクリートで造られた。この場所は、伏見城御花畑山荘と推定されている場所で、かっての本丸の位置とは異なる。
「伏見桃山城」という名は遊園地用に近鉄が付けた名称で、歴史用語ではありません。豊臣秀吉・徳川家康の「伏見城」とは全く別のものです。別名「近鉄城」。

運動公園となっているだけに、野球場、多目的グランド、体育館などが設置されている。お城をバックにして野球するのもよいですね。城に向って打て~。
平日のせいか、どの施設も閑散としていたが、体育館裏のグランドでは、おじさん、おばさん達がゲートボールではしゃいでいました。

なお、現在は耐震性の問題から城の中へは立ち入り禁止になっている。外から見上げるしかありません。映画やドラマのロケ地撮影等に利用されているそうです。
この周辺は「桃山」と呼ばれるが、現在は桜の名所で、毎年春になるとその桜が満開になって、多くのお花見でお城周辺は大変賑わうそうです。今は閑散としていますが。

 伏見北堀公園  



野球場を北側に下っていくと体育館があり、体育館と道路を挟んだ斜め向かいに清涼院(せいりょういん)という小さなお寺があります。現在は浄土宗知恩院派の寺院(尼寺)ですが、秀吉の死後に伏見城に入った徳川家康が愛妾お亀のために建てた庵が起源とされている。お亀さんに子供が生まれ、「五郎太丸」と名付けられた。この五郎太丸こそ、後の尾張藩初代藩主・徳川義直。
本堂にはお亀さんの像と五郎太の青年時代の像が安置されているそうです。狭い境内を周ったが、歴史を示すものは見つけられなかった。入口の立派なサルスベリの木だけが印象に残りました。京都市指定保存樹だそうです。
現在の町名に、”亀”、”五郎太”が遺されているのは、さすが歴史の町・伏見だけある。

体育館脇が伏見北堀公園の入口です。伏見北堀公園は伏見丘陵の北側に、運動公園に接して造られた東西600mもある細長い公園。公園といっても娯楽施設があるわけではない。池と、遊歩道と、青々とした樹木が生い茂っているだけです。ファミリーで楽しめるというより、中高年の健康増進と憩いの場所となっている。
伏見北堀公園は、伏見城北側にあった外堀の遺構を利用したもの。窪んだ地形に細長い池、お城の堀だったということがよく分かる。今日、見て周ったなかで一番伏見城の面影を偲ばせる場所でした。

伏見北堀公園の東端から坂道を上り、右に折れると三叉路の突き当たりになる。この三叉路を左へ行けば古御香宮へ、右へ行けば仏国寺です。
その三叉路の突き当たりに「黒田長政下屋敷跡」の石柱と案内板が設置されている。秀吉は、伏見城の傍に全国の大名の屋敷を営ませた。大名とその妻子は帰国を許されず、常住を義務付けられたそうです。この辺りに、黒田官兵衛、長政親子の下屋敷があったという。参考地となっているが。

 古御香宮(ふるごこうぐう)と仏国寺  



三叉路を左に進み100mほど下ると,右手に古御香宮社の参道入り口が見えてきます。坂道の参道を登っていくと、鳥居が建ち,その奥に小さな本殿が見える。この神社は,秀吉の伏見城築城の折,北東の鬼門の方角にあたるこの地に鬼門除けの神として,御香宮神社(伏見九郷石井村、現在の伏見区御香宮門前町)の神を勧請し本殿を建てたのが始まり。しかし秀吉の没後の慶長十年(1605)、家康が城下町の人心安定のため、再び 元の地にに戻した。そこから「古御香宮(ふるごこう)」と呼ばれる。1868年、鳥羽・伏見の戦いの時には,御香宮神社の境内が薩摩藩の屯所になったので、神霊は一時的に古御香宮に遷されている。御香宮神社と同じ安産守護の神功皇后ほか九柱を祀る。

参道から本殿の右側の雑木林は,「大亀谷(おおかめだに)陵墓参考地」として宮内庁が占領管理し,柵で囲われ立ち入り禁止になっている。「ひょっとしたら桓武天皇の埋葬地かもしれない」という理由です。室町時代の古図に,それをにおわす記述があるからという。また大正時代にこの周辺から,花崗岩の板材を組み合わせた「石棺」が出土し,近くの仏国寺境内に置かれているそうです。古御香宮社本殿前には,その石棺の台石といわれる大きな石板が敷かれている。桓武天皇と関係あるのでしょうか?。

「石棺」が置かれているという仏国寺へ寄ってみる。「石棺」は大正時代に発掘され、花崗岩の切石造りで、長さ2.60メートル、幅1.28メートル、高さ1.13メートル。天井石は4枚、底石は5枚、側石は4枚からなっていたという。
入口の案内板には、江戸初期の代表的茶人、作庭家で伏見奉行でもあった小堀遠州の墓もあるという。境内のほとんどが墓地で、多くの墓石が群立している。その墓石の中を、「石棺」と小堀遠州の墓を探し回った。しかし、結局どちらも見つけることができませんでした。

あきらめて帰途につく。仏国寺からの下り坂で前方を見ると、眺望が開け伏見丘陵がよく見えています。これは写真に撮らなければならないと、道脇の低い崖をよじ登る。ところがなんと、目の前に小堀遠州の墓が飛び込んできた。こんな墓地の端の端に置かれているとは。ただし仏国寺の管理外のようです。

仏国寺への坂道から眺めた伏見丘陵です。今まで丘陵全体を見渡せることができなかったが、ここでは見渡せます。中央の一番高い辺りに伏見城天守閣があったと推定されている。その向こう側に、現在明治天皇陵があります。

 大岩山展望所  



仏国寺から坂道を200mほど進んだ所で右の道に入る。ここはやや判りにくいので、標識に注意すること。道を進んでいくと、住宅街を抜け竹林が見えてくる。200mほど竹林が続く。道はよくないが、両側の竹が爽やかだ。

竹林を抜けると道はやや急になってくるが、展望が開けてくる。ソーラーパネルが広がり、反対側は山を削る採掘場となっており雰囲気は良くない。その上、道も悪し。この道は京都一周トレイルになっているのだが・・・。

さらに数百m歩くと大岩山展望所に着く。一気に見晴らしがきき、その景観に感動します。想像していた以上の眺めだ。
大岩山展望所は京都一周トレイル「伏見・深草ルート」にあり、2010年3月に設けられた。最近、京都の新夜景スポットとして若者に人気だそうです。ただし駐車場も見当たらず、道も狭い。車では、不可ではないが難しいのでは。

京都方面を眺める
1:東寺、2:愛宕山(924m)、3:嵐山、4:名神高速道路、5:京セラ本社ビル、6:ポンポン山(679m)

大阪方面を眺める。
手前に伏見丘陵全体が見え、お城が乗っている。中央に、はるか遠く微かに大阪市内のビル群が見えます。アベノハルカスも肉眼で確認できました。右奥の丘陵は、岩清水八幡宮のある男山と思われます。

大阪市内の中心を、300mm望遠ズームで撮ってみました。中央辺りに大阪城があり、中央からやや左に薄っすらとそびえる一番高い建物がアベノハルカスです。右側には梅田、中の島辺りの高僧ビルが群立しているのが見える。
大気が澄みビルなどなかった秀吉の時代、伏見城と大阪城はお互いに見通せていたのです。どのような感慨をもって眺めあっていたのでしょうか。


詳しくはホームページ

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