山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

近江・桜二景 1  (石山寺)

2018年06月19日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2018年4月3日(火)
4月に入り、関西は桜の最盛期を迎えました。ネットの開花情報を見ながら、どこにしようか思案。今まで探訪したことの無かった滋賀県に決める。その中でも代表的な観光スポットで、1日で周れる石山寺と三井寺に決めました。歩くのが目的なので、石山寺から三井寺まで歩こうかと考えたが、さすがにこの距離は無理なので京阪電鉄・石山坂本線を利用する。

 石山寺駅から表参道を  



滋賀県まで行くのにかなり不便です。私の場合、地下鉄・北浜から京阪電車に乗り換え、三条駅で京都地下鉄東西線の「浜大津」行きに乗り換える。浜大津で京阪電鉄・石山坂本線 に乗り換え、住宅地の中をまるで路面電車のようにのんびる走り、20分位で終点・石山寺駅に着く。家から2時間近くかかります。

石山寺駅からお寺まで約15分位歩かなければならない。瀬田川に沿って幅広い「石山寺境内参道」が設けられている。川沿いや参道脇は桜並木となっており、石山寺まで続いています。この時期、瀬田川の美しい景観と、満開の桜並木を堪能しながら気持ち良く石山寺まで散策できます。

石山寺前の河畔遊歩道から上流方向を撮る。日本書紀にも登場し、日本の道100選や日本三古橋の一つにも指定されている「瀬田の唐橋(せたのからはし)」は、近くなのですが新幹線の緑の鉄橋に遮られ見えない。川沿いには遊覧専用の船着場も設けられている。
石山寺前の広場に建つ石碑には「瀬田石山の静流」と刻まれていました。瀬田川の清流があってこそ、石山寺もひと際引き立つようです。

 境内図と由緒  



石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺院。山号を石光山、寺号は石山寺。西国三十三所観音霊場第13番札所です。

石山寺の起源についてWikipediaには次のように記されている。
「『石山寺縁起絵巻』によれば、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまりとされている。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金(金メッキ)を施すために大量の黄金を必要としていた。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峰山に祈らせた。金峯山はその名の通り、「金の山」と信じられていたようである。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現われ、こう告げた。「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである(だから大仏鍍金のために使うことはできない)。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」。夢のお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は、比良明神(≒白鬚明神)の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。そして程なく(実際にはその2年後に)陸奥国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めた。こうして良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたわけだが、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。」

その後、堂宇の拡張、伽藍の整備が行われ、平安後期までには現在の寺観が整ったという。石山寺は奈良時代から観音の霊地とされ、平安時代になって観音信仰が盛んになると、庶民だけでなく貴族や皇族の間でも信仰されるようになる。宮廷の女人たちの間では、都から近い景勝地として知られた石山寺の観音堂に参籠し、読経しながら一夜を過ごす「石山詣」が流行り、紫式部、清少納言、和泉式部などの日記や随筆に石山寺が登場している。
西国三十三所観音霊場第13番札所として、現在までその観音信仰は続いているようです。また石山寺は京の都から離れていたため戦火に遭うことなく、建造物、仏像、経典など貴重な文化財が今日まで遺されている。

 東大門(ひがしだいもん、仁王門、重要文化財)  




8時50分、東大門に到着。瀬田川に東面しているので「東大門」と呼ばれるのでしょう。それほど雄大ではないが、入母屋造、瓦葺き、三間一戸の八脚門で均整がとれ風格を感じます。建久元年(1190)、源頼朝の寄進によって建立されたが、その後安土桃山時代の慶長年間(1596-1615)に、豊臣秀吉の側室・淀殿によって大規模な修理改造が行われています。それが現在の門です。明治40年(1907)に重要文化財指定。

門の左右には仁王像が睨みをきかせている。そのため「仁王門」とも呼ばれる。東大寺・南大門の金剛力士像を彫り上げた、鎌倉時代を代表する仏師・運慶とその息子・湛慶の作。南大門ほどの巨大さは無いが、身近に見れるだけに肋骨や両腕のリアル感、睨みの顔相などに凄みを感じます。
吽形(左)の像の背後に大きなワラジがぶら下げられています。巡礼者を歓迎しているのでしょうか?。

 境内参道  




東大門を潜り中へ入ると、真っ直ぐな参道が200mほど伸び、両側には、法輪院・法性院・白耳亭・大黒堂などが並ぶ。桜のトンネルというほどではないが、頭上を覆うピンクの桜が、風に揺られ桜吹雪となって歓迎してくれます。またこの参道にはキリシマツツジが植えられており、1ケ月後には綺麗な花を咲かせるという。
この参道の奥が受付なので、そこまでは無料で散策できる。といっても、地元の人だけでしょうが・・・。
桜と青葉の美しい境内参道の突き当たりに拝観受付所があります。ここで拝観料600円支払い、中へ入る。
拝観受付所を通ると、すぐ右手にゴツゴツした岩場が見える。子供達が岩場の穴を潜って楽しんでいます。「くぐり岩」の案内があり、天平時代からのものだそうです。
穴を潜ると願い事が叶うということなので、私も潜ってみました。2mくらいで、中腰になり頭上を注意しながら潜り抜ける。あまり気持ちのよいものではありません。

くぐり岩の対面に明王院があります。この明王院の門前に、注連縄と御幣に飾ら、竹菰で覆われた石が置かれている。傍の案内板に「比良明神影向石(ひらみょうじんようごうせき)」とある。聖武天皇より東大寺大仏建立に必要な黄金の調達を命じられた良弁僧正が、ここの岩の上で吊をしていた近江の地主・比良明神に出会い、目的を達したという。



 観音堂・毘沙門堂  





明王院の向かいにかなり高い石段が見えます。この石段の上に石山寺の中心伽藍、本堂や蓮如堂、御影堂、多宝塔などがある。なので高齢者といえどこの石段を避けるわけにはいかない。お寺には階段はつきものです。数えてみたら66段ありました。

白装束の巡礼さん達が登っています。西国三十三所観音霊場の中でも著名なお寺だけある。さすがに菅笠に草鞋履きという姿でなく、白帽子に運動靴でした。

石段を登りきると広場です。まず右手に2棟のお堂が並ぶ。手前が観音堂で奥が毘沙門堂。
観音堂内部を覗くと、沢山の小さな観音像が並べられている。これは石山寺の本尊・如意輪観音を中心に、西国三十三所観音霊場の観音さんが勢ぞろいしている。この観音堂にお参りすれば、西国三十三所観音霊場巡りしたことになるのでしょうか。
宝形造りの屋根をもつ毘沙門堂には兜跋毘沙門天(平安時代、重要文化財)が祀られている。兜跋毘沙門天を信仰していた紀州の藤原正勝が安永2年(1773)に建立したもの。

 御影堂・第一梅園「薫の苑(においのその)」  



毘沙門堂の奥に、これも宝形造りの御影堂(重要文化財)が建つ。弘法大師空海と石山寺第三代座主・淳祐内供の像が安置されている。淳祐内供は菅原道真の孫にあたり、石山寺の経典や聖教の整備を行い多くの著作を残された座主。扉の格子越に撮ってみました。弘法大師の像らしい。
左に見えるのが、天然記念物となっている「硅灰石(けいかいせき)」の岩場。


御影堂の右脇を進むと第一梅園への入口となっている。石山寺の境内には3つの梅園があります。その中で、この第一梅園が一番広く最も整備され、「薫の苑(においのその)」と名付けられている。

シーズンを過ぎた梅園を訪れる人は誰もいてません。花期を終えた梅の木は、青葉をつけるでもなくむき出しの枝を広げるだけで、どこか物寂しさを感じさせます。
梅園の向こうに見えるオレンジ色の屋根は月見亭です。早春には”梅見亭”となるんでしょうね。

 石山寺硅灰石(けいかいせき、天然記念物)  



階段を登った本堂前の広場に戻る。

広場の正面に見える灰色の巨岩の壁が、ひと際目に付きます。これが「石山寺」の名前の由来ともなった「硅灰石(けいかいせき)」の岩盤。岩盤の上に多宝塔が見える。石山寺そのものがこの硅灰石の岩盤の上に建っているそうです。

「硅灰石は石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したものです。この作用によって通常は大理石となりますが、この石山寺のように雄大な硅灰石となっているのは珍しいものです」と書かれている。大正11年3月に国の天然記念物に指定された。また日本の地質百選にも選定されています。

 蓮如堂(重要文化財)・本堂(国宝)  



広場の左手には、蓮如堂と本堂が前後して建つ。手前の蓮如堂は、右上方の岩盤上に建つ三十八所権現社の拝殿として、慶長7年(1602)に建てられた。明治以降に、蓮如上人6歳の御影や遺品を祀ったことから蓮如堂と呼ばれるそうです。受付で頂いたパンフには「蓮如上人の母が石山観音の化身だといわれるので、その形見と伝える蓮如鹿の子の小袖を安置している」と書かれています。

蓮如堂の横から階段を登り本堂へ。階段を登ると、正面に紫の幔幕で飾られた小部屋がある。「源氏の間」と呼ばれ、筆をとる紫式部像と映像を写すモニターが置かれています。
紫式部は、高貴の人しか使用できないこの部屋に籠もり、中秋の名月を眺めながら「源氏物語」の構想を練ったという。ボタンを押すと映像が流れ説明してくれます。

本堂と呼ばれる建物は、三つの建物からなる複合建築。右側の、奥行き柱間四間分が「正堂(しょうどう)」と呼ばれ、本来の本堂に当たる部分。その内陣には本尊の如意輪観世音菩薩が祀られている。
紫の幕の垂れた一間部分が「合の間」。合の間の東の一部が「源氏の間」となっている。左側の奥行き四間部分が「礼堂(らいどう)」。礼堂には自由に入れるが、右側の内陣に入るには拝観料300円が別途必要です。この礼堂は、山の傾斜地に後から付け足されたので清水寺、長谷寺などと同じように懸造(かけづくり、舞台造り)となっています。廻廊がめぐらされているので、そこに立てば樹木の茂る境内を見下ろすことができます。

現在の正堂は、承暦2年(1078)の火災焼失後、永長元年(1096)に再建されたもので、滋賀県下最古の木造建築物だそうです。合の間と礼堂は淀殿の寄進で慶長7年(1602)に増築されたもの。

 三十八所権現社・経蔵・鐘楼  



本堂の右上、天然記念物に指定されている硅灰石の岩盤上に建つのが「三十八所権現社本殿」(重要文化財)。切妻造りの檜皮葺きの屋根は、前面が幅広く反りが美しい。これを「流造り」というそうです。天智天皇までの歴代天皇を祀る石山寺の鎮守として慶長7年(1602)に建立されました。

三十八所権現社の裏に階段があり、その上に校倉(あぜくら)造りで高床式の「経蔵」(重要文化財)が建つ。桃山時代の16世紀後期に建立され、かって石山寺の貴重な経典類を収納してきた建物です。
高床式の床下に座布団が敷かれた岩が見えます。「安産の腰掛石」とあり、「昔からこの岩に座ると安産すると言い伝えられています」と案内されている。

経蔵から右へ行き、少し下がると重要文化財の鐘楼が見える。鐘楼は源頼朝の寄進で建立されたと伝わっているが、説明板には「様式や木材の風触から、鎌倉時代後期のものと考えられています」とあります。現在の鐘楼は、昭和28年(1953)からの解体修理で復元されたもの。
白漆喰壁の袴腰が美しく、その上に鐘(これも重要文化財)が吊るされた上層がのる。下層から撞木を引いて鐘を突くのは珍しいそうです。



 多宝塔(国宝)  



経蔵の後ろに細長い階段が見え、その真上に美しい塔が建つ。これが国宝の多宝塔。鎌倉時代初頭の建久5年(1194)に、源頼朝の寄進により建立されたとされる。日本で最も古い木造多宝塔だそうです。
ここには鎌倉時代の仏師・快慶による大日如来坐像(重要文化財)が安置されている。正面の金網の隙間から覗き撮りしてみました。像高102cmの寄木造りで、表面に漆を塗り、眼には玉眼がはめられているそうです。

屋根の反りが美しく、均整のとれた塔です。説明板には「多宝塔は、下層が方形、上層が円形の平面に宝形造の屋根をのせた二重の塔です。石山寺多宝塔は建久5年(1194年)に建立されたもので、多宝塔の中でも、最も優れて美しい姿をしており、上下左右の広がりがきわめて美しく洗練され、均斉のよくとれた建築です。
また、内部の柱や天井の廻りなどの壁面には仏像や草花などの極彩色の絵が描かれています。昭和26年に国宝に指定されました。」とあります。

多宝塔前から見下ろした本堂前の広場と硅灰石の岩場。

多宝塔の左側に、桜とミツバツツジに覆われた二基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建つ。右が源頼朝、左が亀谷禅尼の供養塔と伝わっている。亀谷禅尼は、源頼朝の第二の姫の乳母で、剃髪後石山寺に入り「石山の尼」と呼ばれ、石山寺の再興に大きな役割を果たした。亀谷禅尼の請により、源頼朝は多宝塔、東大門、鐘楼などを寄進しています。

 月見亭・芭蕉庵  



多宝塔から右(東)方向へ進むと、細長い平屋建ての建物に出会う。これは「芭蕉庵」と呼ばれる茶室。俳人・松尾芭蕉は元禄年間(1688~1704)に、度々石山寺を訪れ滞在し数多くの句を残しています。

芭蕉庵とつながった形で突き出た枡形の建物が「月見亭」。平安時代後期、後白河天皇が行幸の際に建立したのが始まりと言われています。歴代天皇が観月のためお座りになる場所なので、中へは入れません。現在の建物は江戸時代に建てられたもの。
この時期は「桜見亭」といったところ。ここからの桜風景が、石山寺では一番美しい。

琵琶湖までは望めれないが、この高台から瀬田川の清流を見下ろしながら美しい桜風景を鑑賞することができます。「月見亭」の名のとおり、「近江八景 石山の秋月」として知られ、観月の場所として有名です。中秋の名月に当たる9月15日には観月イベント「秋月祭」が行われ、夜間の特別拝観もできるようです。
紫式部もここで名月を眺めながら「源氏物語」を書き下ろしていったのでしょうか。

月見亭のある高台から坂道を下っていけば第一梅園「薫の苑」です。梅、桜に月と、石山寺で一番安らぐ場所となっています。

 第二梅園・豊浄殿・光堂、牡丹園  



月見亭からさらに緩やかな坂道を登って行くと第二梅園「東風の苑」がある。梅と縁の深い菅原道真の孫が石山寺三代目座主を務めたことから、菅原道真の詠んだ和歌の中に出てくる「東風(こち)」の名前がつけられたそうです。

第二梅園の前、多宝塔の後ろに建つ紅いお堂が「心経堂」。第二梅園と心経堂との間の道を西へ歩く。左側には鮮やかな紫色の花をつけたミツバツツジが鮮やかで、右上に並ぶ薄ピンク色の桜と対照的です。高台のその桜の脇に建つのが豊浄殿。
石山寺の最も高いところにある宝物館(豊浄殿)。現在、「石山寺と紫式部展」が開かれ、石山寺に伝わる宝物や紫式部・源氏物語に関連した展示が行われている。毎年、春(3/18-6/30)と秋(9/1-11/30)に開催されるそうです。有料です。また豊浄殿の西隣に白い建物の「源氏文庫」がある。名前からして、源氏物語にまつわる資料を保管する倉庫でしょうか?。

豊浄殿から西へ歩く。周辺は散策路が整備され公園風になっており、お寺の境内とは感じられない。この辺りに第三梅園があるはずだが、どこだろう?。

やがて木造瓦葺のお堂が現れる。本堂と同じ懸造(かけづくり、舞台造り)で廻廊がめぐらされている。近くに寄ってみると東レ株式会社の慰霊塔が設置されていた。石山寺のサイトに「平成21年(2009)、石山を発祥の地とする東レ株式会社様によって寄進された堂宇です。鎌倉時代に存在したという「光堂」を復興したもの」とあります。


光堂の前の斜面一帯は樹木、草花が植えられ公園風に整備されている。境内図には「牡丹園」となっている。この時期は桜と薄赤色のツツジが目立ちます。
牡丹園の隅に紫式部の銅像が設置されている。

光堂のある高台から下へ降りていく。道の両側には桜、ツツジが咲き、そしてこの辺りには白い花をつけたユキヤナギが群生している。とてもお寺の境内の中とは思われません。
パンフには「紫式部ゆかりの花の寺」とあります。梅・桜・ツツジ・牡丹・花菖蒲・紅葉などが四季折々の花で、訪れる人を楽しませてくれます。
どこのお寺も、仏様よりお花で訪問客を増やそうとしているようです。かく言う私も、桜目当てに参ったのですが・・・。

 無憂園・西国三十三所観音 巡拝道  



谷底に降りると紅い鳥居の「八大龍王社」があり、その下方は広い庭園になっている。「菖蒲園」の木札が立つが、境内図では「無憂園」となっています。
公園はよく整備され、四季折々の草花が楽しめるようです。休憩所で、美しい庭園を眺めながら一服するのもよい。

境内図を見ると、公園「無憂園」の西側山腹に「西国三十三所観音霊場 巡拝道」が設けられている。巡拝してみることに。「無憂園」南端の紅い小橋が入口です。傍に「補陀洛山」と刻まれた石碑が置かれています。補陀洛山(ふだらくせん)は、南インドにあると伝説的に信じられている観世音菩薩の霊場。




巡拝道の両側に数m間隔で石仏が点々と置かれています。石仏には一番~三十三番まで順番に番号がふられている。この道を歩けば西国三十三所の観音霊場を巡ったことになるのでしょうか。

巡礼とはワラジに脚絆、菅笠に杖の姿を思い出すが、ここにはそんなイメージは全く無い。平坦な道で、ミツバツツジと青葉が爽やかで、宗教心の無い私には、巡拝しているとうより散策気分です。300mほど歩けば、八大龍王社近くの出口です。



石山寺の広い境内をほぼ一周した。無憂園を後にし、出口の東大門へ向います。
そ途中に、注連縄で飾られた岩があり「天智天皇の石切場」との案内板が立つ。それによると、石山寺の創建以前からこの周辺は石切り場として利用されていた。近年の調査で採石跡が見つかっている。そして天智天皇が建立した奈良・明日香村の川原寺中金堂の礎石に使用されていたという。近江から、瀬田川・淀川・大和川の水運を利用して運んだと想定されている。

 門前へ  



12時50分、東大門から外に出る。お土産物屋の並ぶ門前を瀬田川の方に行くと右側に整備された広い通りがある。お土産物屋も片側に並んでいます。入ってすぐ弘法大師ゆかりの「三鈷の松」が立っている。
通りを行くと、奇妙なモニュメントに出会う。「石山縄文しじみ貝塚碑」とあります。なるほど、シジミの貝殻をイメージしたもののようだ。

その横の道端に「史跡 石山貝塚」の石碑が建つ。説明板によると、この通り一帯の東西約20m、南北約50mの範囲で縄文時代前期(約6000~7000年前)の貝塚が見つかった。セタシジミ、ナガタニシなど20数種類の淡水産貝や、縄文式土器、石斧・石鏃などの石器類、人骨が出土している。
近くに石山観光会館があります。ここに出土した縄文式土器などが展示され、解説もされている。

石山貝塚の石碑から数十m歩くと、「松尾芭蕉句碑」が置かれている。松尾芭蕉は石山寺に度々寄寓し、多くの句を残したという。


詳しくはホームページ

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