山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

竹内街道ひとり歩き(その1)

2014年08月11日 | 街道歩き

 長尾神社から出発  


三月に太子町内の竹内街道を歩いたが、いつか全道を制覇したいと考えていた。日頃も良いので決行。通常は、大阪府堺市をスタートし、山越えから奈良県の葛城市を目指すのだが、逆コースをとることにした。全約30km、街道筋の名所旧跡を巡りながらだから体力的に、時間的にどこまで歩けるか見通しがたたない。堺市内よりは奈良県側を確実に歩きたい。堺市内は行ける所まででイイや、という理由で奈良県側の出発地・長尾神社より歩き始める。竹内街道の西の終点は紀州街道と交わる堺市大小路だが、さてどこまで行けるか・・・・。7時30分、ここ長尾神社をスタート、ひたすら西へ向かって歩きます。

近鉄南大阪線・磐城駅を出て少し南へ歩くと、住宅街の中に森が見える。ここが竹内街道の東の基点になる長尾神社です。
長尾神社の森の北側から西方の二上山へ向かって、綺麗に整備された道が伸びている。ここが竹内街道の東の基点になる。平成7年(1995)、ここ長尾神社から大阪府太子町の春日までの約7.4kmの区間が、国によって「竹内街道竹内峠」として歴史国道に選定された。この区間には「竹内街道」を示すノボリがはためき、道標が立てられている。

この辺りは、古き時代には竹内街道、長尾街道、横大路が交差する交通の要衝でした。大和盆地を横切る古代の大道「横大路」の西の基点。そしてここからさらに西へ竹内街道が伸び、海への出口難波津(大阪)へ続いている。長尾街道は、この交差点から南に行けば壺坂から吉野へ、逆方向の北へ行けば下田・王子を経て堺に通じている。交通の要衝であることから、長尾神社はこの街道を行き交う人々の守護神、いわゆる交通安全の神様としても信仰されてきた。


長尾神社から真っ直ぐ西へ、二上山に向かって街道が伸びている。道幅も広く綺麗に舗装整備され、旧街道という風情は感じられない。新興住宅と田園の入り混じったのどかな散歩道です。すがすがしい気分でスタートしました。

正面には二上山が、左に眼を向けると葛城・金剛の山々が連なっている。ここ大和盆地からあの山々の峠を越え、河内の国へ一人歩き。どこまで歩けるか?


 竹内集落へ  


緩やかな坂道を進んでゆくと、古風な民家が建ち並ぶ筋になる。この辺りが竹内集落でしょうか。かって伊勢詣で、長谷寺詣での街道筋として賑わい、茶屋・旅籠が軒を連ねていたという。
ここ竹内に母の実家があったという司馬遼太郎(1923~96)が幼少年期を過ごした所。名著『街道をゆく』は、その頃の幼児体験がもたらしたものでしょうか。「竹内峠の山麓はいわば故郷のようなものである」と書いています。

竹内集落の街道筋に「綿弓塚」と看板のかかった旧家風の家がある。造り酒屋だった旧家を改造した民家は資料館兼休憩所になっている。資料といっても、竹内集落の旧家の写真や説明、周辺の遺跡の紹介、そして芭蕉の説明など。それほど多くない。それより、歩き疲れた体を休めるのに丁度良い休憩所になっている。囲炉裏風のテーブル脇には木製の腰掛がおかれ、もちろんトイレもあります。時間に関係なく常に開放されているらしく、戸も無くオープンな施設のようです。係員もおらず、もちろん無料で出入りできます。
この休憩所の奥に広くない庭園があり、芭蕉の句碑が建てられている。松尾芭蕉がここ竹内に10日ほど滞在し、その時よんだ句が「野ざらし紀行」に収められている。
  ”綿弓や 琵琶になぐさむ 竹の奥”
芭蕉没後150年を経た文化6年(1809)、大和高田の俳人・西嶋紅園と脇屋愚口が、この句を記念して句碑を建てたものが「綿弓塚」として現在に残っている。
「綿弓」って何だろう?。ネットで調べると「繰り綿(=種をとっただけで精製していない綿)をはじき打って打ち綿にする道具。竹を曲げて弓形にし、弦として古くは牛の筋、のちには鯨の筋を張ったもの。弦をはじいて綿を打ち、不純物を除いた柔らかな打ち綿にするためのもの。唐弓(とうゆみ)。わたうちゆみ。」とあるが、ピンとこない。昔、農家で綿から糸にする作業で必要な道具なんでしょう。

芭蕉がひっそりとした竹林の奥に宿っている時、どこからともなく綿弓を弾く音が聞こえてくる。それが琵琶の音のようで、慰められたというのでしょう。
できることならば、休憩所の民家でその雰囲気を作り出して欲しい・・・。

綿弓塚を出、古い家並みの続く坂道を200mほどゆくと国道166号線に出会います。この国道166号線も竹内街道の一部です。この国道166号線が、竹内街道と併走し、あるいは街道をつぶして合体して建設され、大阪まで続いている。これが我が国最古の官道とされる「竹内街道」を解りづらくややこしくし、歩きにくくしている原因なのです。しかし車社会の現代で、古い街道筋をそのまま残すなんてできっこなかったのでしょう。ここからはしばらくアスファルト道を、車に注意しながらひたすら西へ向かって歩きます。


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