京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

京都「乙文」日本三大遊郭・島原を若主人と巡る

2023年09月03日 07時24分00秒 | 日記
 8月29日は、Otonamiの企画で島原にある創業約90年の老舗料理店「乙文」さんへ。
この日の参加者は7名。
少人数での開催がOtonamiのいいところです。

現在、島原で唯一営業されている置屋兼お茶屋"輪違屋"にも仕出し料理を提供されている料理店です。





先ずは2階の広間で「乙文」若主人から島原の歴史やシステムについての座学がありました。









日本三大遊郭のひとつに数えられる島原には京都の五花街とは違い美しさと教養を兼ね備えた"島原システム"最高位の太夫が在籍しているのが大きな特徴です。





太夫とは幕府から十万石の大名に相当する「従五位」の称号を与えられた芸妓の最高位に位置する特別な存在です。
(祇園祭長刀鉾のお稚児さんに与えられる官位と同じです。)

太夫を頂点に、天神、鹿恋(囲)、端女郎の中でわずか3%程しか存在していませんでした。



島原も過去に二度、街ごと移転を余儀なくされてきた歴史があります。

① 天正17(1589)に足利家家臣と言われる原三郎左衛門が豊臣秀吉の公許を得て万里二条(現在の二条柳馬場)に日本初の遊宴街を作り「柳町」と呼ばれ大いに賑わったそうです。

② 慶長7年(1602)には徳川家康の命で六条へと移転を余儀なくされています。
「六条三筋町」と呼ばれ、「柳町」と同様に賑わったそうです。

③ 寛永18年(1641)には京都所司代の命で現在地に移転しています。
以降、明治元年まで公権力により許可された唯一の傾城町(けいせいまち)となります。

「島原」は通称名で正式には「西陣屋敷」です。

「島原」の名称の由来も諸説あり、
① あまりに突然の引越の様子が、その前年に起こった「島原の乱」のようだったから、との説。

② 当時、何もなかった田原の中に突然、ポツンと島のように街が出来た為との説。

若主人のお話が終わり、ランチの時間です。







僕はオプションのお茶会風点心を頼んでいたので、ひとり別室に案内されました。












どの料理も手が込んだもので、約90年も地元で愛されてきた老舗料理店の実力を感じました。

第二部は、若主人解説による島原界隈散策です。




島原の東の玄関・大門です。





現在も唯一、置屋兼お茶屋として営業されている"輪違屋"です。
通称非公開ですが「京の夏の旅」で9月30日まで公開されています。





以前に女紅場(歌舞練場)があった場所です。
現在は福祉施設になっています。









島原住吉神社。

良縁に御利益があるとされ、地元住民から崇敬されている産土神社的な神社です。





東鴻臚館跡を示す石碑。

この付近には平安京の迎賓館施設である東鴻臚館があった場所です。



ここで、お友達の"ミモロちゃん"と遭遇しました。
暑い中、麦わら帽子をかぶって島原を散策していました。





島原開設当初から残る揚屋建築の角屋(重要文化財)です。

毎年の春と秋には定期的に公開されますが、こちらも「京の夏の旅」で公開されています。

新選組も宴会でよく利用していました。
新選組の支払いは"ツケ"がほとんどで、新選組の為に営業資金が不足する事態が度々あり、営業出来ない期間も長くあったそうです。

島原についての座学あり、散策あり、そして老舗店での美味しい食事、、、満足な半日でした。




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