京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

安養寺(吉水草庵)

2024年03月13日 09時25分00秒 | 日記
 3月8日の昼からは、円山公園の東(知恩院の大鐘楼のさらに上)に伽藍を構える安養寺を訪ねました。









伝教大師最澄が創建されたお寺で.吉水坊と称し、法然上人が30数年間ここを本拠に称名念仏を宣揚・親鸞聖人も入信したが、専修念仏弾圧で荒廃します。
至徳2年(1385)国阿が入寺し、時宗に改めて興隆、境内に子院六阿弥坊(中の重阿弥で赤穂浪士が円山会議を開いた。)があったが、明治後期に消失、今は本堂、書院、弁天堂と料亭「左阿弥」を残すだけとなっています。

山号慈円山が円山公園の名称のもとになっています。
かっては現在の円山公園を含む多くの土地が安養寺の境内地でした。



ご住職は御年95歳になられますがお元気で書院の説明をして下さいました。

しかし、広大な境内地を有する安養寺でしたが明治4年(1871)には、上知令によって六阿弥が建っていた安養寺の境内地が政府に没収されてしまいます。
勝興庵正阿弥の外に4庵が旧境内地の借地や払下げを政府に嘆願し運動したため、1874年明治7年(1974)には旧境内地の一部が払い下げられ、六阿弥は営業が続けられました。















「常盤ホテル」(現ホテルオークラ京都の前身)にお泊まりのニコライ皇太子は、日本の畳の間がお気に召されましたが、皇太子のお居間にあてられたお部屋は17畳、寝室にされた控えの間は20畳という広さです。

欄間や襖絵なども、禅寺の方丈にも負けないほどの豪華なつくりです。前田又吉は、ここに美術的な調度品をさりげなく置き、また部屋の仕切りには美しい着物を衣桁にかけて使うなど、日本情緒たっぷりに飾ったということです。
ニコライ皇太子が一目で惚れこんだのも、なるほどとうなづけます。そのお部屋が当時のままに、安養寺の書院として大切に保存されています。

しかし、明治24年(1891)には大津事件(おおつじけん)が起こり日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ (後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現・大津市)で警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷したされた暗殺未遂事件でした。

その時にニコライ皇太子が療養、休息されたのがこちらの書院で現在、安養寺の書院なのです。豪華なはずですね。

ニコライ皇太子は、明治29年(1896)に即位されましたが日本との間で、利害が対立して、明治37年、日露戦争が起こります。しかも敗退して、国内には革命への機運が盛り上がり始めます。















書院西側の窓からの景色は絶賛です。
今では樹木が成長してしまい、以前に比べて京都市内が見えにくくなっているのが残念ですが、、、





また、境内の墓地には芸舞妓さんのお墓が多くあるのが特徴です。





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