葛井寺を後にし、大阪府太子町にある叡福寺へと来ました。
山門に掲げられた扁額は岸信介元首相の筆によるものです。
聖徳太子自ら廟所として定められた磯長(しなが)廟は大和から河内に入った丘陵を利用した直径54.3mの横穴式石室を持つ円墳です。
叡福寺は、太子薨去後その霊廟を守る香華寺として僧坊を置いたのが始まりです。
推古30年(622)旧暦2月22日に薨去された後、その前日に亡くなられた妃・膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)と、2か月前に亡くなられた母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后と共に埋葬され、三骨一廟と言われるようになりました。
昨年は聖徳太子1400年大遠忌がコロナ禍の中行われ、叡福寺が所蔵されている寺宝や金堂内が公開されました。
金堂
享保17年(1732)の再建。
ご本尊は如意輪観音坐像、脇侍には不動明王と愛染明王がお祀りされています。
宝塔(重要文化財)
承応元年(1652)の再建。
内部は公開されていませんが、ご本尊は釈迦・文殊・普賢の三尊像で西面には金剛界の大日如来坐像がお祀りされています。
お寺の前には日本最古の官道と言われる"竹内街道"が通り、二上山の麓を抜けると飛鳥の地も近くにあります。
政争に明け暮れた飛鳥時代、、、聖徳太子はここ磯長の地で静かに永遠の眠りにつきたかったのかもしれないですね。