やめちまえ!
その昔、「俺たちの旅」というドラマがあったのさ。
主演は中村雅俊で津村浩介っていうんだが、まあ、自由奔放に生きているんだよ。その日その日楽しければいい、と。
友だちの田中健はオメダって呼ばれているんだが、好きでもない不動産会社で毎日悩んでしごとしているのだ。
で、浩介(中村)はいうんだよ、「やめちまえ、やめちまえ、好きでやってるんじゃないんだろ?だったら、やめちまえ」
オメダ(田中)は怒るのさ、そんなこといっていたら、定職に就けないだろ!って。がまんして、・・・
でも、刺さり続けるんだよ。浩介の言葉が、俺は好きでやっているんだろうか?って。
ここに、自己責任という言葉の重さがあるように思う。日本社会はそこが極めて希薄なのだ。
俺は自らの責任で選び取って、この仕事をしているのだろうか?
日本社会の自我は、自己責任を負うにはあまりに弱すぎるのだ。
みんな、だの、世間だの、職員室だのという世界の醸し出す空気!これに押しつぶされてゆくのだ。
仕事じゃないんだ、やめちまえ!好きでやってるんじゃないんだろう?
部活動は仕事ではない。
学校の外の人間にはこの事態が見えない。
では、内部の人間には見えるか?
答えは簡単。
「見えない」
ここがポイントだ。
部活動が仕事でない、ということを見ることは大変なことなのだ。
ここを理解しないと部活動の謎は解けない。
内田良という学者が代表だが、ブラック部活などとこの問題に挑んでいる。
しかし、僕から見ると、内田がかえって事態を見にくくしてしまっているとさえ見える。
そのくらい、厄介なのだ。
もう一度問う。
部活動は仕事ではない。しかし、仕事なのだ。これは何なんだろうか。
まず、この謎の意味が分からないと思う。説明しよう。
まず、外見上からいく。
学校には、学年、教科、分掌(教務課とか、生徒課・・・)がある。それぞれ、法的にも規定されたお仕事だ。よって、会議もある。
しかし、部活動は一切ない。
部活動の公的会議など存在しない。
辞令もない。任命されないんだよ。
もう一つ。教員評価だ。教員は管理職に勤務評価されている。
それは、「分掌」「教科」「学年」だ。それだけだ。
部活動はない。
勤務評価の対象ではないんだよ。部活動は。
特記事項で自分はこんなことをやったと、書きたければ書いてみな、という欄がある。
そこに書くだけだ。
要は教員評価として全教員に対象として要求していることでは、部活動はないってことだ。
これだけでたくさんだろう。部活動は仕事ではないのだ。
いやなら、断ればいいじゃないか。
かんたんだ、イヤだっていえばいいんだ。
私は最後の教員生活18年間、これに気づいて、管理職に名前を部活動の欄に入れさせなかった。
断ればいいのだよ。それだけ。
つまりだ!多くの人たちは好きでやっているのだよ。
断れば絶対に命令はできない!仕事じゃないから。
ところが、現実は、絶対に断れないのだ。ここに、部活動というものの謎のすべてがある。