
学年主任というポストを考えよう
福岡県筑前町の町立三輪中2年の男子生徒(13)がいじめを苦に自殺した問題で、自殺生徒の1年生のときの担任で、現学年主任の言動がいじめの原因となっていたことが判明した。学校側はその事実はみとめたものの最終的な自殺の原因となっていたかどうかについては、不明という態度をとっているというのである。
ちなみに、該当の主任先生の御年は47才だそうである。私はこれまで「学校の呪術」や「教育行政」というカテゴリイでみなさんが学年主任を考える道具をいくつも提供してきたつもりだが、いい機会なので整理してみよう。
身分制社会
そのさいに、学校が身分制社会であるという現実を見なければいけない。学校は近代社会ではないということだ。平等がないかわりに、身分間の収奪を基本とした互酬関係がある。身分制であるから、身分の平等など存在しない。なぜ、体罰が暴行罪にならないのか、かんがえてみればいい。体罰は、歴然と存在する。体罰が明確になるときは、身分制が破けたときだ。今回も、自殺さえなければ、該当教員の言葉の暴力など存在はしていないはずだ。
だから、こう考えればいいのだ。学校には、二重の統治がなされている。形だけ、中央が存在し、法体系が存在する。しかし、実際は封建制度という形式が生活を規律しているのだ。学校の規範の第一は、身分制における「恭順」である。その姿勢をとれず、和を乱すとき、共同体の〈外部〉という烙印を押される。そうなったとき、「百姓」は一気に「・」へと転落させられる。生徒間であれ、教員-生徒間であれ、同じだ。この身分に落とされたときすべてが許される。そこには、近代法だの、人権だのは存在しない。この学年主任にいじめているという感覚は存在しなかったに違いない。「むかつくやつ」「できの悪い生徒」への〈指導〉があっただけである。
考え違いをしてはならない。学校には授業料は存在しない。その代わりに存在するのが「年貢」である。「清掃」は奉仕活動ではない。「雑徭」だの「労役」なのだ。出席をとり、指導要録だの調査書という「戸籍」による管理こそがこれらの労役の自発性を担保しているにすぎない。
学年主任というポスト
学年主任には手当がつく。学年主任、生徒課長、教務主任には手当がつく。出世街道の振り出し口である。毎度書いているが、教科主任という私が重視しているポストは輪番制である。授業などその程度の位置づけである。
さて、学年主任はでは、どういう能力をもとに選任されるか?
まず、どんなにあたりまえでも確認しなければならない。試験はない。そして、では職能を客観的にでも査定されてなのかといえば、そんなものはない。何度も書いているのだが、少なくとも「学級経営」だの「教科指導」の内実ではないのだ。そんなものに現場は興味がないのだ。学級経営の能力だとしようか?一般の諸氏に伺うが、それはどうやって測定するのだ?大体、教頭でさえ、ほとんど学級経営など見ていない。いわんや校長にいたってをや、だ。
その学校に〈長くいる〉こと、適度の年齢であること、そして、教員のつきあいを〈まめ〉にこなすこと、組合ではないこと、基本はこれだけである。そして、これだけは現在の管理職でも測定できるのだ。また、組合員でも非政治的な人物は、そこからの上の昇進はない、つまり、長老格で現場の和を尊重する人物をガス抜きで登用はする。私はね、せめて学年主任にするんだったら、保護者と生徒の評価を加味しろ、と考えている。それだけでも、現在の学年主任の人事の半数以上が入れ替わるよ(笑)。そして、激震は県教育委員会にまでいくだろうね。彼らの梯子がガラガラ音をたてて落ちてしまうだろうねえ。学年主任だけではない。学校には職能という概念が存在しない。教科能力という概念も存在しない。あるのは、タテ社会という序列である。そこを考え違いしてはいけない。管理職については別所でかいたので、それを参考にしてもらえればいいが、学校の人事は収奪をするポストにつくそのタテの恭順関係の梯子で成り立っているのだ。現場を重視し、生徒との関係を重視したとき、当たり前だが、改変をしなければいけないことがでてくる。それがイヤなのだ。学校という世界は。
なぜか?
くどいが学校は伝統主義を支配の基本としたタテ社会、あるいは家産制社会だからだ。
以上の二点をあわせて考えてみよう。
こういうことになる。管理職は、学年主任を対生徒の学級指導の能力で選択し、任命しているのではない。彼らおよび教員の共同体の人間関係を伝統主義的に遵守できるかどうかがまず重要なのだ。共同体のなかの年長者こそがこのポストに就くのだ。その学年主任がたまたま(でもよくいるんですよ、こういうタイプの相手の心を読めないガキ大将タイプの毒舌教師は。今の職場にもいます!)何かが一本抜けていた。しかし、教師間の人間関係は問題ない。そのうえで、いったん任命した人間の問題をわかっていても、問題にできるだろうか。同僚間ではまず問題にできない。共同体にヒビがはいるからだ。理由はそれだけだ。私は共同体のソトにいるので、けっこう生徒から教員のとんでも情報は入る。しかし、通常は入っても、何もいえない。私はいざというときの戦闘のタネとしてメモっているけど(笑)(もちろん、これ、冗談ですよ)。
ましてや年齢が下の人間に指摘などできない。それは部活の先輩の汚点を後輩が指摘できるか、というレベルにおとしてもらった方が理解できる。また、校長はいったん任命してしまった以上はその責任をなるべくみとめたくない。それは、責任という意味ではない。共同体社会に責任などない。大体、校長は職員室村の共同体の県につながるレベルの彼らの伝統に従ったまでで、自身の意志で人事はしていない。しているがしていない。だから、学年主任という重職に就く、重鎮に意見や責めるようなことはいえない。そんな人間関係にヒビをいれるようなことは気兼ねしてできない、というレベルである。そして、外部が騒ぐことで、ようやく「ひょっとしてこれで俺が責任?」と考え始めるのだ。
これが現場の意識だ。学校の内部にいる限り、武士は百姓に責任は感じないのだ。あくまで、さわぎになり、お家に傷をつけたこと、その一点で責めを負うのだ。こうして今回の顛末がおこったのだ。
ところで、校長がいま何を考えているかおわかりだろうか、僕にはおそろしく、不謹慎であるのでいえない。![]()
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必修科目<未指導>問題(未履修の生徒には責任が無いのでこう呼びます。)ですが、
まず第一に、学習指導要領に従わなかった学校及び学校長に罰則規定・前例はあるのでしょうか。
というのも、要領は法律ではないからです。
建築基準法に違反した業者、安全基準・環境基準に満たない車を売った業者は罰せられます。
要領に違反した公教育者は、いかん?
第二問。もし、要領に法的な拘束力が明確でないなら、なぜ、<逸脱>校長たちは、それが「本校の特色だ」と開き直れないのでしょうか。
実際のところ、教員も、生徒も、保護者も、世界史を履修していようがいまいが、どうでもいいのです。
人々の関心は、「とにかく、このまま波風立てずに卒業・進学させてくれ」ということです。
安部首相も、生徒への配慮を公言しているくらいです。
この点で、サービスを提供している学校も、消費者たる生徒・保護者も利害・要求は一致しているのです。
ここが、安全基準・環境基準違反の業者のケースとの決定的な違いです。
つまり、この問題は「要領」をコケにされた文部科学省とその周辺の族議員のメンツ・プライドの問題でしかない、ということです。
違いますでしょうか?
以上、二点、
①「要領」の法的な位置付け
②「要領」に<従わない>で、<生徒・保護者のニーズに従う>学校の可能性
について、もしよろしければ、お教えください。
マスコミも、事件をあおるだけで、「要領」そのものの意義や確信の問題に触れません。
もちろん、職員室や教員集団も、せいぜい、いつもの「現場がわかってない」という程度の愚痴レベルです。
いじめ問題について先生としては
どう考えていますか?