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いない友だちの悪口をいう
![友だち幻想―人と人の“つながり”を考える (ちくまプリマー新書)](https://ecx.images-amazon.com/images/I/51l0yFMu7fL._SL160_.jpg)
私は前の記事で、菅野仁の『友だち幻想』を紹介しました。
そのなかで、菅野は、スケープゴートの理論を引きながら、その場にいない友だちの悪口を言い合うという現象を紹介していました。
これは、いまこの記事で問題にしている、手をつないで廊下を歩く女子生徒の姿と関係があります。
いずれも、これから書いていく、日本社会のなかの「ウチとソト」という構造がなせるわざだ、というのが、私がこれから提案しようとする仮説です。
ウチとソトの対立
日本社会の特質として、しばしばあげられ『現代社会』の教科書にも顔を出すのが、ウチとソトという理論です。日本社会は、自分のまわりの集団をウチとソトにわける。ウチというのは、一緒に生活をする集団です。
みなさんも
「ウチのクラス」とか「ウチのクラスの担任」
などという使い方で使ったことがあると思います。
このウチに対立するのが「ソト」です。ここで重要な指摘をしたいと思います。
「ウチ」というのは、上の図をみてもわかるように、ソトがあるから、存在します。ソトの存在がなければ、ウチは緊張をもって存在しないのです。もう少しいうと、ソトという存在、ソトという構造があるから、ウチがきわめて緊張度の高いものとして意識に映るのです。
ウチとソトの力学
ウチの人間関係は、ソトがあってはじめて緊密になる、と申し上げました。これは、言い換えれば、ソトの存在が厳然と存在することが、ウチの存在の緊密さを保障するということです。それは、言い換えると、ソトの排除の圧力が強力であることを前提にしてはじめて、ウチの結束は高まる、といってもよいでしょう。だから、ソトが消えた時、ウチも消えるのです。ウチがないのにソトだけあるなどということはあり得ないのです。
そういう意味ではこういうのが正解でしょうね。つまり、ソトとウチの構造がまずあるのです。個人の意識を超えて存在します。その磁場へと所属すると否が応でも、私たちは「ウチとソト」の世界にからめとられてしまうのです。目には見えない、「ウチとソト」という構造が、私たちの存在の以前に存在する。
だから、私たちは、まず教室へと入ると、自分がソトへと所属し、排除されるのではないか、という漠然とした不安に襲われるのです。
それは、まずその渦巻きがぐるぐると回っているからです。
同調圧力/排除の圧力
ウチの集団には、たえず同調圧力、つまり、
「いっしょだよねぇ?→そうだよ」
という相互確認の圧力が無限にかかってきます。それは、相手が「ウチ」かどうか、不安だからです。不安だから、たえず、同じウチなのか、どうかの試されが行われるのです。
「いっしょだよね」
「・・・????」
こうなったとき、外部への排除がはじまります。
それは、基本が攻撃です。敵対です。排除なのです。だから、ややこしい言い方ですが、「いっしょだよね」と確認しているということは、同時に、そうでない人間を排除する圧力がこの時点で発せられているということなのです。 「いっしょだよね」 この確認をしている時に、「・・・・」という思いをもった人は、気まずい疎外感を味わいます。そのときの感情は、たんなる無関心ではないはずです。 「のけもの感」 とでも呼ぶべきものです。
さて、ここまで説明をした時、なぜ、「手をつないで廊下を歩く姿の異常さ」が異常であり、異常であることが同時に消えているのか、が説明できるでしょうか?それは、次の文章でまとめて説明したいと思います。
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これは、いまこの記事で問題にしている、手をつないで廊下を歩く女子生徒の姿と関係があります。
いずれも、これから書いていく、日本社会のなかの「ウチとソト」という構造がなせるわざだ、というのが、私がこれから提案しようとする仮説です。
ウチとソトの対立
日本社会の特質として、しばしばあげられ『現代社会』の教科書にも顔を出すのが、ウチとソトという理論です。日本社会は、自分のまわりの集団をウチとソトにわける。ウチというのは、一緒に生活をする集団です。
みなさんも
「ウチのクラス」とか「ウチのクラスの担任」
などという使い方で使ったことがあると思います。
このウチに対立するのが「ソト」です。ここで重要な指摘をしたいと思います。
「ウチ」というのは、上の図をみてもわかるように、ソトがあるから、存在します。ソトの存在がなければ、ウチは緊張をもって存在しないのです。もう少しいうと、ソトという存在、ソトという構造があるから、ウチがきわめて緊張度の高いものとして意識に映るのです。
ウチとソトの力学
ウチの人間関係は、ソトがあってはじめて緊密になる、と申し上げました。これは、言い換えれば、ソトの存在が厳然と存在することが、ウチの存在の緊密さを保障するということです。それは、言い換えると、ソトの排除の圧力が強力であることを前提にしてはじめて、ウチの結束は高まる、といってもよいでしょう。だから、ソトが消えた時、ウチも消えるのです。ウチがないのにソトだけあるなどということはあり得ないのです。
そういう意味ではこういうのが正解でしょうね。つまり、ソトとウチの構造がまずあるのです。個人の意識を超えて存在します。その磁場へと所属すると否が応でも、私たちは「ウチとソト」の世界にからめとられてしまうのです。目には見えない、「ウチとソト」という構造が、私たちの存在の以前に存在する。
だから、私たちは、まず教室へと入ると、自分がソトへと所属し、排除されるのではないか、という漠然とした不安に襲われるのです。
それは、まずその渦巻きがぐるぐると回っているからです。
同調圧力/排除の圧力
ウチの集団には、たえず同調圧力、つまり、
「いっしょだよねぇ?→そうだよ」
という相互確認の圧力が無限にかかってきます。それは、相手が「ウチ」かどうか、不安だからです。不安だから、たえず、同じウチなのか、どうかの試されが行われるのです。
「いっしょだよね」
「・・・????」
こうなったとき、外部への排除がはじまります。
それは、基本が攻撃です。敵対です。排除なのです。だから、ややこしい言い方ですが、「いっしょだよね」と確認しているということは、同時に、そうでない人間を排除する圧力がこの時点で発せられているということなのです。 「いっしょだよね」 この確認をしている時に、「・・・・」という思いをもった人は、気まずい疎外感を味わいます。そのときの感情は、たんなる無関心ではないはずです。 「のけもの感」 とでも呼ぶべきものです。
さて、ここまで説明をした時、なぜ、「手をつないで廊下を歩く姿の異常さ」が異常であり、異常であることが同時に消えているのか、が説明できるでしょうか?それは、次の文章でまとめて説明したいと思います。
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