毎年、いじめのアンケートを実施しますと、全いじめ体験者の内の70%以上の人が
「いじめを見た」と答えています。そうです。見ているのです。
見てみぬふり
もちろん、そのなかで、多数、少なくとも半数以上の人が
「見てみぬふり」
をしていた。と答えているのです。しかも、今年のデータによれば、その人たちのかなりの数と推測される人たちがこう答えています。
「かわいそうだと思った」
「自分とは無関係」
見ている人の分裂
70%もの人たちが、いじめを見ているのです。そして、その人たちは「見てみぬふり」を基本の姿勢としています。では、自分たちがみているいじめについて、どう考えているのか。
「かわいそう」だと思うが(と逆説で結んでいいと思いませんか)、「自分には関係ない」
同情と無関係という相反するアンビバレントな関係は何を物語るのでしょうか?少なくとも、片方は関係としては、きわめていじめられている人に対し親密な心情を表明しています。しかし、同時に、「自分には関係ない」という疎遠な関係性を表明している人がかなりいるということです。このいじめを見ている人のいじめられている人に対する「親密」と「疎遠」な関係の同時表明は何を意味するのでしょうか。すくなくとも、
「同情するのであったら止めたらいいじゃないか?」
という余計なお世話になる問には、この傍観者たちは沈黙しているのです。この沈黙が何を意味するのか?
「やられてでも、止める人間がなぜいないのだ?」
もちろん、この沈黙の意味は
「下手に口出しすると、こっちがターゲットになり、やられる」
なのです。しかし、ここで、小さい子供のような言い方ですが、こう問うてみましょう。
「やれれようが、何しようが、止めるという人間がなぜいないのだろうか?」
もちろん、そういう人間の不在が私たちに『水戸黄門』伝説や『必殺仕事人』伝説や『ドラえもん』伝説、を産むのかもしれないのです。
オートメーションとしての「座席」
いじめをしている人間とされている人間という二つの群像がありますが、もう一つ、見ている人間という群像があることを確認しましょう。この三者がいじめのオールスターではもちろん、ありません。しかし、生徒の側ではこのキャストでいじめは進行するのです。私たちはこの三者がいかなる関係にあるのかをみきわめなければなりません。はっきりいえることがあります。じつは、いじめている人でさえ、
「いじめを後悔した」
という人は少数ではありません。今年は男子が半数には行きませんでしたが、毎年、男女共に半数に及ぶのです。では、いじめを反省し、後悔している人が、いじめを止める側になると思いますか?
ここからわかるのは、いじめられる
「一人」
の指定席は確実に存在しつづけるということです。人間はだれでもいいということです。座席が、座席だけは、存続しつづけると「いじめ関係者」はみな信じているということです。そして、いつだれが、どのようにしてその座席に着くかはきわめて流動的だ、ということです。そして、その座席の存続を人為ではけっして廃止できないと当事者は思っているのです。いったん、傍観者がうっかり「かわいそう」などという態度を表明しようものなら、確実に自分はその「一人の座席」に着席させられ、いったん、その座席に着こうものなら、まず、そこから抜け出ることはできない、自分一人に「座席」は固定されてしまう、そう信じているのです。
いいですか、みなさん。この座席はいじめの首謀者をもってしても廃止は不可能なのです。いや、不可能だと信じているのです。ここにいじめの最大の謎が存在するのです。
友だちという虚像
それにしても、いじめの傍観者が、かわいそうと言えないという事態の意味は深刻です。つまり、彼は、この時点で、仮にかわいそうなどといったとしたら、一人の援助者も得られないと信じているということです。友だちがどうでもいいときはまわりに群れる。しかし、いざという間際に、友だちなどはいない、そう考えているということです。自分が「一人の座席」を占めたとき、周りは蜘蛛の子を散らしたように消えるだろう、という信念が、彼らの口を拭わせるのです。
私たちはその事態を
「なあに、友だちなんざあ、その程度のものよ」
と高をくくるのか、それとも、
「そのくらい、「一人の座席」の拘束力は強い、そこへと流れる流動は周囲にはいかんともしがたい」
そういうべきなのか、難しい。