軽視される現実
いま、私が勤務する三島長陵高校では総合学習をつくるという作業をしています。
これ、おそらく画期的な作業なんです。
ところで、現在、総合学習は高等学校ではきわめて軽視されている、少なくとも現場ではほとんどその意義を評価されていないんです。その重要性や、その難しさ、そして、何より生徒の皆さんにとっての意義が残念なくらい現場では理解されていません。
文部科学省の定義
文部科学省は次のような定義を加えています。
第1 目標
横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の在り方生き方を考えることができるようにする。
第3 指導計画の作成と内容の取扱い
1 指導計画の作成に当たっては,次の事項に配慮するものとする。・・・
(2) 地域や学校,生徒の実態等に応じて,教科等の枠を超えた横断的・総合的な学習,探究的な学習,生徒の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行うこと。・・・
(5) 学習活動については,地域や学校の特色,生徒の特性等に応じて,例えば国際理解,情報,環境,福祉・健康などの横断的・総合的な課題についての学習活動,生徒が興味・関心,進路等に応じて設定した課題について知識や技能の深化,総合化を図る学習活動,自己の在り方生き方や進路について考察する学習活動などを行うこと。
2 第2の内容の取扱いについては,次の事項に配慮するものとする。
(2) 問題の解決や探究活動の過程においては,他者と協同して問題を解決しようとする学習活動や,言語により分析し,まとめたり表現したりするなどの学習活動が行われるようにすること。
(3) 自然体験や就業体験活動,ボランティア活動などの社会体験,ものづくり,生産活動などの体験活動,観察・実験・実習,調査・研究,発表や討論などの学習活動を積極的に取り入れること。
(4) 体験活動については,第1の目標並びに第2の各学校において定める目標及び内容を踏まえ,問題の解決や探究活動の過程に適切に位置付けること。
整理しましょう。
① まず、「生徒の興味や関心に根付いた活動」であることです。ここが出発点です。だって、興味や関心に関わらなければ、「自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決す る」ようにはならないでしょ。
② もうひとつ、総合学習はあくまで「教科の活動」だということです。
「教科等の枠を超えた横断的・総合的な学習,探究的な学習」なんです。しかも「生徒の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動」でなければいけないのです。
私たちは歴史的に学際的とか、横断的とかいう表現で表されてきましたが、既存の学問分野を超えていく教科活動をこれまでの学習活動の行き詰まりとして提起してきたのです。
③もう一つ、あくまで社会的な活動であることです。それを文部科学省は、
「自然体験や就業体験活動,ボランティア活動などの社会体験,ものづくり,生産活動などの体験活動,観察・実験・実習,調査・研究,発表や討論などの学習活動」と書いています。
自由企画
じつは、この名前は前の学校の同僚から失敬したものなんです。私は生徒の皆さんにこの盗作(笑)のネーミングを使って、このように訴えました。
私たちはこれから総合学習の時間を新たに作ります。そのとき、これまでの学年も、クラスも壊します。三島長陵高校は単位制です。その精神を生かして、クラスを作るのです。無学年無学級制が単位制の基本です。だから、学年も、クラスもいったん壊します。そして、「自由企画」と名付ける活動をするのです!
① まず、多様な個人が共生できるようにしたいと思います。今までのように,この人は何者みたいな人と無理して仲良くということはやめよう!
② そのためには、各人の興味本位で集団を作るのです。同じ興味を持った人たちで集まるのです。
③ だから、その活動の基本原理は、「やりたくないことはやるな、やりたいことをやれ!」なんです。
④ だから皆さんに次の命令をします。
「つるむな!つながれ! 」
同じ興味も関心もないのに「つるむ」な!
だれだかしらないが、興味関心が同じ人間と「つながれ!」
どのような集団をつくるか?
では、学校を興味や関心で集団をつくる。学年も既存のクラスもぶっ壊す!
じゃあ、あなたならそれをどうやって実行しますか?
自由にやりなさいというのは、その授業を行う側が放任によって野放しにするのとは違うと思います。
まず、『自由』とはなんなのかそれを説明する義務が生じるはずです。
それも、社会科学的、哲学的にです。
前任校の自由企画は傍目にも担当者の意図から外れ破綻していました。
自由を自分勝手と履き違えていたからです。また、それに対して何ら方向修正もアドバイスも講じられません。
生徒間では、履修登録の折り『何にもしなくていいゼミ』で通っていました。
勿論、何にもしない自由という企画だという言い訳も通るかもしれません。
しかし、担当者の意図は多分、自分自身で企画しそれをどのように実行し成功に向けて試行錯誤するかを行っていくことのはずです。
つまり
『自由』にさせるには担当する側に高いスキルが求められるということです。
自由と放任を履き違えられた時、生徒が学ぶのは怠惰です。そこに『実存』と『主体性』は立ち上がってきません。
しかし、先生ならやってのけてしまうのでしょうね。
ディベートや選挙を成功させてきたのですから。