羽生善治を評価する力
何でもそうだが、超一流の価値をそう簡単に素人が理解することはできない。私は将棋を趣味とするが羽生善治という天才の天才たるゆえんの手を理解することはできない。そのとき、その超一流のすごさを批評する存在が必要となる。超一流のすごさを理解することは簡単にはできないのだ。
森下卓(上 写真)という一流棋士がいる。まちがいなく森下は一流棋士である。しかし、森下はご本人には失礼だが、超一流棋士ではない。その森下が時折羽生善治のすごさを説明する。私は、そのすごさを森下を通して知る。この手を指すことは通常の棋士ではできない、そのすごさを森下は感動を込め解説するのだ。
升田幸三という天才がかつていた。升田は天才である。その升田がライバルの大山の対局の解説をNHK杯トーナメントというテレビ棋戦で行った。子供ながらに私は升田の解説に驚いたのだった。テレビが終わった後、升田の解説を思い出しながら、今日の対局を並べ直してみるのだ。なるほど、と、何か、途方もなく強くなったような気がしたものだ。
昨年逝去された米長邦雄という棋士がいた。彼も、そういう棋士であった。米長ももちろん超一流棋士である。その超一流が知ることのできる驚きたるやすさまじかった。
超一流を解説する一流
私は、若い頃から、マックス・ウェーバー、カール・マルクスという巨匠の著書を読んできた。しかし、すぐに彼らの偉大さはわからない。その偉大さを、感動を込めて語ることのできる一流がいる。彼らは、超一流のすごさを、ありきたりな解説を越えて伝達する。大塚久雄、丸山眞男、川島武宜、内田義彦、見田宗介、折原浩、廣松渉、柄谷行人、岩井克人、彼らは、私が出会った一流である。彼らは感動を込めて私に単なる解説をこえた解説を施してくれた。私も、56才である。もう彼らほどの存在に今後そうそうお目にかかれないだろう。私は、みなさんに、超一流とであい、心の底からひっさらわれるような感動を勧めたい。その出会いはそうそうかんたんには訪れない。私が自力で出会い感動した思想家も何人かいる。たとえばサルトルとメルロポンティは、だれにも解説されなかった。自分でじかに読んだ。サルトルの『存在と無』はぜひ読むべき書物だ。そこには、人間というものが書かれている。同じ人間を描いておりながらポンティの『知覚の現象学』は全く違う世界を私たちに見せる。この二人は間違いのない超一流である。
私は井上陽水をよく聞いた。コンサートにも通った。陽水のように弾き語りをしたい(笑)、と思い、ギターを習った。幼稚なことをいえばこういうことだ。立川談志という落語家に一時期通い詰めた。こうして落語へと入っていく。何でもいい。超一流を知ることだ。そのためには、一流の勧めをよく聞くことだ。彼らは、私たちに届くようなレベルの解説をする。そういう意味で、一流と出会うことを勧めたい。ま、しかし、努力しても出会えるとは限らないのだがね。
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