天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

湘子『黑』5月下旬を読む

2024-05-25 09:05:41 | 俳句




藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の5月下旬の作品を鑑賞する。

5月21日
松風ときこゆるほどに夕涼し
松を吹く風音、杉を吹く風音、楓を吹く風音は違うのか。端居していて風が涼しい夕べ、作者は松に吹く風の音とそれを感じたのである。あるいは風の音が松の奏でるものと錯覚したという「きこゆるほどに」か。不思議な松風の攻め方である。
新月や松葉散りゐる砂の上
「新月」は秋の季語。「松葉散りゐる砂の上」は海辺の防風林か。この清涼感に「新月」は悪くないが月ならこの時期、「月涼し」でもいい。なぜ、秋の季語を敢えて使ったか訝しむ。
泥鰌鍋褒貶いまも定まらず
何の褒貶か、そこがあいまいで解釈に窮するが、「泥鰌鍋」の離れ方はいい。泥鰌を食いながら何かの良し悪しをうんぬんしている。

5月22日
うすもののひと出できたる末寺かな
「末寺」が効いている。それはは本寺に付属する寺でありやや下世話な語感。そこで「うすもののひと」に色香を思ってしまう。そう思わせるようにたぶん作者は仕組んでいるだろう。
たゝかふ血冥くあるべし青簾
冥い血潮と青簾、心象に色が交錯する。上五中七の想念を下五の確固とた物の季語が受け止めて形象化している。
五月盡枕燈に暈ある如し
「暈」は太陽または月の周囲に見られる光の輪のこと。枕辺の明かりに同様なものを感じている。繊細というか神経質というか。五月の終わる憂愁を詠んでいる。

5月23日
柚子の花過ぎて気づきし忌日あり
「過ぎて」が微妙。通り過ぎたという意味と、柚子の花時が終わったという意味、どちらでも読める内容である。後者のほうが自然だが前者でも悪くない。さて誰の命日を思い出したのか。
竹磨といふがごとくに皮を脱ぐ
「竹磨」がわからない。この場合「竹磨」は名詞であり光沢のある物でないといけないが。
病む母に修羅も奈落もいま涼し
母上が亡くなったのかと思ったがそうであるなら「母死す」と書くはずだから生きている。生きていて涼しいというのは痛みなど知覚がないということか。惚けてしまったということもある。「修羅も奈落も」というのは生きてきた道筋のあまたの苦難のこと。

5月24日
梅干を返していまも火傷の手
前の日の句は屈託が多くてわかりにくかったがこれはわかりやすい。梅干と火傷の手は引き合って両者がよく見える。心象を振り捨ててシンプルでいい。

5月25日
(かちわた)る脚高うしてあめんばう
川の中をじゃぶじゃぶ歩いて向う岸へ行くところか。登山などやむなくそうする徒渉がある。そこにあめんぼうがいた。臨場感があって心地よい。
松の花二人の尼の起居なる
ほとんど何も言っていない句。前の句は作者に水の清涼感など伝えたいというしかとした意思が「脚高うして」にあったが、この句は「二人の尼の起居なる」と伝えるだけである。しかしたんに報告でないのが季語「松の花」にある。季語が働いているので二人の尼さんの静かな生活を感じることができる。

5月26日
暑き夜の廻る時計はまはりをり
デジタル時計でない針の時計。「廻る時計はまはりをり」という打っ棄った表現が暑くて眠れない夜を存分に伝える。
桟橋を来る長身も夏景色
「桟橋を来る長身」でスカッと見える。男を思うがアンジェリーナ・ジョリーのような女でもいい。「夏景色」なる大雑把な置き方がこの場合、景色を大きくする。
瓜茄子死後のことみな覚束な
この句に小生はついていけない。だいたい死後のことなど考えない。「死後のことみな覚束な」と言う先生には地獄とか極楽といった観念があったのであろうか。「三日後のこと覚束な」ならわかるが。

5月27日
きのふから扇子出したる机の端
「机の端」まで言って見える句になった。机の真ん中は本を置いたり書き物をするのである。それを想像させて簡素でいい。
雲を踏むごとく筍藪を出て
筍の生える竹林は竹が密集していた。外で出て足がふわふわする。奇を衒った比喩の離れ方ではないが効いている。

5月28日
からまつの奥の灯が消え辰雄の忌
「からまつの灯」で「辰雄忌」は近過ぎないか。「消え」まで言ってしまうとべた付きではないのか。
青萩の中に手を入れなにもなし
何かいたとしたら毛虫は蛇か。「中に手を入れなにもなし」で青萩を際立たせている。

5月29日
冷奴江戸小咄を讀みさしに
「江戸小咄」が洒落ている。読みかけの本を置いて食べることにいま専念する。

5月30日
風知草故人はゆめに前(さき)のまま
夢に見た故人はいきいきとしていて若かった。「風知草」という音感が故人を引き立てている。
伴天連(ばてれん)をうつくしと見し門火かな
「伴天連」はキリスト教徒のむかしの呼び方。ほかに司祭の意味もある。たんにクリスチャンだと見えない句である。司祭としても見えない。作者の意図がわからない句である。

5月31日
酒飲まぬ夜や風鈴が階下(した)に鳴る
飲みたい気持ちがあって落ち着かないのか。階下の風鈴の音が気になる。酒飲みの句としておもしろい。
われに棲む道化もひとり梅雨入前
俺は俳句一筋に生きておる。本人がそう思いわれら門弟もそう思う。けれど真面目だけでないおどけた俺もおいるのだ、と作者は言う。はい、それもよくわかります。
梅雨めくや画廊に積んで無名の絵
絵画展はそこらじゅうで開催されるがだいたい美術史に残らない人々の絵。それは俳句も一緒である。「画廊に積んで無名の絵」と「梅雨めく」がうまく折り合った一句。


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西條奈加『隠居すごろく』

2024-05-24 05:27:14 | 
                   


 読書メーターでheslkstさんが以下のようにあらすじを紹介する。
仕事ばかりで家族からも浮きまくっていた主人公が孫可愛さゆえ、孫に翻弄されているうちに人の温かみや優しさを取り戻す物語。孫は優しさ溢れる人情の人でありながら、納得できるまで考え続けることができる8歳の少年。
主人公が隠居するところから物語はスタート。隠居しても話し相手もおらず寂しさを募らせていたところ、孫がやってくる。孫が様々な相談事を主人公に伝えてくる。主人公にとっては厄介事なのだが、孫のしつこさを知っているので、どうにかしようと解決策を探っていくうちに、感謝される喜びなどを知る。心が優しくなる本。
*******************************
隠居した徳兵衛は商売に明け暮れした人生にて、趣味がなかった。女性への興味もなくすぐ時間を持て余した。そこへ登場した孫は最初は厄介で面倒な存在でしかない。けれどその面倒と厄介へ対処するうちに、いままでと違った人生の味わいが見えてくる。気持ちが温かくなる。それに関しては以下にYUUUUMIさんも言及する。

素敵な作品と出会えるのが読書の醍醐味もであるが、この作品はとても温かい気持ちとほっこりした気分を味わえる作品だ。隠居して静かに余生を過ごそうと思っていた主人公・徳兵衛であるが、孫である千代太が訪ねて来てから、今まで築くことのなかった人との関わりという、面倒な事に巻き込まれながらも充実した毎日を過ごすという、日常の穏やかながらも慌ただしくもある姿が描かれていく。物事を解決するよりもその過程を孫と考えたり導いたり教えられたり、素敵な関係を垣間見る事ができた。
*******************************
徳兵衛にとってそっけなかった妻が意外な変化を見せて徳兵衛の「事業」に加担するのもおもしろい。作者は作品をおもしろくする手を次々に繰り出す。運動会の大玉送りを見るかのようにテンポよく話が進み、心地よい。
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宇良関香を聞いていますか

2024-05-23 05:39:55 | 大相撲



大相撲夏場所。ずっと気になっていたのが前頭4枚目宇良の時間いっぱいでの塩を取る場面である。
宇良は塩を摑む前、右手に何か持つかのようにして手を振るしぐさをする。煽いで香を顔に届けるようなしぐさで、「聞香」を感じる。
そこにそんないい香りがあるのか。汗と体臭と場内の塵しかないのでは、と思いつつずっと見ている。彼のみが香りに酔っているかのように見える。
どうやら宇良独自の気持ちの落ち着け方であるようだ。
宇良の聞香で、近所のZさん宅の生垣のジャスミンを思った。いま少し盛りを過ぎたがいい香りを放っている。それを少し頂いて俳句を作りながら香りを楽しむ。
宇良のおかげである。きのう宇良は負けてしまった。



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句会のあとの塩大福

2024-05-22 08:55:27 | 俳句

塩大福と麩餅(麩饅頭)


きのう5月定例のKBJ句会を開いた。欠席投句を含め6人48句の句会となった。
小生は前日ひこばえネット130句を見て6、70句に関し取捨にかかわらず短評を書いたので二日続いて句に対してものを言うことに食傷ぎみであった。
けれど小川主宰など結社を牽引するトップの方々は毎日、人の句を見ているだろう。小生も頑張らねばと力を振り絞った。

墨筆を一気に下ろし初夏と書く 坪山治子
という句にはっとした。「墨筆」は広辞苑にないのだがイメージは立つ。文字通り勢いがありいかにも初夏である。毎月ほとんど小生の選に入らない近所の治子さんの句であった。新しい句の書き方がいい。
続けていれば何か起こるのが俳句であると痛感した。

夏の山水飲んで水かぶりけり わたる
これに4点も入り驚いた。司会者が小生にコメントを求めるので、「乱暴な句ですね」ととぼけた。こんなに支持があるのなら小川主宰に見せようか。






さて句会が終わると誰かが小生の靴の横に何か包み物を置いてあった。小生への贈答らしい。帰って開くと、塩大福と麩餅(ふもち)であった。生産者「京嵯峨野竹路庵」。
夕方から夜にかけて甘いものを食べると身につくのでセーブしているが大福は見るだに美味そう。塩が効いた餡の練り具合がよい。おまけに「豆大福」ほどではないが豆が散らばっている。大福が好きでヤマザキでもありがたく食べているが竹路庵(ちくじあん)を頂くともう雲泥の差を感じてしまう。

前の句会でも和菓子をいただいたような気がする。それは蕨餅であった。冷たくて蕩けるようだった。
お礼に、
声の佳き鳥が甍に蕨餅 わたる
と書き、当句会に出して1点入ったように思う。呉れた人が採らなかった。う~ん。鷹へ出せるレベルだと思ったがほかの句を優先させてしまった。この蕨餅も「京嵯峨野竹路庵」であったか。

小生は下戸にして甘党である。
年を取ってそうたくさん食べるわけではないが基本的に甘党である。高校の入学の日、これまた甘党の父と甘味処で二人合わせて20個の饅頭ほか和菓子を平らげたのであった。
その割に和菓子の餡を句に詠んでいない。

餡といえば、すぐ、
厚餡割ればシクと音して雲の峰 中村草田男
を思い出す。
「シクと音して」が和菓子、饅頭の質感、食感であって、洋菓子の追従できない世界である。洋菓子はベトベトして垂れる。媚びている感じ。洋菓子よりやはり饅頭に惹かれる。

高遠は花こつてりや饅頭も わたる
南信州の桜の名所、高遠は饅頭が名物。
はじめ「高遠饅頭」が出たが模倣されて模倣された元祖が「高遠城址饅頭」となった。ほかに「亀饅頭」というのもある。いま3種類のはずだが三つは刻印が違うだけでほぼ同じ体裁で似たような味である。桜はコヒガンザクラ、むっちりしている。
故郷で母は濃厚な餡を作り父が餅にたっぷり乗せて食べた。同様にその子も餅を甘くして食べた。
餡こ、饅頭系の句を書いて鷹へ出して載せることが呉れた方へのお返しと思う。なんとか果たさねば。


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最初から負けていた豊昇龍

2024-05-21 05:41:24 | 大相撲




大相撲夏場所9日目。
結びの豊昇龍VS高安に注目した。相撲は対戦前の両者を見ていて両者の気配で勝ち負けがわかるときがある。きのうは豊昇龍が負けそうな気がしてそうなった。
豊昇龍は高安の顔をしつこく見た。「眼を付ける」という感じである。「眼を付ける」とは、悪意をもって相手の顔や目をじっと見つめること。だからそうされたチンピラが「てめえ、眼を付けたなあ」と憤る。
それを豊昇龍がやった。小生はなぜ無駄なことを長い時間やるのかいぶかしんだ。さっさと手をついて相撲を取ればいいじゃないか。
前哨戦で威圧してやろうという魂胆があったのではないか。高安は仕方なくこの「眼付け」に付き合った感じであった。
本番前に相手を威嚇するのは背をそびやかす猫のようなもの。本当に強い者はそのような威嚇をせず、ずばっと切り込む。豊昇龍には最初から負の心理になっていた。

あるメディアが以下のように伝える。
高安は腰痛で3日目から休場し、この日が再出場の初戦。一方で、豊昇龍にとっては過去1勝7敗(不戦を除く)と合口の悪い〝天敵〟でもあった。大関はやりにくさを感じていたのか、なかなか手を付かない。相手に左を深く差されて後退すると、苦し紛れの小手投げも不発。最後はすくい投げで豪快に土俵に転がされた。
審判長の粂川親方(元小結琴稲妻)は「高安が、うまく左を深く差した。あれで豊昇龍が動けなくなった」と指摘。日本相撲協会の八角理事長(元横綱北勝海)は「豊昇龍は手をつくのが遅い。自分でリズムを崩している」と手厳しかった。

豊昇龍は相手に先に手をつかせたかったのかもしれない。しかし大関なのだからもっと堂々ととらなければいけない。相撲通が見てはなから負けると思うような素振りは慎むほうがいいだろう。


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