藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の5月下旬の作品を鑑賞する。
5月21日
松風ときこゆるほどに夕涼し
松を吹く風音、杉を吹く風音、楓を吹く風音は違うのか。端居していて風が涼しい夕べ、作者は松に吹く風の音とそれを感じたのである。あるいは風の音が松の奏でるものと錯覚したという「きこゆるほどに」か。不思議な松風の攻め方である。
新月や松葉散りゐる砂の上
「新月」は秋の季語。「松葉散りゐる砂の上」は海辺の防風林か。この清涼感に「新月」は悪くないが月ならこの時期、「月涼し」でもいい。なぜ、秋の季語を敢えて使ったか訝しむ。
泥鰌鍋褒貶いまも定まらず
何の褒貶か、そこがあいまいで解釈に窮するが、「泥鰌鍋」の離れ方はいい。泥鰌を食いながら何かの良し悪しをうんぬんしている。
5月22日
うすもののひと出できたる末寺かな
「末寺」が効いている。それはは本寺に付属する寺でありやや下世話な語感。そこで「うすもののひと」に色香を思ってしまう。そう思わせるようにたぶん作者は仕組んでいるだろう。
たゝかふ血冥くあるべし青簾
冥い血潮と青簾、心象に色が交錯する。上五中七の想念を下五の確固とた物の季語が受け止めて形象化している。
五月盡枕燈に暈ある如し
「暈」は太陽または月の周囲に見られる光の輪のこと。枕辺の明かりに同様なものを感じている。繊細というか神経質というか。五月の終わる憂愁を詠んでいる。
5月23日
柚子の花過ぎて気づきし忌日あり
「過ぎて」が微妙。通り過ぎたという意味と、柚子の花時が終わったという意味、どちらでも読める内容である。後者のほうが自然だが前者でも悪くない。さて誰の命日を思い出したのか。
竹磨といふがごとくに皮を脱ぐ
「竹磨」がわからない。この場合「竹磨」は名詞であり光沢のある物でないといけないが。
病む母に修羅も奈落もいま涼し
母上が亡くなったのかと思ったがそうであるなら「母死す」と書くはずだから生きている。生きていて涼しいというのは痛みなど知覚がないということか。惚けてしまったということもある。「修羅も奈落も」というのは生きてきた道筋のあまたの苦難のこと。
5月24日
梅干を返していまも火傷の手
前の日の句は屈託が多くてわかりにくかったがこれはわかりやすい。梅干と火傷の手は引き合って両者がよく見える。心象を振り捨ててシンプルでいい。
5月25日
渉(かちわた)る脚高うしてあめんばう
川の中をじゃぶじゃぶ歩いて向う岸へ行くところか。登山などやむなくそうする徒渉がある。そこにあめんぼうがいた。臨場感があって心地よい。
松の花二人の尼の起居なる
ほとんど何も言っていない句。前の句は作者に水の清涼感など伝えたいというしかとした意思が「脚高うして」にあったが、この句は「二人の尼の起居なる」と伝えるだけである。しかしたんに報告でないのが季語「松の花」にある。季語が働いているので二人の尼さんの静かな生活を感じることができる。
5月26日
暑き夜の廻る時計はまはりをり
デジタル時計でない針の時計。「廻る時計はまはりをり」という打っ棄った表現が暑くて眠れない夜を存分に伝える。
桟橋を来る長身も夏景色
「桟橋を来る長身」でスカッと見える。男を思うがアンジェリーナ・ジョリーのような女でもいい。「夏景色」なる大雑把な置き方がこの場合、景色を大きくする。
瓜茄子死後のことみな覚束な
この句に小生はついていけない。だいたい死後のことなど考えない。「死後のことみな覚束な」と言う先生には地獄とか極楽といった観念があったのであろうか。「三日後のこと覚束な」ならわかるが。
5月27日
きのふから扇子出したる机の端
「机の端」まで言って見える句になった。机の真ん中は本を置いたり書き物をするのである。それを想像させて簡素でいい。
雲を踏むごとく筍藪を出て
筍の生える竹林は竹が密集していた。外で出て足がふわふわする。奇を衒った比喩の離れ方ではないが効いている。
5月28日
からまつの奥の灯が消え辰雄の忌
「からまつの灯」で「辰雄忌」は近過ぎないか。「消え」まで言ってしまうとべた付きではないのか。
青萩の中に手を入れなにもなし
何かいたとしたら毛虫は蛇か。「中に手を入れなにもなし」で青萩を際立たせている。
5月29日
冷奴江戸小咄を讀みさしに
「江戸小咄」が洒落ている。読みかけの本を置いて食べることにいま専念する。
5月30日
風知草故人はゆめに前(さき)のまま
夢に見た故人はいきいきとしていて若かった。「風知草」という音感が故人を引き立てている。
伴天連(ばてれん)をうつくしと見し門火かな
「伴天連」はキリスト教徒のむかしの呼び方。ほかに司祭の意味もある。たんにクリスチャンだと見えない句である。司祭としても見えない。作者の意図がわからない句である。
5月31日
酒飲まぬ夜や風鈴が階下(した)に鳴る
飲みたい気持ちがあって落ち着かないのか。階下の風鈴の音が気になる。酒飲みの句としておもしろい。
われに棲む道化もひとり梅雨入前
俺は俳句一筋に生きておる。本人がそう思いわれら門弟もそう思う。けれど真面目だけでないおどけた俺もおいるのだ、と作者は言う。はい、それもよくわかります。
梅雨めくや画廊に積んで無名の絵
絵画展はそこらじゅうで開催されるがだいたい美術史に残らない人々の絵。それは俳句も一緒である。「画廊に積んで無名の絵」と「梅雨めく」がうまく折り合った一句。