天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

桑の実を食い川の中を歩く

2024-05-26 07:44:31 | 身辺雑記

多摩川河川敷。是政橋そばの林、左は野球場とサッカー場。


桑の実の好きな結に手ずからそれを食わせたい。その一念できのう、多摩川へ繰り出した。一昨日は下見でひとり多摩川へ行った。うちから多摩川まで自転車で30分、およそ7キロの行程。子供を積んで自転車を駆るにはちと長い。15分を越える疾走はクルマや自転車と当たる確率が増える。いま事故を極度の恐れている。ぶつかりたくもぶつけれらたくもない。
細心の注意を込めて「行くぞ」と気合を入れた。
さいわい結は静かに乗っていてくれる子で助かる。




「ピンクツリー」と呼ぶ桑の実の変種。


途中公園で一息入れた。結を遊ばせるより小生が気を抜きたかった。
是政駅近くの都の遊休地の桑大樹が1本ある。「風に葉が揺れている木が桑」と結に教える。近づいて葉をかき分けて「これが桑の実」というと、結は葉の中へ手を入れて取っては食う。しゃにむに食う。1年前はおずおずしいていたがこの1年でがらっと変わった。





15分ほどこれに熱中した。人に言われず自分の中から桑の実をむしり取るという衝動が湧きそれを食うことに没頭した。この時間の結を見たことで今日はこれでいい、と思った。
人はいくら教えても教えたようにはならない。逆に教えられること指示されることに反発することも多い。自分の内面から湧き出る衝動こそ尊い。それが桑の実で果たせたことを天に感謝した。結と桑の実は得もいわれぬ関係なのだ。
結がこの日の桑の実のことを覚えているかどうかは知らない。たとえ忘れたにせよここで気持ちが輝いたことは結にとって大きなことだと思う。
嬉しい! 楽しい! すげえ! やった! やばい! といった一瞬のきらめきを体感することが生きていること。ほかに何があろう。そういう時間は現世にそうはない。ゆえにその時間はそれに没頭したい。





この桑の木の実はほかのものと大きく異なる。通常、桑の実は白が赤になり、赤紫になり、さらに黒みがかった紫、ないし漆黒になる。その色が口や手を汚す。
しかしこの桑は白か始まり、薄いピンクになり濃いピンクになり、明るい紫になる。薄いピンクのときから食べられるのである。この木を「ピンクツリー」と呼んでいる。ほかにこのような木を多摩川で見たことはない。。
この桑の木は地につくほど枝が垂れ下がっている。子供が取るには格好の木。
結に自由に食べさせ小生は持って帰るのを摘む。1リットルほど摘むことができた。









河川敷に国土交通省が残した林があり何本か桑の木が生息しているがピンクツリーほどの迫力はない。
結は原っぱを駆け回っていてついに川の縁に来た。落ちそうな気がしてテトラポットに立つ結の手を握る。結は「入りたい」と言うではないか。よもやと思った。濁っていて泡が散乱し流れがはやい。手を握ったまま結がドボンと入ると首まで水が来た。慌てて引き上げる。懲りてもう入らないかと思えば、「入りたい」と言う。この子がそう要求することはない。この衝動を封じてはならぬ。
浅くて行けそうなところを探しまわり、藪を5mほどかき分けて流れへ連れてゆく。





「これはなんだ」と結が言ったのが水底の水垢。どどどろ溜まっていて泥と見紛う。「どろじゃなくて、み・ず・あ・か」と教えたがおそらくわかるまい。
結は「はやい! はやい!」と水流に驚くも上へ上へと行く。支流を出ると本流。やばいと思い、「向こうへ行くな、流される」と制す。
流れた子を死ぬ前に救い出す自身はあるものの濡れたくはない。全身濡れて藪の中を歩いて崖を上る。崖は急。爺が結を抱き抱えて上へ放り投げた。

2024年5月25日は結にとっていい1日であった、と忖度する。桑の実をたらふく食い川の中を歩いた。
爺はくたくたに疲れて20時に就寝。婆は「また川遊びして洗濯がたいへん」と文句を言った。





多摩川の土手に多く展開する茅花、風が吹くと「茅花流し」

コメント
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