天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

5月21日KBJ句会

2024-05-05 05:21:44 | 俳句



写真は栃の花だろう。国分寺市プレイステーションの近くの農園に今年も咲いた。
黄金週間が過ぎて初夏です。腰や膝の痛い方も少しは楽になる季節でしょうか。血圧の高めの小生はうれしい季節です。
俳句を志す方、いらっしゃい。生まれも育ちも学歴も性別も何も問いません。言葉で遊び自分を楽しみ、また他人を理解しようとする方はどなたも歓迎いたします。句会はせわしい日常からトリップするひととき。遊山気分で西国分寺へお出かけください。

【日時】5月21日(火)13:30~16:00

【会場】多喜窪公会堂
    西国分寺駅南口から約450m

       

【出句数】1~8句(以下の兼題1句を含む当季雑詠)
時間短縮のためあらかじめ短冊に書いてくることを希望します。

【兼題】比喩で1句
比喩の使い手といえば「鷹」のナンバーワンは奥坂まやだと小生は思う。
彼女の第4句集『うつろふ』から比喩の句をいくつか取り上げ、それについて若干の考察をしてみたい。
 大喝のごとく秋天照り渡る
 雄叫びの寄するがごとく鮭遡る
声とそれと全く関係ないものとの取合せている。
奥坂は滑舌が良い。舞台女優になれるほど会場に張りのある声が通る。まやさんが採った句を褒めるときの声を聴いていてそれが自分の句なら有頂天になる。本人が自分の声の佳さを意識しているか知らぬがゆえに彼女と句座をともにしたいと思うほど。閨房でなくとも女のよき声を聴くのは至福。まやさんの深層には声への憧憬がありそれが声の素材を比喩に多用するのではないか。自身の声の佳さと作品に声の比喩が多いのは通底しているとみる。
 錫杖のひびきの如くやんま過ぐ
 銃声を誘ふごとき夕焼なり
声に近い音、音響もまやさんの好きな比喩の素材である。「錫杖のひびき」と「やんま」の翅の音の類似性を彼女以外の誰が思いつくのか。また夕焼が銃を発射させる衝動になるという発想も奇抜。「奇抜だがあり得る」と思わせるのが比喩成功の要諦であろう。
いままでみてきたのは基礎的な比喩の方法である。感覚は冴えているが比喩の素材は見えるものである。
しかし次の句は比喩の定石から外れていると小生は見る。
 息の根のごとき海鼠を摑み出す
 天に乳(ち)を含まするごと芽吹くなり
「息の根」は「息の根を止める」というように使われる。きわめて抽象的であり抽象的な概念は比喩には適さないとこの句をみるまで思っていた。しかしこの句の「息の根」は「海鼠」を修飾すると光を放つ。あのぶよぶよして動かず生きているか死んでいるかわからないものが「息の根」だといわれると、そうだと即座に納得してしまう。命のもとを具体で見せてみごと。抽象と具体の離れがたい連結なのである。
奥坂の多々ある比喩の中でも絶品であると高く評価する。
もう1句の「天に乳(ち)を含まするごと」も抽象的なものに挑んでいる。そこに擬人化まで織り込んでいる。「天」が乳飲み子であり地上の木々の芽吹きはその栄養を与える母であるという気宇壮大な発想である。が、これにはついていけない。内面の昂ぶりを制御できないまま吐露してしまったのではないか。大胆さが奥坂の魅力であるが、ここに比喩における抽象性のむつかしさを見る。
 赤々とカンナは八月の悲鳴
 喉鳴らし来る坂東の凩は
比喩には直喩と暗喩がある。
いままでみてきたのは直喩である。簡単にいえば「やうな」「ごとし」を使うのが直喩である。
これに対してそれを使わず「頭に霜を置く」で白髪を表現するのが暗喩(隠喩)である。
カンナが悲鳴と言い切り、凩が喉鳴らし来ると断じるのは暗喩ではないか。ここには擬人化もなされていて複雑であるが、比喩の意識を濃厚に感じる。
奥坂のこういう自由自在な比喩ワールドを見てしまうとわれわれはこの用法で句を作るのをためらってしまう。奥坂は比喩の水先案内人にして立ちはだかる絶壁なのだ。だが我々も比喩をやってみようではないか。


【指導】天地わたる(鷹同人)
点の入らなかった句についても見解を述べるとともに、メンバーの意見を伺います。

【参加費】1000円

【参加したい方】
ブログに書き込みをするか、youyouhiker@jcom.home.ne.jpへご一報を。

コメント
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