天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

鷹6月号小川軽舟を読む

2024-05-29 07:24:10 | 俳句
 
マニ宝珠


小川軽舟鷹主宰が鷹6月号に「宝珠」と出して発表した12句。これについて山野月読と天地わたるが合評する。山野が〇、天地が●。

入門破門風呂敷一つ門柳 
●「入門破門風呂敷一つ」えらく時代がかっています。江戸時代を題材にした短編小説を読む味わいです。 
○「入門破門」と「門柳」は「門」繋がりでの発想かなと思います。入門するときも破門されるときも「風呂敷一つ」だという矜持とも言えるし、そうした身軽さこそが時々の風に身を委ねる「門柳」の姿と通じ合うようです。 
●おっしゃったように「門」で韻を踏んだのは技術です。俳諧味を出そうとしたのでしょう。句集『朝晩』における「家事たのし鼻に浮きたる汗小粒」の生活感から大幅に転じていています。

家で靴脱ぐ民なればひなまつり
○日本人を「靴脱ぐ民」と捉えている視点はわかるのですが、「靴脱ぐ民」が日本人に限られるわけではないという意味では、中七から下五への展開にはやや無理がありそうだと思います。 
●家で靴を脱がない人たちが世界にいるのでしょうか。裸足で暮らす人は脱ぐも脱がないもないでしょうが。欧米人を念頭においての発想だとして、彼らも寝るときは靴を脱いでベッドに上がります。したがって「玄関」ならわかるのですが「家」は大雑把じゃないですか。
○厳しいですね(笑)。わたるさんなら指摘しそうなことだというのはわかります。要は「家(の中)」であることが靴を脱ぐ十分条件なのか必要条件なのかの違いで、日本人の場合は前者。この十分条件であるという視点を「家で」という言葉だけで示し得ているのか、ということですね。その判断はにわかにはつけ難いなあ。
●厳しくないですよ、当然の指摘でしょう。この句を読んだ瞬間に「玄関に靴脱ぐ民やひなまつり」と添削していました。「なれば」というゆるやかさを消しても物に厳格に対処すべきではないかと。

陶土練る板の厚みや桃の花 
●「板の厚み」を言ったことで作陶がよく見えます。この場面で季語はいろいろ考えられますが作者は「桃の花」を選択しました。悪くはないですね。
○作陶の現場がどこかは定かではありませんが、「桃の花」がこれを補って余りあるほどの効き。 
●はい、季語は抜群にはたらいています。さすがです。

若柴に息を尖らすホイッスル 
●単純な句に見えていて「息を尖らす」を面妖と感じました。笛は吹くのであって「息を尖らす」わけじゃないですよね、どう思いますか。 
○「息を尖らす」には、やられたと思いました。動きとしては「口を尖らす」&「息を吹く」なんでしょうが、うまく融合して新しい表現になっていると思いました。わたるさんの好きなラグビーでしょうかね。 
●なるほど、複合技ですか。操作を一緒くたにしたことの違和感より巧さを感じさせたとすれば高度なテクニックです。この作者の原点というべき巧さ。

種芋や畑にまじる火山礫
●火山灰は桜島だとすればこの種芋はサツマイモでしょうか。
○日本なら鹿児島を思いますね。シラス台地はサツマイモの生育に好条件と聞いたことがあります。 
●湘子が言った「型・その1」。作者も「俳句のふるさと」と呼んで尊重している形です。凝ったところはどこにもありませんが「種芋」が効いた落ちついた風情の句です。

牛角力逃げるが勝ちと負けにけり 
●笑いました。 
○「牛角力」は、昔ながらの賭けの対象にもなっていそうなイメージもあり、そう意味で真剣勝負だと思うのですが、句中の「負け」牛は負けても温かく見守られていそうで安心しました。 
●展開が小気味よくおもしろい。すぐ暗記できる句は素晴らしいです。

芳草の雨粒のみな宝珠なす 
●宝珠とは、十字架が上に付いた球体、一種の装飾ですね。 
○わたるさんの言う宝珠は、私の思っていた宝珠とは違いそうなので調べたら、西洋の王冠とかにあるアレも宝珠と言うんですね。ただ、句中の宝珠は、仏像とかによく付属している宝珠の方でしょう。形状的には、武道館の屋根についていたり、欄干とかを装飾している擬宝珠と同じようなやつで、一言で言えば水滴の形状(上部が尖ったような球体)。ですので、この句の「宝珠なす」は至極納得のいく把握かと。 
●小生はそう納得していません。「雨粒のみな宝珠なす」は見立て。一種の比喩ですがあまりに知的にはからっているように思えます。悪くいえば、知的操作。俳句はもっと感覚的にやってほしいと思います。
○私的には、すごく感覚的な把握に思えました。
●知的操作と感じたのは比喩である「宝珠」が人の作った物であること。その発想のもとに何か自然の物が存在しているように思うからです。むしろ雨粒からインスピレーションを得て宝珠を考案したのではないですか。だからつまらないのです。たとえば巻貝と銀河の渦との取合せなら天然自然同士ですから知的操作とは思いません。

花冷や南蛮船に北斗星 
●「南蛮船」、えらく時代的な物を取り上げましたね。ヨーロッパで15世紀ころ遠洋航海を前提に開発された帆船です。鉄砲とともにキリスト経を持ち込んで来た船。南蛮貿易の推進役となったあれです。 
○「南蛮船に北斗星 」とくれば、大海原を行く大航海のイメージが広るのですが、句中の「南蛮船」はどこにいるでしょう? 大海原にいて「花冷」はないだろうと思ってのことですが。 
●この句もそう評価しません。あなたの指摘するように季語も不適切だし、船がどこにいるかも見えません。 生活実感から遠ざかったという点で、「入門破門」の句の路線ですが小生は支持しません。生活実感路線から何かを変えたいのは理解しますが……。 
○わたるさんのご指摘はわかるのですが、季語が働くとしたらどういう場面なのかという視点からの読みも大切かなと思います。季語からしてこの「南蛮船」は大海原にいるのではないとしたら、ひょっとして伊万里焼とかの図柄なのではないのかと思うのですが。
●それは小生も考えました。実際の海ではなくて陶器の絵柄を。しかしそこまで読み手を惑わせる句をなぜ12句に入れて発表するのか訝しみます。句はたくさん書いているわけでしょう。

春窮や光背失せし仏の背 
●「春窮」という耳慣れぬ季語に注目しました。この言葉はもともとは、李氏朝鮮で「春窮(チュングン、ch'ungung)」と言われたものだとか。日本が朝鮮を支配したとき日本語化したらしいです。春季の越境期に食料が無くなり、山野の草根や木皮を食べて延命した状態を言います。つまり、前年に収穫した食糧が欠乏してくる4月から5月にかけての窮乏を指します。 
○「光背」は大抵薄い板とかで設えられているので、壊れやすいのは壊れやすいのでしょうが、これが「失せ」たままの「仏の背」は、わたるさんに解説いただいた「春窮」に通じるものがありそうです。 
●あなたは「光背」が自然に壊れてなくなったというふうに考えていますね。そうではなくて、困窮した人にむしり取られたということはありませんか。光背は金などでできているので売ればお金になる。 
○ あー、そうですね! それは思いつきませんでした。「光背」は金箔が施されていることが多いので、盗まれることは十分に考えられますね。

春泥に轍を残し離村せり
●今月の句は物語性がありますね。 
○この「轍」、車のタイヤの跡とは思えぬ雰囲気を醸す「離村せり」ですね。ここまでの句からの想像として、東南アジアでも旅したのでしょうか。
●いや日本でしょう。轍は自動車の車輪でしょう。だから日本の風景でしょう。いま日本には限界集落と呼ばれるような僻村があちこちにあります。その一つを活写したと思います。
○ここまでの句の雰囲気に引きずられ過ぎた読みだったかも知れません。

げんげ田にかがめば蜂の音しきり 
●実直なとらえ方です。
○「蜂」がいるとわかっていて屈みはしないでしょうし、まさに「げんげ田にかが」むことによって「蜂」や「蜂の音」の存在に気づいたのでしょう。 
●俳句はこれでいいと思います。「芳草の雨粒のみな宝珠なす」のほうへ行かないでほしい。

群衆に目的地あり春の暮 
●この句はわかりません。「群衆に目的地あり」でどんな人たちを思えばいいのですか。 
○「群衆」が「団体」だったら団体旅行かなくらいで終わりそうですが、「群衆」となると一筋縄ではいかない感じですね。「目的地」についても、具体の地理的場所なのか、思想的な境地、ユートピアなのかなど、可能性は色々ありそうですが、私が初見でイメージしたのは、メーデーとか、社会的政治的動機で集まった「群衆」でした。 
●具体的なものが何一つありません。「群衆」も「目的地」もまるで胡乱じゃないですか。「ひとりづつ歩きダービー後の群衆 熊谷愛子」の「群衆」は見えます。鷹主宰に「もっと見える句を」と言うのもおこがましいのですが。困惑するばかりです。 
○胡乱というのは、ここでは抽象性が高いということだと思いますが、確かに抽象的な言葉のみで構成されると読みの手がかりが掴みにくく、景がぼんやりしてしまうきらいはありますね。ただ、私的には本句の措辞そのものは嫌いではないので、季語を確固たるモノにして句の鮮明度の高くしたくなります。
先程は、メーデーをイメージしたといったのですが、季語「春の暮」中心で考えると、家路を急ぐサラリーマンの群れともとれそうですが、絞りきれない可能性のひとつですかね。
●今月、作者は従来の俳句路線を変えるべくいろいろな試みをしています。その中に小生から見て失敗もありおもしろかったです。作者が何を目指すか注目したいところです。


コメント
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