たぶん毎月と言うわけにはいかないと思いますが、実家に帰ったら、一日はお片付けを手伝おうかなと思っています。
「実家の片付け その1」は、実は記事はなくて「6月の暮らし☆2022」の中の「その他の日記」の欄に書きました。
6月は10年近く手つかずだった父の洋服ダンスの中の服を捨てました。
その時、私はふとある事を思い出し姉に言いました。
「お姉ちゃん、ジャケットなんかを捨てる時は、ポケットの中を見た方が良いよ。」と。その中の服はすべてが洗ってあるわけではなかったのです。父の最後の日々に着ていた服が何枚もありました。
父は黒い革ジャンが好きでした。だけど何枚も似たような奴があって、思わず父らしいなと笑ってしまいました。
父は貰ったお釣りなどをお財布に入れないで、ポケットに入れっぱなしにする事も多かったのです。
子供の頃、母がそれを時々チェックしていたのを見ていたんです。母も私の前でまったく悪びれず、「お父さんはね、こんな所にお金をね・・・」と言う感じ。
ある日、母のいない時に集金の人が来て、対応していた父に「端数の小銭はないですか。」と言ったんです。
あまり小銭を持ち歩かない父だったので、お財布の中を見ながら「ないなあ・・」とか言っていたので、
「あっ、もしかしたら、あるかもよ。」と私は洋服ダンスの中の父の背広のポケットから、その端数のお金をみつけ父に渡しました。
集金の人が帰った後で、
「どうしてそこにお金があるの知ってたの?」と父が聞くので
「お母さんが教えてくれたの。使っていいお金だって。」
「なんて事を !! 悪いやつらだ。」と父。
その後、父が何を言ったのかまでは覚えていませんが、あまり嫌な思いをしなかったので、怒ってなかったのだと思います。
我が家でも、1円5円10円が溜まってしまうと、男たちはみな私に寄付をしたがりますので、そんな感じだったのかも知れませんね。
そして今、父のジャケットからはお金は出てきたのでしょうか。
それが出て来たんです。
100円だったかしら。それにも満たない68円だったかな ?
「少なくて残念だったね。最後はずっと家にいたから、小銭をポケットに入れる機会も無かったものね。」と私は笑いながら言いました。
でも・・・・、
でもですね、私はこれを書いていて、急に切ないような、胸がキューンとなるような気持ちになりました。
洋服ダンスの中で、父の日常がずっと眠っていたのかと思えて。
そして7月の実家の片づけは、母の部屋にある整理ダンスの整理です。勢いがついて押し入れダンスやベッド下の整理などをしました。
資源ごみになる服の処分はゴミ袋二袋でしたが、バッグやベルト、その他もろもろで他に七袋ぐらい捨てました。
なんだか母の部屋が軽くなったように感じました。
母はある時から、「掃除」の意味を忘れてしまったのかと思うくらい、お掃除をする事をしなくなりました。もちろん掃除機掛けなどはしますが、箪笥の上などは何年掃除していないのだろうと言うくらい埃を被っていました。
埃を取ってスッキリした父の作品です。
そうか。下の白い部分は粘土でやればいいんだなとか思う私。
私が箱庭のようなものを作りたくなってしまうのは、父の血の影響からかしら。
因みに私の作ったもので一番最近の物は、2020年のコレ→
頑張った証拠の画像は ↓
引き出しなんかを整理していると、26歳か27歳くらいの父が母に出した手紙が出てきたりしました。私がまだこの世に存在していなかった昔です。
その頃父は失業し、母は山梨の父の実家に身を寄せていました。父は生活を立て直すために、ひとり横浜に残り奮戦していたのでしょう。
母は舅がしていた水晶研磨の仕事を手伝っていたと思います。
綺麗な文字で、仕事はゆっくり覚えれば良いからとか、肩身が狭くならないように食費を送るとか、何も持っていないと心細いと思うから母の小遣いの分も入れておいたとか書いてありました。
手紙には母が「一人で読むこと」と但し書きがついていました。
その但し書きのせいで、途中で読むのを止めたのではありません。母の小遣いもという所で、泣いてしまって読めなくなってしまったのです。
父は若くしてちゃんと大人の素敵な男だったなと、身贔屓な私は思いました。
66年、大事にしまわれていた手紙、もちろん大切に引き出しにしまいました。
(でもいつか読んでしまうと思う、私^^)
押し入れダンスの中から、博多人形が新聞紙に包まれて2個出てきました。
昔これは、箪笥の上に飾られていました。たぶんですが、これが仕舞われたのは、2011年の3月11日以降だったのではないかと思いました。博多人形は母が好きで、部屋にも2個飾ってありましたが・・・・・
やっぱりさぁ、この人形たちは4個一緒に飾られた方が良いよね。
絶対に良いよね。
脈絡なく出てくる花の画像は、6月に行った「イングリッシュガーデン」の花たちです。