なかなか暮れない夏の夕暮れ | |
江國香織 | |
角川春樹事務所 |
自分自身のスタイルをしっかり持っていて決してそれを崩そうとしない人との触れ合いは、ある意味、孤独を共にする覚悟がいるのかもしれない。
だけど、目の前にいるのに本を開かれてその世界に入り込んでいる人の傍らにい続ける事は、一人でいる事と同じで寂しい・・・・・・
なーんてことを、今までの人生で一度たりとも考えたことがなかったので、へえと思ったんだな、これが。
本ばかり読んでいる稔と、彼に関わる人たちの、ある意味群像劇だと思う。
物語に劇的な事は起きない。(まあ、稔の友人の彼には「起きた」と言えるかもしれないが。)
とにかく物語は淡々と続いて行く、私たちの毎日と同じように。
だけどそのたいして変化のないような毎日でも、人はいろいろな事を考えてそのほんのわずかながらの変化に喜びや寂しさを感じながら生きて行くのだと思う。
私は稔が好きだなと思う。
だけど彼の元妻は、そんな一人置いて行かれる寂しさよりも、ずっとテレビを見続ける若い新しい夫に、欲しかった家庭を見出すのだった。
そんなものなのか。私なんかはそのテレビを見続ける夫を最初から持っているので、逆にうんざりするけれどな。
同じ空間に居ながら別々の世界を旅し、そしてお互いに本をパタリと閉じると、駅で落ち合うように部屋の中で再会をする。そんな生活が私は好きだ。きっと稔と私だったら上手くいくなどと妄想をする。
第一、稔は親の遺産で食べて行けるくらいの金持ちだ。(そこが一番好きかもしれない。)祖父の家は美術館になっているし、趣味でソフトクリーム屋をやっているし、なんだかそんな生活もきっと私は大好きだ。だけど誰もそこはあまり重要ではないらしい。微妙にリアリティにかける。
誘えば本を片手に、嫌々ながらもついて来てくれそうだし、例えば私が仕事をすると言ったら、騒々しい生活を嫌ってもきっと何かしらの応援をしてくれると思う。過干渉を愛だと思う事もなく、邪魔にならないまことに良い男だと思う。
そう言えばそういうシーンがあった。
姉の雀と娘の波十と同じ空間で本を読んでいるシーン。部屋の中は静まり返っていて、ふと我に返ると皆本の世界に没頭しているのだ。それでいくつかの外食の案をけってピザを頼むシーンは、さりげない好きなシーンである。
そして本を読む事についても考えさせられる。
稔は食事を作るときも傍らに置いて読み進めた本でも、読み終えて次の本に移ると、もう前の本の事はあまり覚えてもいない・・・・・・。
昔、かなり昔。
私は読んだ本の内容はほとんど覚えていた。そして多読だった。だけど二つ年上の先輩は私よりもさらに多読だった。しかし彼女は読んだ本の内容をすぐに忘れてしまう人だった。その時その先輩の友人が言った。
「読む意味ないじゃん。」と。
記憶とは常にインプットし直して継続させるものである。
結婚していろいろな事にかまけている間に、その事を怠って来た私。
ある時、若いころに読んだ本の内容をほとんど覚えてない事に気が付いて愕然としたことがある。
昔読んだ作品をまた読み直すべきなのかとさえ思った事がある。
だけどこの作品に触れてその本を読んでいるその瞬間が大事なんだと思えたのだ。そしてむしろまた続けて本を読みたくなってしまったのだった。
物語はすべて起承転結で成り立っていると、私は思っている。そうするとこの物語の淡々と続く日常の物語の最後はどのように結ばれるのかと、気になって読み進めて行くうちに、ふと気が付けば私はこの本を開けばすっかりとこの本の中の取り込まれている自分がいたのだった。