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拉致問題:横田早紀江さんの証⑤

2014年11月14日 | 拉致問題

自分は正しい、これでいいのだと思おうとするから、つらくなる


(めぐみさんが行方不明になった当時)なんとかしてこの苦しみから逃れたい、
少しでも自分がきちんと生活しなければという切実な思いで、いくつかの宗教に顔を出してみたこともありました。
救いを求めるというより、何だかじっとしていられなかったのです。
そんなある日、私はまた家でひとり寂しく、冷たい雪の降る空を見上げていました。
「めぐみちゃんは、どこにいるのだろう。あの海の中で藻くずになって消えてしまったのかしら。
あの山のどこかに埋められたのかしら。ほんとうにどんなになってしまったのか」やはり、思いはいつもめぐみのことばかりです。
・・・・・・・・・・・・・・・
そのような時、ふと、聖書を手に取ったのです。
聖書を家に置いていかれた時は、目は涙でいつも腫れ上がっていましたし、精神的にも肉体的にも疲れ果てていたので
「どうしてこんなものが読めるのだろう」と部屋に置いたまま横目で見ていたのです。
しかし突然、自分でもなぜかわかりませんが、とにかく読んでみようという思いになったのです。
パラパラめくりながら、「そう言えば、ヨブ記から読んだらと言われたような……」と、分厚い聖書の中から、その場所を探し出しました。
「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。
彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。
彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。
それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった」(ヨブ1・1-3)
 ボーッとした頭で読み始めたのですが、私はすぐに、「何だか、すごいことが書いてある」
と吸い込まれていく感じで、思わずきちんと座り直していました。
それからは、もうやめられずに、一気に読み進んでいったのです。
もともと本は大好きだったので、ぐいぐいと引き込まれていきました。
ヨブという人は信仰篤く正しい人であったのに、子どもたちをいっぺんに全部亡くし、
家畜をなくし、全ての財産をなくし、自分もひどい皮膚病にかかってしまいます。
こんなにまじめに暮らしてきた人であったのに、どうして次から次へと、たたきのめされるくらいの苦難に見舞われるのだろうかと思いました。
奥さんからも「神を呪って死になさい」と言われるくらい、大変な状態でした。
あまりの悲惨さに、時には自分が生まれたことを呪ったり、神を恨んだりすることばも発しますが、
最後まできちんと神に目を向ける姿勢を崩さずに、苦難に打ちかっていくというお話でした。
どんなに大変なところを通らされても、この神がなさることは正しいのだと、どこまでも神から目を離さずに信じきっているヨブの姿を見た時、言いようもない感動を覚えました。
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1・21)
ヨブ記のこのことばに、私は非常に引きつけられました。人の生も死も神様の御手の中にあって、
神様が「今があなたの時ですよ」と言われたら、一瞬にして命が終わるかもしれないし、
「あなたにはまだすることがある」と言われれば、どんなに苦痛があっても生きて、この世でご用をさせていただくのかもしれないのです。
ヨブの人生を読みながら、1人の子どもを消されてしまっている今現在、私にはまだまだ余裕があるのだと思わされました。
めまぐるしい中にあっても、健康も崩さず元気でいられること、子供が3人いて、1人は取り上げられているけれども、
他の2人の子たちは元気でいること等々。私はヨブという人のように
りっぱな信仰者でもないし、謙遜な人間でもありません。それなのにこれくらいのことで・・・・・・
これくらいと言うと語弊がありますが、とにかく自分が哀れで哀れで、あの子がかわいそうで、「何のせいでこんなになったのか!」
と悲しがったり悔しがったりしていました。
結局、自分は正しいのだ、これでいいのだと思おうとするから、つらくなったり、わが身を哀れんだりしていたのではないかと思いました。
私は一生懸命生きてきてつもりでした。人の目には悪と思われることもしないで、正しく生きていると思っていました。
しかし、いくら人の目に一見良さそうな人間に見えても、そんなものは神様の目から見たら微々たるものにしか過ぎません。
また、人はどれだけ良い人間であろうと自分で努力しても、限界があります。
自分の努力で何でもできると思い、それなりに正しい行動と生活をすれば達成感があると思っていた私の小さな考えとはまったく違う、
神様の視点というものがあると教えられたのです。さらに読み進むと、このようなことばがありました。
「あなたは神の深さを見抜くことができようか。全能者の極限を見つけることができようか」(ヨブ11・7-8)
このことばに、人間の力では及ばない、深く大いなるものを感じたのです。
全能者である神様は、人間の良いも悪いも全部引っくるめて、たましいの底まで見通しておられることを教えられました。
それは、これまで聞いて育った日本古来の「神」や、八百万(やおよろず)の「神」ではありませんでした。
私の知らない何か、大きなものが関わっていると知らされたのです。
横田早紀江著 「愛は、あきらめない」より