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拉致問題:横田早紀江さんの証④

2014年11月13日 | 拉致問題

「本人の罪でも親の罪でもない」ということばに慰められた

  娘がこつ然と姿を消すという、思いかけない大きな出来事の中にあって、
夜はあまり眠れず、昼間はむなしくなってぼんやりしたり、涙にぬれていたりしました。
そんな頃に、いろいろな宗教や占いの人たちが、よく訪ねて来て「こんな事件が起きるのは因果応報だ」とか
「きちんと先祖をお祭りしていないからだ」とか、心に突き刺さるような言葉を残していきました。
 私は、誠実に温かく生きてきた父母に思いを馳せて泣きました。
また、私自身もできるだけ質素に、物を大切にし、人に迷惑をかけたりしないように、
悪いことは悪いと言える勇気をもつように教え育ててもらい、
まじめに生きてきたつもりでした。
 そんなことに心を痛めている私に、めぐみのいちばん仲の良かったお友達のお母さんである眞保節子さんが、慰めのことばをかけてくださいました。
それは、聖書のことばでした。
 「イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』
イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです』 」ヨハネ9・3
 初めて聴く不思議な言葉でした。
 彼女はまた、「神のわざというのが、どう現れるのか今はわからないけど、
これはものすごく大きなことね」と言いました。
私にとって理解は難しかったのですが、このことが 子どもの罪のためでも、両親の罪のためでもないという言葉は、
当時の私の心に大きな 平安と慰めを与えてくれたのは確かでした。
横田早紀江著 「愛は、あきらめない」より