日曜日の朝日新聞「縁」のシリーズに明晴学園のことが載った。6段抜きでかなりのボリューム。しかも39面(社会面)。40面がテレビ番組表だから、表紙の次に大勢の人が目を通す場所なのではないだろうか。
一方で、我らが日本聴力障害新聞5月号の扱いはどうだろうか。1面は「医師国家試験に合格、聴覚障害の竹澤さん」以下2面、3面と追ってみるが、残念ながら明晴学園開校の記事は見つからなかった。
そうか4月号ですでにばっちり紹介してあるのか・・・と4月号を引っ張り出してみると、1面コラム「増幅器」の中に「東京で手話を正規の教科とし、授業も手話で行う学校が誕生しました。」と・・・あれ学校名がないのはなぜ? そしてそれ以外に明晴学園のことに触れた記事が全くないのはどうして?
さらに3月号に遡ってみても、それらしい記事は見あたりません。いや、4面「読者のぺーじ」に「手話に触れない「論点」に思う」という投稿記事がありました。これは2月号に掲載された「今回の教育制度に思う」という河原教育対策部長の記事の中に「手話」という言葉が一言もなかったことに対して疑問を呈している投稿だ。そしてこの投稿記事は「手話に対する「明晴学園」と連盟の姿勢の違いが際だって見える」と締めくくられているのだ。
全日ろう連(日聴紙)は明晴学園の開校ニュースをまったく取り上げないの?私は目を疑いました。しかたないので2月号も広げてみましたら、ようやく6面右隅の囲みで「手話を正規の教科としたろう学校が開校へ」という記事が載っていました。
しかし「東京都が手話を正規の教科として教え、授業も手話でおこなう「特別支援学校」を設置できるよう、政府に対し、構造改革特別区域計画(教育特区)を申請し、認められることになったためです。そして、設立準備資金4500万円を企業回りや街頭募金を重ねて集めてきました。」とあたかも「東京都が、申請し、集めてきました」と読めるような書き方をしています。もちろん行政上の手続きをしたのが東京都であることは明らかですが、申請してもらえるよう働きかけたのは誰なのかということを意図的にぼかしてるとしか思えない書き方です。
確かに明晴学園は、首都圏の、しかも私立のろう学校ですから「ローカルな話題」であるとは思いますが、手話で教育しようというチャレンジを始めた明晴学園に対する日聴紙のこの冷たい扱いは何とかならないものでしょうか。
朝日の記事に「意外に知られていないが、ろう学校のほとんどは、手話で授業をしない。」とありましたが、これでは、「意外に知られていないが、日聴紙をはじめ日本のろうあ運動のほとんどで、明晴学園はほとんど無視されている」と言われかねない。(っていうか要するにそういうことなんでしょうけど、これじゃ聴能口話教育万能にこだわってた北海道の元ろう学校校長先生の「こだわり」と五十歩百歩という気がします。)
この朝日新聞の記事の最後に「他のろう学校もいまや積極的に手話導入の努力を始めており、全日本ろうあ連盟をはじめ全国のろう者が明晴学園の行方を見守っている。」とか書かれれば、まさにいま闘っている特別支援学校化への抵抗運動(?)にとっても何らかの追い風にできただろうにと思うのだが。
縁
みんな手話の学校-ろう者の言葉が夢結ぶ(2008年5月25日(日)朝日新聞)
午前9時すぎ。登校してきた児童に、小野広祐先生(28)があいさつした。
「おはようございます」
「先生おはよう。あのね、この前なくした連絡帳ね……」
3年生の女の子が早口で告げた。いや、もし声に出すなら、きっとそう言ったのに違いない。
目の前では、花火がはじけるように手が動くだけだ。2人とも、生まれつき耳が聞こえない。東京都品川区にこの春開校した私立明晴(めいせい)学園は、みんなが手話でしゃべる日本初の学校だ。授業も職員会議も児童のおしゃべりも、すべて手話。小野さんたちの夢だった。
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小野さんは、声楽家の父のもとに生まれた。小学生の6年間、土曜になると「社会で生きていくために」と自宅で発声やピアノの練習をさせられた。いまも「エリーゼのために」がそらで弾ける。音がずれると半ズボンの足をたたかれた。でもどこを間違えたのか分からない。土曜が嫌いだった。
意外に知られていないが、ろう学校のほとんどは、手話で授業をしない。わずかな聴力と教師の口の形から話を推測させ、自分に聞こえない声で答えさせる。
「聴覚口話法」というこの方法で小野さんも学んだ。出席をとる時、担任はわざと口元を隠した。オノコースケ。あごが3回縦に動く。それが自分の番だった。「手話なんか使えばチンパンジーのようになる」と言われた。親や先生にほめてもらいたくて、ひたすら声を出した。
「でも本当は、言いたいことのいくらも伝えられなかった。違う、苦しい、と思っていました」
ろう者とは手話という言語を使う文化的少数者だ-誇らかに掲げた「ろう文化宣言」の著者、木村晴美さんの講演を見たのは、そんな時だった。「手話は、日本語とは文法も単語も異なる独立した言語なんです」。高校2年の小野さんにとって、話のすべてが新鮮だった。
風呂場の鏡で一人、手話を練習しはじめた。だが声も捨てきれない。声を出すことが、自分の全人生だったのだ。いったい自分は何者なのか。揺れていた。
8年ほど前、大学仲間と居酒屋で一杯やることになり、得意の□話で頼んだ。「生ビール中!」
店員が注文を運ぶ。その光景に目を丸くした。ジョッキが次々とテーブルに並べられていく。
「生ビール9」。店員には、そう聞こえたのだと分かった時、固まった。通じやしないんだ。決めた。自分はろう者として生きる。
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TBSディレクターだった斉藤道雄さん(61)は96年、「ろう文化宣言」の木村さんに会った。
ワシントン支局長だった93年、ろう者のための大学を見学し、カフェテリアで100人以上の手話が飛び交う光景に心が震えた。帰国後、日本の取材をし、「手話の世界」という番組を放送した。
その中で、静岡出身の赤堀仁美さん(35)が言う。両親も妹もろう者。生まれた時から手話で育った。「私はろう者となら、本当に深いところまで話ができるんですよ。聴者とでは無理なんです」
「何これ!」。TBSの番組を見て、岐阜県でろう学校の教師をしていた長谷部倫子さん(43)はのけぞった。「ろう」は差別語だと思っていたのに、番組の彼らは「自分たちは障害者じゃない。ろう者だ」と胸を張る。
赴任まで手話通訳を見たこともなかった。算数の授業なのに、足し算そっちのけで問題文の単語を発音させた。「これは教育なんだろうか」。学校を辞めて上京。その年の夏、東京都府中市で聞かれた全国ろう学生懇談会で、司会者をしていた小野さんに出会った。
手話という言葉に導かれた人の輪。ろう教育の改革を目指す者たちが次々と集まった。
99年、小野さんたちは、ろう児のためのフリースクール「龍の子学園」をつくった。小野さんは、親の反対を押し切ってIT関連会社を辞め、専従スタッフになった。収入は、ひとけた落ちた。遊び盛りの年齢なのに、寝袋持参で狭い事務所に泊まり込んでは、他人の子供のために教材をつくる。その熱心さに、親たちがうたれた。「一日も早く本当の学校にして、安定させてあげたい」
転機は思わぬところにあった。
05年、石原慎太郎都知事の講演で親の一人が、手話で教える学校を、と訴えた。知事が尋ねた。手話は言語なのか。手話なら何でも話せるのか」。その通りだ。「ろう学校は手話を使っているのだと思っていた。申し訳ない」。07年3月、都が国に申請した「バイリンガルろう教育特区」の認定がおりだ。
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今年4月に開校してIカ月半。
校長席に斉藤さんがいる。教頭が長谷部さん。独自教科の「手話」担当は赤堀さん。そして小野さんは日本語」担当だ。赤堀さんと小野さんは、教員免許の取得に向けて、まだ見習い中だ。
5月のある日。2時間目の授業は、花の絵と日本語表記を組み合わせる授業だった。
「指文字で表現してごらん」と小野さんが女の子に言った。
ア・ジ・サ・イ。
小指だけを立てる「イ」の字で、薬指がちょこんと上がってしまう。小野さんがそっと直した。
授業の終わりを告げる、チャイム代わりの緑ランプが点滅した。
「ついたよ~」。子供たちが小さな手で一斉に指さした。(谷津憲郎)
一方で、我らが日本聴力障害新聞5月号の扱いはどうだろうか。1面は「医師国家試験に合格、聴覚障害の竹澤さん」以下2面、3面と追ってみるが、残念ながら明晴学園開校の記事は見つからなかった。
そうか4月号ですでにばっちり紹介してあるのか・・・と4月号を引っ張り出してみると、1面コラム「増幅器」の中に「東京で手話を正規の教科とし、授業も手話で行う学校が誕生しました。」と・・・あれ学校名がないのはなぜ? そしてそれ以外に明晴学園のことに触れた記事が全くないのはどうして?
さらに3月号に遡ってみても、それらしい記事は見あたりません。いや、4面「読者のぺーじ」に「手話に触れない「論点」に思う」という投稿記事がありました。これは2月号に掲載された「今回の教育制度に思う」という河原教育対策部長の記事の中に「手話」という言葉が一言もなかったことに対して疑問を呈している投稿だ。そしてこの投稿記事は「手話に対する「明晴学園」と連盟の姿勢の違いが際だって見える」と締めくくられているのだ。
全日ろう連(日聴紙)は明晴学園の開校ニュースをまったく取り上げないの?私は目を疑いました。しかたないので2月号も広げてみましたら、ようやく6面右隅の囲みで「手話を正規の教科としたろう学校が開校へ」という記事が載っていました。
しかし「東京都が手話を正規の教科として教え、授業も手話でおこなう「特別支援学校」を設置できるよう、政府に対し、構造改革特別区域計画(教育特区)を申請し、認められることになったためです。そして、設立準備資金4500万円を企業回りや街頭募金を重ねて集めてきました。」とあたかも「東京都が、申請し、集めてきました」と読めるような書き方をしています。もちろん行政上の手続きをしたのが東京都であることは明らかですが、申請してもらえるよう働きかけたのは誰なのかということを意図的にぼかしてるとしか思えない書き方です。
確かに明晴学園は、首都圏の、しかも私立のろう学校ですから「ローカルな話題」であるとは思いますが、手話で教育しようというチャレンジを始めた明晴学園に対する日聴紙のこの冷たい扱いは何とかならないものでしょうか。
朝日の記事に「意外に知られていないが、ろう学校のほとんどは、手話で授業をしない。」とありましたが、これでは、「意外に知られていないが、日聴紙をはじめ日本のろうあ運動のほとんどで、明晴学園はほとんど無視されている」と言われかねない。(っていうか要するにそういうことなんでしょうけど、これじゃ聴能口話教育万能にこだわってた北海道の元ろう学校校長先生の「こだわり」と五十歩百歩という気がします。)
この朝日新聞の記事の最後に「他のろう学校もいまや積極的に手話導入の努力を始めており、全日本ろうあ連盟をはじめ全国のろう者が明晴学園の行方を見守っている。」とか書かれれば、まさにいま闘っている特別支援学校化への抵抗運動(?)にとっても何らかの追い風にできただろうにと思うのだが。
縁
みんな手話の学校-ろう者の言葉が夢結ぶ(2008年5月25日(日)朝日新聞)
午前9時すぎ。登校してきた児童に、小野広祐先生(28)があいさつした。
「おはようございます」
「先生おはよう。あのね、この前なくした連絡帳ね……」
3年生の女の子が早口で告げた。いや、もし声に出すなら、きっとそう言ったのに違いない。
目の前では、花火がはじけるように手が動くだけだ。2人とも、生まれつき耳が聞こえない。東京都品川区にこの春開校した私立明晴(めいせい)学園は、みんなが手話でしゃべる日本初の学校だ。授業も職員会議も児童のおしゃべりも、すべて手話。小野さんたちの夢だった。
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小野さんは、声楽家の父のもとに生まれた。小学生の6年間、土曜になると「社会で生きていくために」と自宅で発声やピアノの練習をさせられた。いまも「エリーゼのために」がそらで弾ける。音がずれると半ズボンの足をたたかれた。でもどこを間違えたのか分からない。土曜が嫌いだった。
意外に知られていないが、ろう学校のほとんどは、手話で授業をしない。わずかな聴力と教師の口の形から話を推測させ、自分に聞こえない声で答えさせる。
「聴覚口話法」というこの方法で小野さんも学んだ。出席をとる時、担任はわざと口元を隠した。オノコースケ。あごが3回縦に動く。それが自分の番だった。「手話なんか使えばチンパンジーのようになる」と言われた。親や先生にほめてもらいたくて、ひたすら声を出した。
「でも本当は、言いたいことのいくらも伝えられなかった。違う、苦しい、と思っていました」
ろう者とは手話という言語を使う文化的少数者だ-誇らかに掲げた「ろう文化宣言」の著者、木村晴美さんの講演を見たのは、そんな時だった。「手話は、日本語とは文法も単語も異なる独立した言語なんです」。高校2年の小野さんにとって、話のすべてが新鮮だった。
風呂場の鏡で一人、手話を練習しはじめた。だが声も捨てきれない。声を出すことが、自分の全人生だったのだ。いったい自分は何者なのか。揺れていた。
8年ほど前、大学仲間と居酒屋で一杯やることになり、得意の□話で頼んだ。「生ビール中!」
店員が注文を運ぶ。その光景に目を丸くした。ジョッキが次々とテーブルに並べられていく。
「生ビール9」。店員には、そう聞こえたのだと分かった時、固まった。通じやしないんだ。決めた。自分はろう者として生きる。
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TBSディレクターだった斉藤道雄さん(61)は96年、「ろう文化宣言」の木村さんに会った。
ワシントン支局長だった93年、ろう者のための大学を見学し、カフェテリアで100人以上の手話が飛び交う光景に心が震えた。帰国後、日本の取材をし、「手話の世界」という番組を放送した。
その中で、静岡出身の赤堀仁美さん(35)が言う。両親も妹もろう者。生まれた時から手話で育った。「私はろう者となら、本当に深いところまで話ができるんですよ。聴者とでは無理なんです」
「何これ!」。TBSの番組を見て、岐阜県でろう学校の教師をしていた長谷部倫子さん(43)はのけぞった。「ろう」は差別語だと思っていたのに、番組の彼らは「自分たちは障害者じゃない。ろう者だ」と胸を張る。
赴任まで手話通訳を見たこともなかった。算数の授業なのに、足し算そっちのけで問題文の単語を発音させた。「これは教育なんだろうか」。学校を辞めて上京。その年の夏、東京都府中市で聞かれた全国ろう学生懇談会で、司会者をしていた小野さんに出会った。
手話という言葉に導かれた人の輪。ろう教育の改革を目指す者たちが次々と集まった。
99年、小野さんたちは、ろう児のためのフリースクール「龍の子学園」をつくった。小野さんは、親の反対を押し切ってIT関連会社を辞め、専従スタッフになった。収入は、ひとけた落ちた。遊び盛りの年齢なのに、寝袋持参で狭い事務所に泊まり込んでは、他人の子供のために教材をつくる。その熱心さに、親たちがうたれた。「一日も早く本当の学校にして、安定させてあげたい」
転機は思わぬところにあった。
05年、石原慎太郎都知事の講演で親の一人が、手話で教える学校を、と訴えた。知事が尋ねた。手話は言語なのか。手話なら何でも話せるのか」。その通りだ。「ろう学校は手話を使っているのだと思っていた。申し訳ない」。07年3月、都が国に申請した「バイリンガルろう教育特区」の認定がおりだ。
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今年4月に開校してIカ月半。
校長席に斉藤さんがいる。教頭が長谷部さん。独自教科の「手話」担当は赤堀さん。そして小野さんは日本語」担当だ。赤堀さんと小野さんは、教員免許の取得に向けて、まだ見習い中だ。
5月のある日。2時間目の授業は、花の絵と日本語表記を組み合わせる授業だった。
「指文字で表現してごらん」と小野さんが女の子に言った。
ア・ジ・サ・イ。
小指だけを立てる「イ」の字で、薬指がちょこんと上がってしまう。小野さんがそっと直した。
授業の終わりを告げる、チャイム代わりの緑ランプが点滅した。
「ついたよ~」。子供たちが小さな手で一斉に指さした。(谷津憲郎)