ヨーロッパの映画祭を中心に高い評価を受ける、韓国の鬼才キム・ギドクの監によるラブロマンス。海に浮かぶ船の上で、2人きりの生活を営む老人と少女の愛ときずなが神秘的なタッチで描かれる。主人公の老人を演じるのは『清風明月』のベテラン俳優チョン・ソンファン。彼から惜しみない愛を注がれる少女を『サマリア』でもキム・ギドクのミューズとして注目を浴びたハン・ヨルムが演じる。あどけなさと妖艶さを兼ね備えたハン・ヨルムの美しさに注目したい。[もっと詳しく]
キム・ギドク監督は「自虐」を装いながら、韓国映画界と訣別しようとしているのかもいしれない。
それにしても、キム・ギドク監督の爆弾発言のその後は、どうなったのだろう?
この8月18日、韓国MBCテレビ「100分討論」に出席したキム・ギドクは、「グエムル」について、「韓国映画と観客のレベルが最頂点に一致した映画が『グエムル-漢江の怪物-』だ」といった揶揄をし、ネチズンと激しく対立した格好となった。
3日後に謝罪した。自らの過去の作品について、「今回の事態を通して、自分自身が韓国で生きていくにはあまりに深刻な意識障害を持った人間であることがわかった」とし、「自分こそ韓国社会で奇形的に生まれ劣等感を糧に育ってきた怪物のようなもの」と自虐的に表現した。
このほかこれまでの自分の作品がすべてゴミのようなものと話し、試写会を終えた新作映画『時間』についてもこれを公開したくないと語った。(朝鮮日報より)
最初の「グエムル批判」のヘッドラインを見たとき、ちょうど僕自身も、この作品に乗り切れなかった思いをblogに書いたところだったので、勝手に「わが意を得たり!」などと思っていた。
しかし、よく記事を読んでみると、過去の自分の作品を「ゴミ」といいきり、もう、韓国での映画作家の活動を停止するとまで、発言している。
これらの発言は、ヨーロッパ映画界では最高の評価をされるのに、韓国では、受けが悪く、それがまた興行館が狭められるという悪循環に陥っていることに対するここ10年近くの苛立ちのせいなのか、それとも、韓国映画界に対する形を変えた戦闘宣言なのか、あるいは字句どおり自己嫌悪の狭間で弱気になり自暴自棄に陥っているのか、躁鬱症的な状態にあるのか・・・真実はわからない。
キム・ギドク監督は最新作「時間」が13作目。ここ数年は、年1~2本のハイペースで新作を発表してきており、僕などギドクのカルトファンとでも自認したくなるものまで含め、喜ばしい状況であった。
低予算・早撮りのギドク作品の12番目にあたる。
僕のギドク作品に関する拙いblogは、以下である。
NO.010「春夏秋冬そして春」
NO.119「受取人不明」
NO.117「サマリア」
「ワニ」「悪い女」「魚と寝る女」「コースト・ガード」「悪い男」「うつせみ」
どの作品も、苦さも含めて、ギドクの複雑な心象風景が、観る者に突き刺さってきた。
キム・ギドクの今回の自虐的な問題発言にも、なるほどと、思うところもある。
「加虐と被虐そして自虐」というのは、監督自らが自分の作風の表現に使っているからだ。
それよりも、僕は、かつて監督がインタビューにこう応えたことが、頭からなかなか去らないのだ。
いわく「私たちは遠からず、みんな狂ってしまうかもしれない」 。
さて、「弓」である。
いつもと同じように、いきなり特異な設定が、用意されている。
無骨な老人(チョン・ソンファ)は沖合いに古びた船を係留しており、そこで、無垢な少女(ハン・ヨルム)と奇妙な同居をしている。
少女はあと3ヶ月で17歳。実は10年前に攫ってきた少女を「監禁」し、17歳になったら「結婚」することが、老人の生甲斐となっている。
実際には「監禁」とはほど遠く、老人は得意な弓を楽器とし、ヘグム(朝鮮二胡)の愛
の調べを、慈しむように毎夜、少女に奏でている。
生活のため、小船で陸から釣り客を運び、少女に世話をさせている。釣り客が少女にちょっかいを出そうとすると、老人は睨み付け、弓で威嚇したり、追い返したりする。
また、客の求めに応じて、「弓占い」をしたりする。
仏画が描かれた船腹に吊り下げられたブランコに少女が座り、海面ぎりぎりを、ゆあんゆあんと揺らせる。
老人は離れたボートから、3本の弓を揺れる少女めがけて射る。弓は間一髪、少女を掠めて船腹に勢いよく突き刺さる。そのかたちをみて、占うのだ。
釣り人たちは、一様に、老人の繰り出す矢を、まったく信頼しきって受け止める少女に驚く。
ある日、青年(ソ・ジソク)が船を訪れる。
少女と青年は好意を擁きあう。引き離そうとする老人。
少女は、おそらくはじめて、「異性」と「外界」を感じる。そして、老人に抵抗を示すようになる。
老人は焦燥する。青年は、陸で、少女の行方を捜す家族をつきとめ、少女を陸に送り届けようとするのだが・・・。
老人の奏でる音楽が言葉よりも饒舌だ。
この孤独な老人の少女に対する行為を、市民主義風にいえば、下劣な欲望で拉致監禁をしたとんでもない変質者でありロリコンであり、とうてい許すことなどできない、ということになる。
けれど、少女の世話に生甲斐を感じ、盥で優しく少女を湯浴みさせてやり、月光の下で多弁な音楽を奏で、夜はベッドの上と下で手を握って眠る。この、「至上の愛」とでもいえる崇高な二人の姿に、俗情の入り込む余地などないのだ、というようにファンタジー的に見て取ることもできる。
少なくとも僕は、二人の間に割って入った青年は、俗世間の象徴であり、「聖」を「俗」に引きずり落す「常識」という名の、<悪魔の使い>のようにも思えたものである。
焦燥する老人は、いままでのように少女が一日一日をかけて、ゆっくりと17歳になる過程を楽しんで待つことは出来ない。毎日×印をつけていたカレンダーだが、待ちきれずに破いてしまう。
少女が抵抗を見せて以来、観念としての老人の「性」は、哀しいことに老醜にも似た「性」の欲望に堕落してしまう。
所詮は、「所有」できない少女であり、「不可能性」の愛ゆえの、奇跡のようなファンタジーが、保持されてきたのだ。その「神聖」が、俗情に穢されていく。
あの美しい物語は、どこにいってしまうのか、僕たちは胸がしめつけられる。
しかし、ギドク監督は、いつになく優しい結末を用意していた。
少女は、死を賭けて呼び戻そうとする老人に憐れを感じる。
ボートの上で、老人と少女は結婚式をあげる。着飾った少女との儀式が終了し、老人は、少女をまた下着姿に戻す。
最後の音楽を奏で、少女は入眠状態に入っていく。
老人は、まず、眠る少女に弓をしぼり、そのままゆっくりと天高く弓を射掛け、そして満足したように海に飛び込む。
少女は夢の中で、男を待ち受ける。そこに、天から矢が落下してくる。少女の下腹部が血に染まる。そして、少女は腰をうねらせ、エクスタシーに達する。
こんなに美しい少女の「処女破瓜」の映像表現を見たことはない。
「破瓜」はまた16歳のことを指し、「瓜」字が「八」字を二つ合わせたように見えるところから漢詩文で用いられる表現ともなっている。
信じることでエロティシズムが生まれる。
正義の使いのようでもあった青年は、ふたりの儀式を黙って見守る以外に無力である。
主のいなくなった船にエンジンがかかり、青年と少女を乗せたボートをしばらく追いかけ、そして、海に自ら沈んでいく。美しいシーンである。
エンドロールにテロップが流れる。
「ぴんと張った糸には強さと美しい音色がある。死ぬまで弓のように生きていたい。/2005年、キム・ギドク12番目の作品」 。
たとえ、本人が、自分の作品を「ゴミのよう」と口走ったとしても、僕は、信じている。
あなたは、弛緩することに耐えられないのだ。あなたは、自分をも、強迫せざるを得ないのだろう。
なぜなら、あなたは「死ぬまで弓のように生きていたい」のだから・・・。
僕自身は俗世間に染まりきった常識ある人間でしょう。
しかし、おじいさんは結婚してその後どうしたかったのだろう?
セックスってなんなんだろう。
ロマンチックは愛なのか。
死と愛を天秤にかけたシーンでもほぼ同時に見えるように撮られていたし、なんかメッセージの伝え方が潔くないと言うか、計算されつくしているような気がして。
分からないなら撮るな、と。分からないのは僕でしょうが・・・。
愛を描いているとは思えない何かを感じました。
それに、僕は「聖なるもの」は嫌いです。
美しいと認識できたのはおじいさんが陰になって背景が濃いブルーに包まれて弓を弾くシーンです。僕の細胞に俗世間の醜いものが刷り込まれていると危惧すべきなのでしょうか。
とか言いながら、キムギドク作品を今ツタヤで五つも借りてきました。これから観ます。
楽しみです。
僕は、結構、年をとっているので、老人の側にファンタジーを感受したいのかもうぇあかりませんけどね(笑)
ギドク5本ですか。結構、ハードですね。
色々なブログを見ていると、結構皆さんとも最後の船が海に沈むシーンを美しいと捉えているようですね。
私は儚く感じました。
それと、老人が自分の首に回していたロープを命惜しさにナイフで切り、そのナイフを隠したシーンに人間の汚さを感じています。
私はどちらかといえば青年にシンパシーをもって見ていたのですが・・・確かに老人から見た青年は、醜い「俗」の象徴なのかも知れませんね。
ともあれ、聖と俗、美と醜のコントラストは見事でした。醜さがしっかり描かれているからこそ、美しさが引き立つのだろう、と思いました。
たしかに、少女は、肉体的に成熟し、老人の視線は、「結婚式」が間近になるにつれ、俗っぽくなってきていたのでしょう。
古びた船が象徴するのは、海上に停泊することによって、少女との時間を停止させた老人そのものです。だから、それは、夢のように儚さを感じさせます。
最後のロープの解釈もいろいろあります。おっしゃるように、あの老人の「醜さ」そのものが露出し、そのあまりの直接性に少女は同情したというようにも、捉えられます。
>狗山さん
青年は一般的には少女を救出する「騎士」の役割を背負っています。けれど、この話では、老人の「醜さ」「卑怯さ」「俗悪さ」が紙一重で、逆のベクトルに転倒しているわけですね。その転倒に、少女自身が、加担しているわけです。そこに、芸術としての「悪」の魔力とてもいったものが、表出されているんだろうな、と感じられました。
キム・ギドク監督、韓国映画界と訣別しようとしているのかもしれないのですね。
私から観ると、どうして、素晴らしい作品ばかりなのに、母国では評価されないのかな、と思います。
最後に、船が海に沈んでゆくシーンでは、ジーンと来て、涙が出ました。
「倫理」という枠にはめて見れば、老人は犯罪者だと思います。しかし、その枠が無かったなら、実は、そういう願望や欲望は、老若男女すべてが持っているものだと、素直に認める事が出来ると思います。少なくても私は、好きな人を独り占めにして、自分の思い通りにしたいと思った事があります。私自身にそういう願望があるので、老人に共感した部分がありました。
なぜか文字化けしていたのに、紹介していただけて、感謝しております。
僕には、それが妹であれ、姪っ子であれ、もしかしたら養女であれ、(まさか攫ったりはしないでしょうが)、少女の成長過程と共にありたいという気持ちがありますね。
実の親子の関係とは、やはり異なると思います。
ウディ・アレンと養女の関係に近いかもしれませんが。あるいは、王朝貴族時代の養子縁組の世界に近いかもしれません。
人間のエロスの在り方は、本当は現世倫理を超越していると思います。
ただ、僕たちは、この社会のなかに、約束事にしたがって生きているので、芸術世界以外には、罪になるというだけの話ですね。
先日は、当方のギドク関連のエントリー(―中途半端なエントリーゆえ、少々申し訳ない思いです^^;)にTBを頂きありがとうございます。
エントリー、何回か味読させて頂きました!
僕は、『弓』の鑑賞前に体験していたギドク監督作品は『サマリア』のみ。
そして、『弓』鑑賞後に、『うつせみ』、『悪い男』をDVD鑑賞しました。
僕は、『弓』の初鑑賞時に於いては、全編、陶然と眼差しているばかりだったものの、あのエンディングに付け加えられる言葉が不要にも思えたのですが、一方、『うつせみ』に於ける“それ”は、僕の中にすっと入ってくるものでした。
こんな極めて些細な一点(―『弓』に於いては、あの部分が僕に取って余計なものであったのか否か)を今一度映画時間の中で確認してみたいことも一つにはあって、遅かれ、まず『弓』を、追って『うつせみ』を再鑑賞してみたく思えています。
そして、これまでに鑑賞出来たギドク監督4作品個々から享受したもの、その(特異で、心奪う)煌きやらは、やはり、一つずつレヴュー等に書きまとめて行きたいですねぇ…。
それでは、また、こちらの充実のエントリーを少しずつ拝読させて頂きます。
まずは、今後とも宜しくお願いいたします。
ギドクはいろんなことを観るものにも考えさせますね。
僕も、素人blogで恥かしいですが、なんらか書くという作業を通じて、自分なりに、考えを整理できるところがあります。
ダーリンさんも、ぜひ、レヴューにまとめていってください。
といいつつ、僕も、書きたいレヴューはたまる一方なんですけどね(笑)
コメント、TBありがとうございました。
弓、韓国よりも日本での方が雑誌でも割と取り上げられる評論家の方々が多かったり、話題にもなっている様に見受けられて、ちょっと嬉しい様な気持ちになっています。
私はこの映画は、笑う映画じゃないのに、ちょっと滑稽で笑ってしまう部分が多かったんですよ。大人な、おとぎ話し?みたいな印象を受けました。