自分が執筆する小説に登場する女性に幻想を抱く作家の恋を描くラブファンタジー。ある日、コーヒーショップでひとりの女性と出会ったダニエルは、彼女が自分の小説に登場するルシンダであることに気付く。これを機に、ふたりの恋の物語が始まるが…。
これは「夜更かし羊」ではなく「衛星と隕石」をめぐる暗喩の物語かもしれない。
原題は『SATELLITES & METEORITES』だから、『衛星と隕石』とでも訳しておけばいいものを、『夜更かし羊が寝る前に~君を捜しに行くまでの物語』などという不思議ちゃん的な長ったらしい邦題は、誰がつけたのか?
しかも日本では劇場公開もされていないから、公式サイトもつくられていないくせに。
なかなかいい映画であったミシェル・ゴンドリー監督の『恋愛睡眠のすすめ』(06年)の線を狙ったのか、それとも村上春樹の「羊シリーズ」を連想させようとしたのか。
DVDのジャケットだって、なんかファンタジーぽい感じなのだが、クリエイターが本気で制作しているとは、とても思えない。
監督はリック・ラーキン。
僕には『Onceダブリンの街角で』(07年)のジョン・カーニー監督ぐらいしか知らないアイルランドの監督さんだ。
おそろしく低予算映画なのだろうとも思う。
まあ、夢の中の出来事であるから構わないのだが、庭園に落ちてきた隕石は紙のハリボテのようであったし、自作のロケットはロボコン選手権のようなしろものであった。
編集もこなれているとは思えないし、脚本ももう少し練りようがあるだろうというものだ。
にもかかわらず、僕はこの作品をとても興味深く見ることが出来た。
それはそれほど哲学的にも、脳のメカニズム的にも、あるいは夢や集合無意識の理論としても、深く掘り下げられていないとしても、リック・ラーキン監督が取り上げたかったテーマに関しては、僕もことのほか、関心があるからだ。
そして、「不思議でヘンテコなラブ・コメディですね」とは簡単に片付けられそうにない、とっても奥深い領域をともあれテーマとしようとしているからだ。
作家であるダニエル(アダム・ファーガス)は、虚構の作中人物を思わせるルシンダ(エイミー・ハバーマン)という女性と「現実世界」で接触し、ふたりは急速に惹かれあうことになる。
ふたりが接触している時間はだんだん長くなるが、その空間に異なる世界からの声が入り込んだり、既知の人物が他人のように登場したり、奇妙な入れ子構造が出現するようになってくる。
一方で、病院の中で、事故にあったダニエルとルシンダは、それぞれ意識が回復しないまま、治療を受けている。
どうやら、それぞれが「夢」のなかでシンクロしあって、その世界で恋愛感情を持ち、もうひとつの「現実」を生きているらしい。
医者のジョンや看護婦であるイザベルは、医学では説明がつきそうにないこの事態に混乱しながらも、ホルモン治療で「こちらの世界」に連れ戻そうとするのだが・・・。
どこからどこまでが、「現実」であり「夢(非現実)」なのか?
「夢」がそうであるように、「意識」の覚醒も何を指して、そう呼ばれるのか?
もし「夢」あるいは無意識ないし非覚醒の状態で、脳が感じる世界が「リアル」だとしたら、それはひとつの「現実」ではないのか?
荘子の「胡蝶の夢」の説話のように、病床のダニエルたちは夢を見ているのか、あるいは恋するダニエルたちがもうひとつの現実に無理やり引き戻されようとしているのか?
医者のジョンは、ダニエルの執事のような存在であり、会社の上司のような存在であり・・・、そうした役割の変容は、僕たちがふだん夢の中で普通に経験することであり、あるいは統合失調症の症例には頻繁に登場するものである。
けれど、たまたまこの作品では、妻との数年来の浮気が理由の不和に苦しむジョンにとってみれば、ダニエルやルシンダの覚醒も、また妄想であるかもしれない。
現実世界に戻りたくないけれども戻されてしまったダニエルに、「ルシンダとの時間は現実よ」と囁き、病院を連れ出すイザベルにとっても、それもまた妄想であるかもしれない。
ダニエルを送り出すイザベルの背後には、執事の姿になったジョンが佇んでいたりしたのだから・・・。
ダニエルとイザベルは時々、奇妙な日本語を使いながら、東京の渋谷の交差点でプロポーズの儀式をおこなうことを約束しあっている。
どうしてそこに渋谷の交差点のイコンが登場するのは不明なのだが、もう脳内の「現実」が作り出す世界の、どれがホンモノでどれがニセモノなのかという問いも、どこかで虚しいような気もする。
植物状態であろうが、非科学的だという謗りを受けるかもしれないが「脳死」状態であろうとも、未明な階層にある未分化な意識は、もしかしたら「胡蝶の夢」の中を漂っているのかもしれない。
たぶんそこでは「衛星と隕石」がもたらす、なんらかの特異なエネルギー磁場のような暗喩を、この監督は本当はこめたかったのかもしれない。
少なくとも「夜更かし羊」といったわけのわからぬメルヘンな暗喩というよりは。
これは「夜更かし羊」ではなく「衛星と隕石」をめぐる暗喩の物語かもしれない。
原題は『SATELLITES & METEORITES』だから、『衛星と隕石』とでも訳しておけばいいものを、『夜更かし羊が寝る前に~君を捜しに行くまでの物語』などという不思議ちゃん的な長ったらしい邦題は、誰がつけたのか?
しかも日本では劇場公開もされていないから、公式サイトもつくられていないくせに。
なかなかいい映画であったミシェル・ゴンドリー監督の『恋愛睡眠のすすめ』(06年)の線を狙ったのか、それとも村上春樹の「羊シリーズ」を連想させようとしたのか。
DVDのジャケットだって、なんかファンタジーぽい感じなのだが、クリエイターが本気で制作しているとは、とても思えない。
監督はリック・ラーキン。
僕には『Onceダブリンの街角で』(07年)のジョン・カーニー監督ぐらいしか知らないアイルランドの監督さんだ。
おそろしく低予算映画なのだろうとも思う。
まあ、夢の中の出来事であるから構わないのだが、庭園に落ちてきた隕石は紙のハリボテのようであったし、自作のロケットはロボコン選手権のようなしろものであった。
編集もこなれているとは思えないし、脚本ももう少し練りようがあるだろうというものだ。
にもかかわらず、僕はこの作品をとても興味深く見ることが出来た。
それはそれほど哲学的にも、脳のメカニズム的にも、あるいは夢や集合無意識の理論としても、深く掘り下げられていないとしても、リック・ラーキン監督が取り上げたかったテーマに関しては、僕もことのほか、関心があるからだ。
そして、「不思議でヘンテコなラブ・コメディですね」とは簡単に片付けられそうにない、とっても奥深い領域をともあれテーマとしようとしているからだ。
作家であるダニエル(アダム・ファーガス)は、虚構の作中人物を思わせるルシンダ(エイミー・ハバーマン)という女性と「現実世界」で接触し、ふたりは急速に惹かれあうことになる。
ふたりが接触している時間はだんだん長くなるが、その空間に異なる世界からの声が入り込んだり、既知の人物が他人のように登場したり、奇妙な入れ子構造が出現するようになってくる。
一方で、病院の中で、事故にあったダニエルとルシンダは、それぞれ意識が回復しないまま、治療を受けている。
どうやら、それぞれが「夢」のなかでシンクロしあって、その世界で恋愛感情を持ち、もうひとつの「現実」を生きているらしい。
医者のジョンや看護婦であるイザベルは、医学では説明がつきそうにないこの事態に混乱しながらも、ホルモン治療で「こちらの世界」に連れ戻そうとするのだが・・・。
どこからどこまでが、「現実」であり「夢(非現実)」なのか?
「夢」がそうであるように、「意識」の覚醒も何を指して、そう呼ばれるのか?
もし「夢」あるいは無意識ないし非覚醒の状態で、脳が感じる世界が「リアル」だとしたら、それはひとつの「現実」ではないのか?
荘子の「胡蝶の夢」の説話のように、病床のダニエルたちは夢を見ているのか、あるいは恋するダニエルたちがもうひとつの現実に無理やり引き戻されようとしているのか?
医者のジョンは、ダニエルの執事のような存在であり、会社の上司のような存在であり・・・、そうした役割の変容は、僕たちがふだん夢の中で普通に経験することであり、あるいは統合失調症の症例には頻繁に登場するものである。
けれど、たまたまこの作品では、妻との数年来の浮気が理由の不和に苦しむジョンにとってみれば、ダニエルやルシンダの覚醒も、また妄想であるかもしれない。
現実世界に戻りたくないけれども戻されてしまったダニエルに、「ルシンダとの時間は現実よ」と囁き、病院を連れ出すイザベルにとっても、それもまた妄想であるかもしれない。
ダニエルを送り出すイザベルの背後には、執事の姿になったジョンが佇んでいたりしたのだから・・・。
ダニエルとイザベルは時々、奇妙な日本語を使いながら、東京の渋谷の交差点でプロポーズの儀式をおこなうことを約束しあっている。
どうしてそこに渋谷の交差点のイコンが登場するのは不明なのだが、もう脳内の「現実」が作り出す世界の、どれがホンモノでどれがニセモノなのかという問いも、どこかで虚しいような気もする。
植物状態であろうが、非科学的だという謗りを受けるかもしれないが「脳死」状態であろうとも、未明な階層にある未分化な意識は、もしかしたら「胡蝶の夢」の中を漂っているのかもしれない。
たぶんそこでは「衛星と隕石」がもたらす、なんらかの特異なエネルギー磁場のような暗喩を、この監督は本当はこめたかったのかもしれない。
少なくとも「夜更かし羊」といったわけのわからぬメルヘンな暗喩というよりは。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます