
ペルリン国際峡画祭で最優秀鑑督賞である銀熊賞を受賞したキム・ギドク監督作品。主人公・ヨジンのクァク・チミン、チェヨン役のソ・ミンジョンは共に監督が大抜擢した新人女優。第1章の「バスミルダ」、第2章の「サマリア」、第3章の「ソナタ」の三部作構成になっている。[もっと詳しく]
私たちは遠からず、みんな狂ってしまうかもしれない。
韓国の「北野たけし」などと呼ばれることもあるキム・ギドク監督。
いつも、「加虐と被虐そして自虐」と自ら述べているように、荒々しい問題提起の作風で物議を醸してきた。
その、ギドク監督が前作「春夏秋冬そして春」では、一転して、山中の静謐な池に造形された山寺で四季の自然の中で生起する「煩悩」劇を、ひいたカメラワークで見事に描き出し、ベルリン映画祭監督賞に輝いた。
そして、「サマリア」では、少女の「援助交際」がひきおこした「悲劇」を扱っている。
題材は、現在的であるが、ギドク監督は社会的な告発や倫理的な断罪を目論んではいない。
「現在」がもたらす、表面的な「記号」の共有、そのなかで、本当の言葉の交換が不可能になっていることに、静かに絶望している。
「私たちは遠からず、みんな狂ってしまうかもしれない」。
ギドク監督のあるコメントだ。
物語りは3部構成。
1部は「バスミルダ」。
インド伝説の娼婦。彼女と寝た男たちは、仏教に帰依していくとされる。
仲良しのチェヨン(ソ・ミンジョン)とヨジン(クァク・チミン)。
二人の少女は、ヨーロッパ旅行のためにという「理由」で、援助交際を続けている。
男とホテルに行くのはチェヨン。
ヨジンは、電話で交渉し、警察の取締りを見張り、お金の管理をする。
チェヨンは笑顔を絶やさず、援助交際に関しても、罪悪感や汚らわしさをもっていない。お金のためでもない。
たぶん、ひと時の「交際」に、悪気なく「癒し」を感じる資質をもっている。
ヨジンは、処女であるが、成り行き上、手伝っているが、本当は、早く辞めたがっている。
チェヨンがなぜ、平気なのか、理解することができない。
ヨジンがうっかり警察の捜査を見落とし、チェヨンはホテルから路上に飛び降りる。
病院に運び、チェヨンが恋愛感情に似たものを覚えた音楽家を連れてくるが、間に合わず、チェヨンは息をひきとる。
2部は「サマリア」。
新約聖書ヨハネ第4章。
差別されている名もなきサマリア人の女性に、イエスは「渇くことのない水」(言葉)を与えるシーンからとられている。
チェヨンを亡くしたヨジンは、贖罪の意識に苦しむ。
チェヨンの名誉(聖性)を守るため、寝た男をふたたび呼び出し、今度は自分がベッドをともにする。
同時に、チェヨンがもらったお金を返していく。
おしなべて、男たちは、「信じられない」という反応をする。
3部は「ソナタ」。
交響曲の3部形式ということでこの映画の構成の終章を指しながら、韓国の「ソナタ」という国民車の名前を借りることで、社会意識をもった大人の側から物語を進めている。
この場合の大人というのは、ヨジンを愛する刑事の父親ヨンギ(イ・オル)の視点を指している。
事件の捜査でホテルに入ったヨンギは、たまたまホテルの一室で「援助交際」をするヨジンを見つけてしまい驚愕する。
信じられない、あるいは信じたくないヨンギだが、ヨジンを尾行するなかで、事実を認めざるを得ない。
怒りは、ヨジンと交際する男たちに向かい、ひとりは自宅に押し入り、家族の中で責め立て、飛び降り自殺に追い込み、また最後は男を殴り殺してしまう。
母親の回忌を名目に、ヨンギはヨジンを連れて、墓参をする。
一泊するが、ヨンギは「援助交際」のことで、ヨジンを責め立てない。
じっと、悲しく、娘の胸中を想い図るばかりだ。
警察に居場所をつたえたヨンギは、ヨジンのために何を残せるのだろうか・・・。
キム・ギドク監督の経歴をみると、1987年から夜間の神学校に学びに通っている。
なんの思想を掴みたかったのかはわからないが、この映画にも「神の世界」あるいは「神の不在」は底流として、息づいている。
優しいヨンギパパはいつも娘を学校に車で送っていくとき、見聞した「海外トピック」を語って聞かせる。
教会関係の放送であるのだろう。語られるのは「奇蹟」の話だ。
この物語に「奇蹟」はおきない。
おきるとすれば、殺人者になってしまった父のことを知ったヨジンの十字架を背負ったこれからに、「奇蹟」が舞い降りるかもしれない。
墓参の帰りの狭い山道で、父娘の車はぬかるみにはまりこむ。
娘は障害の石を、懸命にとりのぞく。
父は、連行される前のひととき、娘に車の運転を教える。
石に黄色のペンキを塗って、河原で道路にみたて、石を敷設する。
本当は、一瞬、この河原で娘を自分の手で息をとめ、石を体に敷き詰め、天上に送ることも、妄想する。
しかし、父は娘の<再生>に、賭けたのだ。切ないシーンである。
「援助交際」のふたりの少女に穢れた打算はない。
ホテルのあと、ふたりは、浴場で、体を流す。
たとえようもない「聖性」が感じられる少女たちの裸身。
また、「援助交際」をつきあった男たちも、極悪非道には描かれていない。
むしろ、孤独で癒されない、哀れな「男たち」として、表現されている。
まるで「菩薩」にあったかのような「男たち」。
そして、娘を案じるあまり殺人をおかした父親。
母親に死なれた父子家庭で、娘に「母性」をさえも、投影していた父親。
そして、娘を赦そうとする哀しい父親。
寝起きのヨジンの朝食を用意しつつ優しく起こすヨンギ。
そっと、頭にヘッドフォンスピーカーをつけてやる。
また、河原の妄想の娘を死なせてあげるシーンでも、同じく。
流れるのは、エリック・サティの「ジムノペディ」。美しい旋律だ。
「偽って生きること」。
そのことからもたらされる「悲劇」を描いた作品である。
そして、多かれ少なかれ、「偽る」ことをまぬがれて生きることなど、現在の僕たちには、叶わぬ夢なのかもしれない。
興味深いコメントです。
キム・ギドクの一挙手一投足に目を奪われます。
コメント&TBありがとうございました。
この監督は「主題」のおき方が、うまいと思います。基本はインデイーズ系。脚本、美術・・・なんでも、その主題のもと、統合したいのでしょう。
今後とも、よろしくお願いします。
kimionさんのレビューは最近凄みすら感じます。常に水準の高いkimionさんのレビューの中でもこれはとりわけ説得力を感じました。キム・ギドクの人間性や思想にまで踏み込んだ評論。なかなかこれほどのものは書けません。
あの「銭湯シーン」のエロチシズム(聖性)は、個人的にはすごくあって(すけべ?)、あれだけでも、いいんですけど、この監督は、結構、「実存主義者」だから・・・。
そちらのblogにちょっと、走り書きさせていただきました。
本人もやりたくてやってるんじゃなく、家庭での愛情に飢えてることの裏返しだと思いたいとこです。
微妙なところですね。
数年前までは、韓国映画のコーナーなんて、ほんとに、ちょっとしかなかったんですからね。
僕は、この映画は、なんかすごく波長があいましたね。
でも、援助交際の存在自体がね…。
男達から貰ったお金を返す事でさえ「バスミルダ」になどなれる筈もない。
ただお金を返すだけでよかったのに、男達と関係を持ってしまったヨジンの行動は、チェヨンを慕い彼女のようになりたかったと思う現われだと思うのです。
チェヨンとヨジンはお互いに足りないものを補うようにしていつも一緒にいたのでしょうね。
どちらかが欠けてしまった時に、バランスを保つために完全な一つになろうとした結果が悲しい結末になってしまったような気がします。
チェヨンとヨジンの背景はまったく描かれていないので、契機はわかりません。けれど、少女たちの思春期の淡い同性愛の感情は、結構、普遍的なものだと思います。
「援助交際」自体は、現在社会では、日本でも韓国でも、道徳的あるいは倫理的な縛りは希薄になってきていると思います。お金そのものが目的ではなく、性愛そのものに、あるいはそのあとのふたりの「慰撫」そのものの時間に、濃密な時間があったのかも。
もちろん、刑事である父親の感情は、その現在を、容認することはできず、悲劇を招いていく。