サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 09358「トウキョウソナタ」★★★★★★★☆☆☆

2009年03月14日 | 座布団シネマ:た行

東京に暮らす、ごく普通の家族がたどる崩壊から再生までの道のりを、家族のきずなをテーマに見つめ直した人間ドラマ。『回路』などで知られる黒沢清監督が、累積したうそや疑心暗鬼などにより、ありふれた家庭を壊していくさまを現代社会を映す鏡として描く。リストラを家族に言えない主人公を香川照之が好演するほか、小泉今日子、役所広司ら実力派が脇を固める。日本が直面している社会問題を、独特の緊迫感でサスペンスフルに描く黒沢の演出に注目。[もっと詳しく]

家族の奏でる不協和音は、「月の光」に慰藉されていく。

ここ数年に読んだリサーチのなかで、もっとも驚愕したのは『普通の家族がいちばん怖い/徹底調査!破滅する日本の食卓』(新潮社)であった。
著者はアサツーディ・ケイ200Xファミリィーデザイン室の岩村暢子である。
正月とクリスマスの二大家族イベントを徹底リサーチし、76枚の「食卓」写真と720の主婦の「証言」でフツウの家族が現在、どうなっているのかを、レポートしている。
そこで調査されたフツウの家族の実態に見え隠れするのは、家族がもはや幻想の対象ではなく、ひとりひとりに解体された個人が、ただ家族という虚構を演じるために、集合しているという図式である。



もちろん、映画作品で言えば森田芳光監督が横に一直線に並んで食事をする「家族ゲーム」(83年)の状況を提出した時に、解体された家族というモチーフは御馴染みのものになっていたかもしれない。
最近の作品で言えば、食事の時だけばらばらな家族が集合して擬似家族を演じあうといった小松武志監督の「幸福な食卓」(06)や、食事の時にほんとうのことを会話することが我が家のルールだと規範化する豊田利晃監督の「空中庭園」(05年)や、家族の擬制がレンタル家族を経て陰惨な悲劇に展開する園子温監督の「紀子の食卓」(05年)を、すぐに思い返すことが出来る。
どの作品も、どこかで、モダンホラーの前触れのような不気味さ、不安定さが、食事のシーンから予感されることになっている。



「トウキョウソナタ」という作品でも、食卓のシーンはあるにはあるが、もう家族の親和性からは遠く離れている。そうかといって、解体を顕わにして、引籠もっているわけでもなければ、憎悪しあっているわけでもない。
ここで描かれる佐々木家の戸主である竜平(香川照之)は、うだつのあがらぬ総務部勤めのストレスを抱え込みながら、家では威厳を持った父親を仮構しようとして、しかし家族からはそうした空威張りの姿勢を敬遠されている。
母親である恵(小泉今日子)は、夫とふたりの子どもとの間の調整弁を果たしながらも、自分のつくった自慢のドーナッツを食べてくれなかったりすると、「ああ、だれかアタシを連れ出してくれないかな」などとため息まじりに愚痴をこぼすことになる。
長男である貴(小柳友)は、大学にはろくに出ずアルバイトに明け暮れている。フリーターのような生活の中での幼い正義感から、アメリカの軍隊に志願することに思い至るようになる。
次男の健二(井之脇海)は、理不尽な担任教師に反発を抱きながら、ピアノ教室の金子先生(井川遥)に魅かれていく。



このところ、モダンホラー映画の制作が続いた黒沢清監督は、普通の家族物語をテーマにしたこの作品に出会って、しかしホラーの導入と同じように、少し胸騒ぎがするような不気味さで、佐々木家を冒頭に描いている。
急激に変わった天候模様で、佐々木家に豪雨が降り注ぐ。
風が室内を駆け巡る。
恵は、庭に面した半開き状態のガラス戸から風雨が室内に入り込んでいるのに気づき、慌てて戸を閉めて、濡れた廊下を拭く。
なにかしら外部の巨大で理不尽な力が、小さな家に、襲いかかろうとしている。
恵の不安は、ホラー的な悪夢の導入であることを、観客に予感させることになる。



とはいっても、「トウキョウソナタ」はホームコメディのような側面も持っている。
リストラを宣告された竜平は、家族にそのことを言えず、毎朝同じように出勤しながら、ハローワークや炊き出しの列に並び、同じ境遇の黒須(津田寛治)と、奇妙でおもしろ哀しいペアを組むことになる。
恵はこれも事業に失敗しやけっぱちになった男(役所広司)に家に侵入され人質にとられるが、これもまた奇妙でおもしろ哀しいペアを組むことになる。
貴は父親の反対を押し切り、アメリカに飛び立つことになるが、イラン派遣軍に混入され、恵の不安は拡がる事になる。
健二は給食代を黙ってピアノ塾に使い、父親と激しく対立することになる。



けれども、どこにも救いのないような暗鬱とした「トウキョウソナタ」という物語は、ラストでかすかな希望を感じさせることになる。
たぶん、カンヌ国際映画祭で「ある視点」部門で審査員特別賞を受賞した理由も、香川照之や小泉今日子のリアリティあふれる演技への評価もあったのだろうが、このラストのある種の爽やかさに対してのものであったのかもしれない。
金子先生の勧めもあり、音楽を学ぶために学校の試験を受ける健二。
竜平と恵が見守っている。退屈そうな審査員たちの前で、健二は鍵盤に指を落とす。
ドビュッシーのベルガマスク組曲から「月の光」。
ディズニーの「ファンタジア」の主題曲でもあり、浅田真央がフィギュアの世界大会で指定した曲だ。
僕たちにはとても親しいピアノソナタ。
最初の旋律から、審査員たちの姿勢が変わる。会場の参加者たちも、驚愕の表情を見せる。会場は、魅せられたように沈黙し、次第に健二のピアノの周りに人垣が出来る。
とても、感動的だ。(この場面まで、健二のピアノの才能は注意深く隠されている)。



本作は、オランダ出身の脚本家のシナリオを基にしている。
その分、黒沢清監督は、モダンホラー作品を通じて積み上げてきたその緻密な映画的方法論から、自在になっているようにも見える。
当初の脚本では、竜平と健二の物語として、構想されていたという。
黒沢監督は、ここに母親と長男を設定し、物語の軸を複雑化させた。
いわば、父親はサラリーマンで家を支えながらリストラされる外部との接点を象徴している。
対して、健二は、才能を音楽に仮託することで危機を切り抜ける内面との接点を象徴している。
その軸を横軸だとすれば、母親は居続ける「家」によって、日常性との接点を象徴している。
対して、貴は、アメリカ軍に志願しながら外の世界を経験することで、非日常との接点を象徴している。
こうした縦横の軸の設定は、物語に厚みをもたせることに、かなりな程度成功している。



現在において、普通の家族たちにとってどのように「幸福家族」のふりをしようが、家族の「旋律」は、たぶんどこでも「不協和音」を奏でている。
そのことは、個別の家族の責任でもなんでもない。
時代の家族意識が、そのことを不可避にしているだけだ。
けれども、その先になにがあるか、なにがかすかに構築されるかだけが、僕たちの関心事だ。
ここでは、子どもたちは、それぞれが親から「離れる」ことで、自分の位置を引き寄せかかっている。
そして、恵は、揺れながらも、こどもたちへの絶対的愛を手離してはいない。
また、竜平は、自分の劣等感から来る虚勢を、その空しさを、社会から捨てられることにより、自分もまた捨て去ることが出来たように見える。
そして、もう、「ついていくこと」だけが大切であること、を悟ったように思える。
健二の弾く「月の光」は、もうなにも家族を仮構することなど必要がないという究極の地点から、逆に家族の係わり合いをあった者たちに、慰藉の光を溢れんばかりに注いでいる。

kimion20002000の関連レヴュー

幸福な食卓
空中庭園
紀子の食卓
叫 さけび







 


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2 コメント

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弊記事までTB&コメント有難うございました。 (オカピー)
2011-04-24 15:50:10
小津安二郎、成瀬巳喜男らが若干否定的に描いた崩壊しつつあった戦後の家庭も、現在の家庭から見れば随分有機的な繋がりがあるものと思います。

「家族ゲーム」以降日本映画が真剣に家庭を描こうとすると、ホラー映画以上に怖い、不気味な家庭の様相が浮かび上がって来るんですね。

密度の高い、しかし、余り干渉はしないという、多分恵まれていると言っていい家庭でずっと過ごしてきた(一人暮らしの期間も長くありましたが)僕には、感覚的にちょっと理解できないところもあります。
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オカピーさん (kimion20002000)
2011-04-24 23:01:12
こんにちは。

1960年に病院出産が自宅出産を超え、その後あっという間に90数%が病院出産となりました。
同じく、死の看取りも。

こういうことがなにか影響しているような気もします。
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