サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 11547「卵/ミルク/蜂蜜 ユスフ三部作」★★★★★★★★☆☆

2011年12月16日 | 座布団シネマ:た行

幻想的な森を舞台に、決して戻ることのない最愛の父を待ち続ける6歳の少年ユスフの成長を通して、人間の心の機微や親子のきずなを情感豊かに描く感動作。デビューからわずか5作で現代トルコ映画界を代表する監督となった新鋭セミフ・カプランオールが、心に寂しさを抱きつつも、残された母を守るために大人への第一歩を踏み出す少年ユスフのけなげで一生懸命な姿を、絵画のように神秘的な映像美とともに映し出す。第60回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞したユスフ3部作の完結編となる本作に注目したい。[もっと詳しく]

きわめて静寂に満ちた幻想世界に、僕たちは白昼夢のように入っていくことになる。

カットの多用や、頻繁なフラッシュバックや、CG・VFXの多用に慣らされている一観客にとって見れば、トルコの新鋭セミフ・カプランオール監督の、詩的で静寂に包み込まれたこのユスフ三部作を連続してみると、「映画的時間」に懐かしく戻ってきたな、という感動を覚える。
ユスフ(監督の自画像だろうか)の壮年期を描いた『卵』、青年期の『ミルク』、少年期の『蜂蜜』と、映画の制作順に見ることになった。
それぞれの冒頭は、夢のなかの時間のようなあるいは予知夢のようなといいかえてもいいのだが、作品のテーマを暗示するような映像が流れる。


彼岸に旅立とうとする母親がこちらに近づきまた去っていく映像であったり(卵)、逆さづりにされた女の子が蛇を吐き出す映像であったり(ミルク)、森の中で木に登り落下して宙吊りにされる父の映像であったり(蜂蜜)・・・。
どの作品でも、音楽は皆無といってもいい。
交わされるセリフも最低限だ。
通常であれば、もう少し早く切り上げそうなフィルムが、少しだけ遅延されて編集されている。
それは眠気を誘ったりもするが、この映画の鑑賞は、見る者自体が半ば夢うつつのような意識になったほうが、この映画的時間と同期できるのではないかなどと、ちらっと思ったりもする。



この映画は、ある意味でユスフという主人公を通しての父と母の物語かもしれない。
『蜂蜜』では、6歳のユスフが森の中で蜂蜜づくりをしている父と、とても親密な関係であることが示唆される。
ユスフはなにかしら霊感をさずかった子なのかもしれない。
夢で見た話を父親にしようとすると、父は夢(秘密)は人に聞かれてはいけない、秘密の話は小声でするんだと優しく言い、ユスフと父は頭をくっつけあって囁き声で言葉を交わす。
森の中の大木の上の方に蜜箱を仕掛ける父親は、まるで森の精霊の声を聞くことが出来る賢者のようだ。



ユスフはその父を通して、世界の秘密を覗き込もうとする。
ある日、森に入った父親が戻ってこない。
心配する母親に対して、平常を装い父に言われたように家を守ろうとする幼いユスフだが、学校で突然のように吃音状態になり、音読が出来なくなってしまう。
父親の失踪(死)という幼い原体験が、ユスフから調和の取れた家族と森の世界を奪ってしまう。
そこからユスフはたぶん父殺しができないままに、父の代理のように母と向かわざるを得ない。
それが『ミルク』である。



高校を卒業した頃の青年ユスフは詩を書きながら、ミルクを絞ったり乳製品をつくったりしている母親を手伝っている。
働きに出ている詩の仲間の同級生に少し自慢げに自分の詩が掲載された雑誌を見せたり、女の子とつきあうようにもなっている。
けれども、基本的には内向的な青年であり、少し母親とも距離を置きたがっている。
一方で母親は長いシングルマザーの生活に疲れてもおり、好意を寄せる駅長と交際を始めたりしている。
ユスフにはそんな母親がどこかで許せない。
猟をしている男に近づいて大きな石を投げつけようとするが、ひっくりかえり逆に大きな鯰を抱え込むようになる。
その鯰を家に持って帰って見たのは、(男が獲ってきた鳥であろうか)、その羽根を毟りながら、どこか放心しているような少し精神疾患が忍び寄ってきているような母の姿であった。
ここでは、ユスフの思春期の「性」の意識が、母親との葛藤となっている。
ユスフは父の代替であることに終わりを告げ、おそらく家を離れる決心をすることになる。



『卵』では詩人として認められたユスフは、首都イスタンブールで古書店を営んでいる。
母の訃報で、おそらくずいぶん久しぶりに家に戻ることになる。
儀式的にことをすませて早く家を離れようとすれユスフだが、母を長く世話してきた従兄妹のアイラに引き止められるように滞在を延ばす。
アイラと言葉を交わしたり、親戚の家にドライブに出たりしながら、ユスフはもう一度自分の少年期や青年期を回想するようになる。

どこかでタルコフスキーの象徴主義的な水の映像に似たような詩的な映像が挟まれたり、ビクトリ・エリセの精霊との不思議な交信の映像に似たような幻想的で陶酔するような時間が浮かびあがることになる。
僕たちはこの連作の中に散りばめられたさまざまな隠喩や記号や夢と現実の境界に入り込みながら、不思議な時間を体験することになる。
これはトルコのある鋭敏な感受性を持ったひとりの人間の、孤独と挫折とひきこもりとその回復の予兆のようなお話だとしても、たぶん自分の人生を振り返った時に想起される記憶の集合や無秩序な出現は、この作品世界にとても似ているような印象を受ける。
半ば白昼夢のように、自分が世界から疎外され、そしてその疎外を回復しようとしながら、不器用にたたずむしかない感じ、あるいは常に怖れや恐怖が根底にありながら、他者とうまい距離がとれなくなってしまった自分を持て余すような感じ・・・。



卵や蛇やミルクやふくろうや鹿や野犬や鷹や・・・といったものたちが、言葉を得て世界に出て行った者たち(近代知)に、もっと大きな闇や光の存在を伝えようとしている。
ユスフの父親が癲癇で倒れるシーンがある。
遺伝性気質だろうか、ユスフもバイクで道路を疾走しながら癲癇になったり、葬儀に帰った壮年のユスフがロープ職人のロープを見て、中庭で癲癇をおこすシーンもある。
結局、僕たちはだれも、この世界の奥深い秘密に翻弄されたり引き戻されたりするわけで、それは意識と身体がいつも自然性から捻れて存在することしか出来ない、ということを暗喩しているようにも思える。
2010年ベルリン映画祭で金熊賞をとり、世界を驚かせたこの俊英が描こうとしている世界は、かつてベルイマンらが人間の深層に降りていこうとした手法と、とても近似しているようにも思えるのだ。


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2 コメント

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 (とらねこ)
2011-12-18 13:28:45
こんにちは。
もう年末ですね!
これ、もうDVD化されていたのですね。TBをいただいて、気が付きました。
とても素敵なレビューでした。文句なしに素晴らしいです。
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とらねこさん (kimion20002000)
2011-12-18 17:39:52
お久しぶりです。
DVD鑑賞だったので、寝てしまったところもありますが(笑)。
あの逆さづりになって蛇を吐き出していた女の子は、主人公のお母さんなのかしら。
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