『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の鬼才ラース・フォン・トリアーが、アメリカをテーマに描き物議を醸している“アメリカ3部作”の第2弾。第1弾『ドッグヴィル』の主演女優ニコール・キッドマンに代わり、『ヴィレッジ』のブライス・ダラス・ハワードが主人公グレースを演じる。アメリカの奴隷制度を題材にしたストーリーと、建物を表す白線を引いただけの空間で物語を展開させる斬新な撮影方法に注目。[もっと詳しく]
ドクマ95と純潔の誓い。トリアー監督は、ますますラディカルになっていく。
トリアー監督は、1956年生まれ。僕より3歳下だが、極めて、戦闘的で挑発的だ。とても、気持ちがいい。
トリアー監督とその仲間たちは、1995年に<ドグマ95>という映画制作に当たっての「概念」を提唱した。
従来、映画とは誰のものか、という議論の中で、「監督こそ映画における真の作家」ということで、監督作家論の観点から、多くの映画批評がなされた。俗に「オトゥール理論」と呼ばれる。
トリアーたちはそういう風潮に対して、「ブルジョア主義の奴隷根性」であると批判、「登場人物と場面設定による真実のみを追求する」として、「創り過ぎないリアルな臨場感」を価値とした。
そして、以下の10個のルールを提出したのだった。
1.撮影はすべてロケーションによること。スタジオのセット撮影を禁じる。
2.映像と関係のないところで作られた音(効果音など)をのせてはならない。
3.カメラは必ず手持ちによること。
4.映画はカラーであること。照明効果は禁止。
5.オプチカル効果やフィルターを禁止する。
6.表面的なアクションは許されない(殺人、武器などは起きてはならない)。
7.時間的、地理的な乖離は許されない(つまり今、ここで起こっていることしか 描いてはいけない。回想シーンなどの禁止である)。
8.ジャンル映画を禁止する。
9.最終的なフォーマットは35mmフィルムであること。
10.監督の名前はスタッフロールなどにクレジットしてはいけない。
この10個のルールは「純潔の誓い」と呼ばれた。
現在までに、ドグマ95に即して制作されたという作品は、80作を超えているという。
もっとも、このルールは、ひとつのチェックリストであり、すべてを満たす必要はない。
また、ドグマ95も、皮肉にもひとつのジャンルになりつつあるということで、事務局自体は2002年に解散している。
このドグマ95は、明確にハリウッド映画に対するアンチを唱えただけではなく、ヨーロッパの往年の名匠といわれる映像作家に対しても、批評的観点を提出しているのだ。
さて、僕たちはトリアー監督の「ヨーロッパ三部作」(84年~91年)、「 黄金の心三部作」(96年~00年)を経て、2003年「ドッグヴィル」から始まる「アメリカ三部作」を目撃している。
この2作目が「マンダレイ」だ。
前作「ドッグヴィル」は、ヒロインであるグレースにニコール・キッドマンを起用した。彼女を意識して、練られたシナリオであるといってもいい。
ギャングのボスである父親の影響下から逃げ出したグレースは、逃げ込んだ村で、住人に認められるように献身的に尽くす。村人は、美しく賢いグレースに惹かれていく。しかし、いつしか、従順なグレースをそれぞれが支配しようとし、奴隷のように扱いだす。閉鎖された共同体がもたらす個性の抑圧、異端の排除、多数決による責任倫理の解体・・・。
グレースは迎えに来た父親に対して、村人を庇うことも諦め、自らも銃を取る。そして町は焼かれる。
「こんな町さえなければ、世界はもう少しましになるわ」 。
そして「マンダレイ」へ。
ヒロインはニコールからブライス・ダラス・ハワードに代わっている。
しかし、服装は、1作目から引き継がれており、グレースそのものである。
グレースを乗せた父(ウィレム・デフォー)の車は、アメリカ南部のアラバマ州に。
1933年である。ある農園に辿りつくが、そこには70年前に死滅したはずの「奴隷制度」が残っている。
「力の行使」に目覚めたグレースは、このアナクロニズムを許せない。
「奴隷をつくりあげたのは私たち白人。彼らに対して責任を取らなくては!」
グレースは次の収穫までという約束で4人の部下と弁護士(という権力)を残してもらい、農園の「民主主義革命」に、果敢に入っていくのである。
グレースは権利を説き、独立を促し、知恵を与え、また民主主義的ルールを導入しようとする。しかし、奴隷たちは、庇護され、食事の不安のない生活をこそ望んでいた。
「自由」ということには、自分たちで、行動規範やルールを決定しなければいけないという、別の重石が加わることになる。
死期の近い農園の女主人(ローレン・バコール)は、奴隷たちからむしろ望まれて、役割を演じていたのだ。抑圧ではなく、庇護である。
女主人の家には碑文が刻まれている。
「私が、与えられるものは、なんとわずかな・・・」
グレースは圧倒的に善意である。しかし、グレースの理想的観念は、政治的現実性に欠けている。観察が足りない。結果として、混乱を招く。
そして、収穫が終わり、グレースはうまくいかない現実の前に、逃げ出すべく父の迎えを待つのだが、奴隷たちは、グレースを新たな女主人に担ごうとする・・・。
この映画のグレースのふるまいに、だれしもが、イラン戦争におけるブッシュを重ね合わせたくもなる。トリアーもそのことを否定はしない。
それよりも、記者たちの質問に対し、挑発してこう答えている。
また、アメリカについての話なのか?史実なのか、そうではないのか?映画なのか、演劇なのか?もしくは、単なるアンチ・アメリカか?
・・・くだらない質問だらけで、答えることは、殆どない!
抑圧と自由を巡る問題は、単純ではない。
アメリカに蔓延する、グローバル構想とはなんなのだ?
世界の中に、抑圧や独裁や民族主義があれば、アメリカは本気で民主主義の伝道者として、介入することが正義だと観念している。
そして、多国籍企業のコントロール下の産業の輸出、IMFなどによる通貨供給量のコントロール、民主主義的に取り繕った選挙という形式があれば、なんとかなると思っている。
プロテスタント福音派による原理主義なのか。
あるいは、ネオコンの連中たちは、元をただせば国際インターナショナルのトロツキストグループであるともいわれているが、「アメリカ型民主主義における世界同時革命」などを、冗談ではなく本気で目論んでいるのか。
もっと、素朴に、西武開拓時代からの自分たちの「自治」概念を、能天気に展開するという本能が先走っているのか。
別に、イラクとブッシュを持ち出さなくともよい。この日本における僕たちだって、「中流社会」「知価社会」などといわれ、一見すると「自由」の海に放り出されているにもかかわらず、まともに、コミュニティひとつ創れないまま、飼いならされてしまっているのではないか?
トリアー自体は「マンダレイ」という作品を「漠然とした倫理的コメディである」と言っている。
グレースの「善意」と「献身」は、前作「ドッグヴィル」で裏切られた。
「マンダレイ」では、「権力」を背景にして、「忠告」と「介入」という行動に出た。しかし、グレースは、またも、裏切られている。
しかも、男尊女卑の性的儀式への屈服まで経験している。
かわいそうなグレース。自業自得なグレース。
父親は、グレースが現実を知り、「治者」としての責任も出てきたと誤解したまま、グレースが決定した「公式時刻」のズレのせいで、彼女を迎えにはきたが、遭うことなく農園を離れてしまった。幽閉されてしまったグレースは、今度は、どこに向かうのか?
アメリカ三部作の最後は「WASHINGTON」。
グレース役にまた、ニコールの噂もあるし、3人目の女優になるかもしれない。トリアーは、わざと、曖昧にしている。
しかし、間違いなく、トリアーは次作でも物議を醸すだろうし、ドグマ95の「純潔の誓い」を崩すことはないだろう。
「アメリカに行ったことがない」トリアー監督は、「アメリカの田舎における保守的な抑圧構造」や「過去の奴隷制度と民主主義の押し付け」という、アメリカにとってあまり触れられたくないテーマを、正面から挑発的に、題材にしてきた。
僕は、今度の作品を、頭の中で勝手にシュミレートして、興奮している。
トリアー監督は、ラディカルをこそ突き進んで、へんな後退の仕方をしませんように、と。
そしてできうるならば、またニコールを、登場させてくれますように、と。
黒澤作品では、最終的には、村人に対する同情があり、その村人を脅かす権力や悪に対して、立ち向かうことになるけど、トリアの描く共同体では、感情移入はしにくいですね。
むしろ、迷路のような村に迷い込んでいく、サスペンス・ホラーものなんかを連想させます。
「ドッグヴィル」「マンダレイ」を観て、思い出したのは、
黒澤監督の「七人の侍」でした。
あの村社会特有の哀れな感じや底意地の悪さ
などが、とても類似しているように思えます。
いつでも、お寄りください。
丁寧な記事で大変参考にさせていただきました。
また伺いたいと思います。
連れ合いからは、「あんたはロジックということがわかっていないわね」とよく、非難されますけどね(笑)
久しぶりだね。
僕も、2年目に入って、blog アップが激減しているからなぁ(笑)
大岡山というところに住んでいるんだけどさ。駅上のTSUTAYAがなくなっちゃってさ。TSUTAYAのおかげで、町のレンタル屋は絶滅したのにさ。で、毎日、駅の行き帰りに返したり借りたりする習慣がなくなったの。
いまは、レンタル宅配。3組6枚借り放題というコース。あとは、たまに、仕事先に近い恵比寿ガーデンプレイスのTSUTAYAを覗いて、という感じ。
返却するのに、時間内に走ってセーフという息切れはなくなったけど、どうも、眺め回して、今日はコレ!という楽しみがなくなっちゃったですね。
猫姫さんのところは、ちゃんと覗いていて、含み笑いをしていますよ(気持ち悪ぃ?)
大丈夫??
そうですね。僕も、トリアーが抉っているテーマは、人間とその人間が生み出す集団(共同性)そのものの相克なんだと思います。
コメント&TBありがとうございました。
アメリカ三部作、この作品もアメリカを表していると見せかけて、実は人間と人間の関係の醜さ、浅はかさ、傲慢な部分をあぶりだしていくような感じも受けました。
次回作、ワシントンではどのようなものを見せてくれるか今から楽しみにしています♪
そうですね、「ワシントン」ですから、政治かマスコミか政府機関か、どちらにせよ、権力構造にからむ寓話なんでしょうけどね。楽しみです。
3作目(タイトルはワシントンでしたっけ?)のグレース役にはケイト・ブランシェットという話もあるようですし、またニコールに戻るという話もあるようです。
いずれにしろ、次回作がホントに楽しみです!
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」も、評価が分かれた作品でしたね。みていて、たしかに、つらくなりました。逆に、熱烈なビョークファンも生み出したわけですが・・・。
私はトリアーが好きではありません。
ものすごくよく出来た作品だと思うけれど
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は
つらくて二度と観たくない。
でも確かに何かを 訴える力のある監督さんだと思っています。
こちらからもTBさせていただきます。よろしくお願い致します。
世界の興行システムを握っているハリウッドに対して、ヨーロッパをハジメとする映画制作者がどう対抗していくか?トリアーは、いろいろ仕掛けていますね。
私は2作とも、フェミニズムの視点でとらえましたが、まさにおっしゃる通りですね。
次作は全く違う女優を起用してほしいと思っています。
どんな展開になるか、楽しみです。
TBに感謝!
僕は、この監督のヨーロッパ三部作を、ひとつも観ていないんですね。映画を撮りだして初期の頃だから、そこに、彼の原型があると思います。
いずれ、また、特集されるでしょう。
とても知的で、そして挑発的な作品だと思います。
<ドグマ95>は初めて聞いたのですが、確かにこのストイックさは作品にも表れていますね。
作品に対して自覚的である監督の映画は、観ていてゾクゾクさせられます。
次回作も期待したいところです。
デンマークのような小国といっては失礼ですが、国からラース監督のような人が出てくるのは、嬉しいものです。
好むと好まざるとにかかわらず、ラースの映画は内臓にきます。コレだけの力を持った監督はそういないので、期待してますです。
だけど、さまざまな女優から、自薦、他薦で売込みが殺到しているでしょうね。
>ちゃぎさん
アメリカは世界一の大国ですからね。アメリカに行く、行かないは別として、すべての表現者は、アメリカという存在を、考察しなければ、ならないでしょうね。
>akrさん
そうですね。前作で、ニコールもレイプを受けますが、半ば諦めて、家畜(奴隷)化されているような印象でしたね。熱演でした。
>shiwa396
どう、ラジカルになるのかわからないけれど。きっと、政治権力か、マスコミ権力を扱うんでしょうかねぇ?
>keitaka77さん
「誇り高き奴隷」に物語をみようとして、そこに、欲情がからんでくる。しかし、彼は、誇り高くもなんともなかった。強烈な、しっぺ返しでしたね。
シュミレートはしていませんが、本当に『ワシントン』が楽しみです!
この手の映画が大好きで…あれやこれやって考えるのが。
なので、kimion20002000さんのブログ内容も興味深く読ませて頂きました。
ありがとうございます。
でも僕は、次回作はニコール・キッドマンで(笑)
ドッグヴィルでのニコールがあまりに綺麗だったので。
この映像も映画であり、劇であり、アメリカを描いていて、監督がアメリカに行った事が無いという・・・
という事は概念だけで作った作品でしょうか・・・
アメリカという国は良くも悪くも全部さらけ出して・・・ 民族も異種さまざま、
戦争もこの国では自国での被害の無い国でした・・・
ニコール、大好きですけど、結婚生活は幸せなのかな・・・
とにかく あれこれ考える材料を沢山くれました。
でもここまで来たら、また別の女優を使って欲しいですね。
昔は、こうした議論は、口から泡を飛ばしてやったりしたもんですけどね(苦笑)
いかなる思想注入があろうが、大衆運動が起こらない限り、駄目であると。
この黒人さんたちから、自立の要求が出てこない限り、変わりませんね。
>nyonyさん
どうなんでしょうね。こんどのハワード嬢は、舞台を中心にのし上がっていく人だと思いますけどね。
私も3作目でのニコール復活を期待!
で、ウチの方にブックマークさせていただきました
「ドッグ・ヴィル」で初見だった舞台のような映像には慣れましたが、やはりトリアー監督の映画は見応えがありますね~。
自由というのは求めてやまないものですが、それを本当に満喫するのは大変な自覚と責任が必要になってきますね。
二コールが続投してくれれば御の字だったのですが、こうなったら3部作すべてが違う女優のほうが納まりがよさそうです。
女優さんも知名度はまだ低いから、あんまりお客さんは入らないでしょうねぇ。
>Kenさん
そうですね。観察劇ですね。しかし、役者たちは、こんな舞台劇で、神経すりへらすでしょうね。カメラの立ち位置が、すごく計算されていますね。
>mugiさん
誇り高き黒人のティモシーですね。このティモシーが、王族の末裔(マンシ)だとグレースは信じていたんだけど、実は奴隷(マンシー)であったわけですよね。このあたりの、英語のニュアンスがよくわかりませんでした(笑)
評論を楽しく拝見させていただきました。
この映画の最後の方で、グレースにムチ打たれる“誇り高い奴隷”が言った台詞が意味深でした。
「白人が我々を作った」
どんな展開になるか、第三作が楽しみです。
社会型動物である人間そのものに対する苦い批評が痛快な作品でした。
限定された舞台のせいか何だかサル山を見ているような気分になったり。
新しいグレースも見てみたいので、『ワシントン』ではまた違った女優さんを使ってほしいです。
公開時は「ドッグヴィル」に比べてお客が少なかったようですが(その頃はアカデミー賞関連の作品が盛り上がっていたので)、私としてはやっぱり注目のトリアー作品でした。
アメリカの問題としてくくることなく、ニヤリとしつつ、考えさせられました。
ワシントンも楽しみです。
美しさから言うと、3人が別々の方が、いいですね。
ケイト・ブランシェットという話もあるけど、うーん。
それにしても、今回のハワードお嬢さん。目も眩むような、映画一家。超セレブですね。
ニコール・キッドマン命なんですけどねぇ。あんな、「奥様は魔女」で、レジー賞揃い踏みなんかに出演したり、C&Wの歌手と婚約したり・・・・。なんか、寂しいなあ(笑)
すごく丁寧に書かれていますね
わたしも、出来るならまたニコールに戻してほしい派です、、、