サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 09353「Mr.ブルックス 完璧なる殺人鬼」★★★★★★☆☆☆☆

2009年02月08日 | 座布団シネマ:ま行

ケヴィン・コスナーが、抑えられない殺人衝動を持て余す連続殺人鬼を怪演するサイコ・スリラー。監督は『スタンド・バイ・ミー』の脚本家ブルース・A・エヴァンス。殺人鬼ブルックスを追い詰める女性刑事をデミ・ムーア、ブルックスにかかわるカメラマンを『噂のアゲメンに恋をした!』のデイン・クックが演じる。本人自ら続編を望んでいるというほどハマったケヴィンの殺人鬼ぶりと、人間の狂気をえぐったサスペンスフルな展開が見どころだ。[もっと詳しく]


続編では、「殺人依存症」の始原の物語が、書かれるかもしれない。

「ジキルとハイド」の話は、よく知られている。
18世紀半ば、イギリスはエジンバラの市会議員であり、石工ギルドの組合長でもあった、ウィリアム・ブロディーという人物は、昼間はまことに家族思いの尊敬される人物なのだが、夜になると盗賊に変身し、18年間にわたって、犯罪者であったのだ。
ジキルとハイドという人格は、それぞれが別個の人格として存在している。
現在では二重人格、もう少し専門的に言えば解離性同一性障害ということになる。
幼児期の虐待に原因があるという見立てが、現在の医学では主流ではあるが、ともあれ、ひとりの人間の中に、統合されない複数の人格が存在するということになる。
「24人のビリーミリガン」という優れたノンフィクションがあるが、24人のある意味「独立した」人格が存在された例もあるし、多重人格ということで言えば、ひとりの個体のなかに、ちょっと信じられないことだが、400人の異なった人格を持った症例まで、報告されている。



「Mr.ブルックス」という作品で、ケヴィン・コスナー演じるアール・ブルックスという男は、家族を愛する敬虔な男であり、実業家としても尊敬される地位にいる。
けれども、一方で、冷酷な殺人鬼としての一面も持っている。
ある意味で、「ジキルとハイド」を彷彿とさせる。
しかし、明らかに、アール・ブルックスは、解離性同一性障害とは思えない。
人格的には、統合されているからだ。
アール・ブルックスは、「薬物中毒」と偽りながら、依存症から脱却するためのセミナーに通っている。
神に祈りの言葉を捧げながら、自らの罪を贖おうとしている。
自分がよき市民でありファミリィーマンであること、そして冷酷な殺人鬼であること、その両方を彼はよく自覚している。



それならば、アール・ブルックスは単なる歴代の邪悪な連続殺人鬼のひとりであるのか?
19世紀末にロンドンに現れた切り裂きジャックや、ヒッチコックの「サイコ」のモデルとなったネクロフェリアであり、服装倒錯者であり、フェティシズムであった稀代の猟奇殺人者であったエドワード・ゲインなどと同類なのか?
あるいは「ハンニバル・レクター」と同様の、FBI捜査官のプロファイリングの上を行くような、頭脳殺人者なのか?
いくつかの共通点はあるのかもしれないが、少し異なるようにも思える。
アール・ブルックスは、殺人の衝動が抑えがたい。そして、殺人の瞬間に、快楽も覚える。
ある意味で、「殺人依存症」ということが出来る。
薬物やSEXやギャンブルや・・・それらと同じような衝動が、アール・ブルックスの場合は、「殺人」ということになる。



「Mr.ブルックス」という作品では、アール・ブルックスは冷静に獲物を狙い、計画を立て、部屋への侵入に関しては極めて高度な技術を持ち、また「殺人」後は、細心の注意で証拠を残さぬよう気を払っている。
また、「指紋の殺人鬼」と呼ばれる一連の殺人行動に関しては、性愛中のカップルを殺害し、死体を芸術的に配置しながら、被害者の指紋をサインとして残し、美学的でもあり職人的でもあるような方法で、殺人を遂行している。
おそらく、獲物をみつけて高揚し、禁忌の感情と鬩ぎあいながら、意を決して冷静に行動を運び、所定の様式で完了するという一連の行為自体が、「依存」症ではあるが、彼の「表現」でもあるというように位置づけられているのだろう。



この作品のもっともよく考えられている構造は、ウィリアム・ハート扮するマーシャルという存在を仮構したところだろう。
マーシャルは、アール・ブルックスの人格の一面を与えられている。
アール・ブルックスのいつも傍らに存在して、マーシャルとブルックスはひっきりなしに対話する。
マーシャルとは、なにものか?
ひとりの人間に善と悪というものが存在するならば、その悪を仮託されているのか?
つねに揺れ動く判断の、肯と否の自己対話の相手として設定されているのか?
あるいは精神分裂に近い、統合しきれない自己の裂け目を表わしているのか?
文学としてマーシャルの存在を繰み込んでいく場合には、そうした解釈でいいのかもしれないが、この映画作品の演出でいえば、別人物が演じるある種の「亡霊」のような存在に、表現されている。
もう少し、「霊界物語」風に言えば、アール・ブルックスに憑依しているなにか、それが前世の霊体でも、神ないし悪魔の囁きでも、動物霊でも、なんでもいいのだが、その憑依の構造が、彼が「殺人依存症」であることの現象を招き寄せているかのように、思えるところがある。



僕たちは、「殺人」ということで言えば、なるほど膨大な「○○殺人事件」といった娯楽ミステリーに飽きずつきあいながら、あるいはホラー映画などでさまざまな殺人場面に麻痺するようになりながら、けれどそういうもののおかげで、自分の「殺人衝動」を、昇華しているところがあるのではないか。
あるいは、魘される悪夢のおかげで、時々は暝い情念を解放しながら、まっとうな人間のようにかろうじて存在しているのではないか。
ギリシア神話に発し、フロイトがいうように攻撃や自己破壊に傾向する死の欲望すなわちタナトスへの傾斜に、人間というものがもつ心性の不可思議さがあるとすれば、「殺人依存」ももしかしたら、多かれ少なかれ誰にも偏在する心性のひとつであるのかもしれない。



アール・ブルックスがなぜ、そのような「殺人依存」を抑えきれないのか?
その出自は、過去のどのような体験に由来しているのか?
10日間で脚本を書き、ケヴィン・コスナーを過去のどのような出演作とも異なるある意味危険なオファーに引き入れた、脚本担当であるエヴァンズとギデオンには、まだその始原の物語は構想されていないのかもしれない。
本作ではアール・ブルックスの娘ジェイン(ダニエル・バナベイカー)に、遺伝のように「殺人依存」の傾向が引き継がれていることが明瞭に表明されている。
製作者にも名前を連ねたケヴィン・コスナーが望むように、この作品の続編が出来るとしたら、たぶんその始原の物語が、書かれるべきであるのかもしれない。






 






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