サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

270日目「鼠山感応寺/八年で消えた幻の大寺院(池上本願寺霊宝殿)」池上

2011年11月13日 | 姪っ子メグとお出かけ

姪っ子メグ おじさんとこの出版部門では新しい本とか出してるの?
キミオン叔父 別会社だから、あんまり知らないんだけどね。この前、校正の手伝いを一部頼まれたのがあってさ、それ、1960年代後半から30年近くの、日本のキリスト教団の闘争史なんだ。
プロテスタント系?
そう。で60年代末ぐらいから、学生運動含めて、大衆団交とか糾弾闘争とかあったじゃない。日本のキリスト教団も同様に、執行部が一部党派的な連中につるしあげられたりして、手がつけられない状態になったんだ。その後も、社会運動や差別闘争や解放運動などとも絡んで、その異常な状態が長く続いた。その歴史をちゃんと記録し総括しておこうと言うことである信徒の方が整理されたものの、オンデマンドブックなんだけどね。
キリストは革命者である、と言われたこともあったものねぇ。きっかけは何なのかしら?
なんでもよかったんだろうけど、特には70年の大阪万博。ここにキリスト教団としてパビリオン出展が決まっていたんだけど、資本主義の手先になるのかとかで、反対運動に利用されたんだね。新左翼にも名前を連なる党派が暗躍して、そうなると牧師や信徒は、抵抗できなくなって、執行部選出選挙でも、ほとんど乗っ取られたような状態になったんだね。
キリスト教以外も、教団内部のヘゲモニー闘争や分派闘争なんかがその時期はいろいろあったんだろうね。新興宗教も教祖のあとつぎの問題や、資金が絡んできての分裂さわぎや、もちろん教則をめぐっての解釈やもあるんだろうけど、いろいろ騒がれるものね。
今日は池上本願寺に来ているけど、日蓮宗でも昔からいろんな分裂騒動があったからね。なかでも有名なのが不受布施派の歴史かな。
豊臣秀吉の頃よね。法華経を信仰しない者から施しを受けたり、逆に法施をしたりしないという原則派ね。それで、秀吉の呼びかけに応じずに弾圧されたりする。その後もこの一派は、ひとつの一派を形成しながら、いろいろ衝突を引き起こしていくのね。


池上本願寺も久しぶりだな。ここは日蓮宗の七大本山のひとつだけど、十月のお会式には数十万人が集まるけど、ふだんはゆったりしているね。ここの庭は小堀遠州だし、お墓も狩野探幽はじめ狩野の一派や幸田露伴、力道山のお墓なんかでも有名。
さっき仁王門から入ったけど、ここの仁王様はもちろん焼失後に立て替えられているけど、アントニオ猪木の肉体をモデルにしているんだって(笑)
霊宝殿で面白い企画をやってたから覗いてみたけど、幻の鼠山感応寺。そもそもは文化・文政の江戸文化爛熟期に日啓という坊主が娘を大奥に嫁がせて「お美代の方」ということで家斉公の寵愛を受ける。で、現在の目白あたりの寺跡地に将軍家が力を貸して壮大な伽藍を建築する。天保6年の頃。でも後ろ盾であった家斉公が天保12年に死去し、水野忠邦の「天保の改革」の象徴ともなって、廃寺になってしまうわけだ。
あんまり記録が残っていないから真偽はわからないけど、大奥の女たちは表立って外出できないから、寺へのお参りということでこの感応寺参りを繰り返した。で、どうもここが男との密会場所になっていたのではないか、と。だから「感応寺」は実は「官能寺」だったんではないかと・・・。
霊宝殿のコメントでは、それは「俗説」と歴史学者に言わせているけど、まあそういう色っぽい話があったほうが面白いよな。このあたりはね、当時は「宝くじ」の権益をめぐる寺社間の鞘当もあったし、徳川家ゆかりの上野寛永寺や芝増上寺の坊主連中が、感応寺の興隆が面白くなくて、いろいろ讒言を言ったという言い伝えもある。
ふーん、そうなんだ。まあそういうドロドロしたお話は別として、あたしたちは本阿弥光悦作の「扁額」でも拝みながら、平和に散策することにしましょう。今日は、七五三だから、着飾った子どもたちが結構いることだしね。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿