世界が崩壊した近未来を舞台に、この世に一冊だけ残った本を運び、ひたすら西へと孤独に旅する男の姿を描くサスペンス・アクション。主人公イーライを演じるのは『クリムゾン・タイド』のデンゼル・ワシントン。本を探すもう一人の男を『ダークナイト』のゲイリー・オールドマンが演じる。イーライはなぜ旅するのか? 本には何が書かれているのか? といった謎に満ちた展開と、その先に待ち受ける衝撃のラストに注目だ。[もっと詳しく]
はじめに「言葉」ありき。
ノストラダムスやマヤの予言によるような天変地異のひっくりかえりでも、未知のウィルス感染による一挙的な人類の死滅でも、宇宙人の到来による地球攻撃でも、人間同士の愚かな核戦争が引き起こしたものでもいいのだが、終末と廃墟、そこに生き残った少数の人間たちというのは、映画の恰好のテーマではある。
「映画批評空間」さんが、終末を描いたSF映画を丹念に拾い出してくださっているので、参照されたい。
廃墟となった世界では、『ターミネーター』のように過去の世界に遡ってその原因を取り除こうとしたり、『猿の惑星』シリーズのように人間以外の種族の歴史を仮構したり、数多いゾンビ映画のようにひたすら亡霊に追いかけられたり、『マッドマックス』のように荒れ果てて野蛮なコミュニティが横行するような文明の退化があったりするのだが、多くは生き残った一握りの者たちのコミュニティの再生に希望を託すことになる。
つまりは、旧約聖書に見られる「創世記」のリセット版ということになる。
ザ・ウォーカーと呼ばれる男(デイゼル・ワシントン)は、30年にわたってひたすら「西」を目指し、最後の一冊の本を運命の指し示すままに、どこかのだれかに届けようとしている。
失われた世界の汚染水域からのがれた水脈を支配する独裁者カーネギー(ゲイリー・オールドマン)は、自分の支配が残った世界を覆うためには、その本が必要と考えている。
そしてこの二人は出会い、対決することになるのだが・・・。
アルバート&アレンという双子の兄弟監督の見どころといえば、崩壊後の廃墟のランドスケープの描写である。
このあたりは、この双子監督が大友克彦の『AKIRA』の映像化にあたって、実写監督の候補としてあげられていることでもわかるように、なかなか廃墟のリリシズムといったものをよくわかった監督であると思われる。
さまざまな遭遇者から「本」を護るために、どこで訓練したのかしらないが、ザ・ウォーカーが短刀や拳銃を繰り出して、敵を秒殺するアクション・シーンは見事ではあるが、ストーリー的にいえば観客サービスに過ぎない。
「第2のアンジェリーナ・ジェリー」とも期待され、なかなか魅惑的なソラーラという少女役のミラ・クニスの起用も、もちろん観客サービスである。
この映画の本質は、やっと「約束の地」にたどりついたザ・ウォーカーが、後生大事に護ってきた「本」そのものではなく、自分の記憶から言葉を紡ぎ出し、それを印刷技術を復活させた人々のために、口述筆記させる場面にある。
もちろんそれは「聖書」であり、まずザ・ウォーカーの語りは、旧約聖書の創世記第一章から始まることになる。
初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
僕たちもいつのまにか暗記してしまっている、天地創造の六日間の第一日目の記述である。
ザ・ウォーカーはどうして「西」を目指すのか?
まるでアメリカの西部開拓の男たちのように。
むろん、約束された土地は、西方にあるからだ。
そして、東方から使者は来ることになる。
「東方」の三賢人のように。
宗教はやはりその起源が重要になる。
つまりは「創世記」だ。その「創世記」にはこんな言葉もある。
神は、東の方角にエデンの園を設け、自ら形作った人をそこに入れた。
六日目に人間は登場するが、その一人は「西」にいる。
そして「旧約聖書」では、かつて人類はひとつの共通の言葉を話していた。
人間は東からやってきて街をつくり、それが傲慢にも神に成り代わろうと「バベルの塔」を建設することになる。
神は人間の言葉がひとつだから問題なのだと考え、言葉をばらばらにしてしまった。
こういうわけで、この街の名はバベルと呼ばれた。神がそこで言葉を混乱(パラル)させ、また、神がそこから彼らを全地に散らされたからである。
ザ・ウォーカーはもう一度人間の過ちをリセットしようとしている。
はじめに言葉ありき。彼は、延々と口述を続ける。
彼が護ってきた鍵付きの「本」は点字の聖書であった。
言葉は読み取れなければ、単なる記号に過ぎない。
カーネギーの情婦でソラーラの母である盲目のクローディアだけがその「言葉」を受容でき、そこでカーネギーと立場が逆転する。
独裁者カーネギーは最後の本を物神化したが、それは誤っていた。
神の言葉を、独り占めすることなどできない。
印刷という手法によって、アウラ(複製)化され、人々に等しく降りていくことになる。
現在でも「聖書」は2000の言葉に翻訳され、毎年5億冊が出版されている。
無神論者の僕でさえ、「聖書」の普遍の言葉は、奥行きに満ちていると感じられる。
マルコム・マクダウェルが、いかにも聖人っぽいのに、時代の流れを感じました。
3昔前だったら絶対にあり得ない配役でしたね。
なんらかの意図はあると思いますね。
僕はあまり宗教の起源には詳しくは無いのですが、たぶんいろんな暗喩が散りばめてあるのかもしれません。