サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 10475「抱擁のかけら」★★★★★★★☆☆☆

2010年07月30日 | 座布団シネマ:は行

『ボルベール<帰郷>』のペドロ・アルモドバル監督とペネロペ・クルスにとって、4度目のコラボレートとなる恋愛ドラマ。愛と視力を同時に失った男の過去へとさかのぼり、男と運命の女との愛に満ちた日々と悲劇を描く。過去の出来事を封印して生きる男を演じるのは、『バッド・エデュケーション』のルイス・オマール。ペネロペは男の恋人で、すべてを求める美しい女優を演じる。人生の苦しみや痛み、そして愛と幸福の詰まった濃厚なドラマが涙を誘う。[もっと詳しく]

映像に撮られた時間は、決して死なない。

アルモドバル監督は、『オール・アバウト・マイ・マザー』(99年)、『トーク・トゥ・ハー』(02年)、『ボルベール<帰郷>』(06年)の女性讃歌三部作で、日本でも多くのファンを持っている。
どれも、素晴らしい作品だ。
しかし、アルモドバル監督の半生を半自伝的物語として10年余り温めて送り出した『バッド・エデュケーション』(04年)という作品の系列に、本作の『抱擁のかけら』は位置するのではないか、と思ってしまう。
『バッド・エデュケーション』は監督自身の体験も重ねられているが、神学校寄宿舎時代でのふたりの少年のホモセクシュアルな親和性と神父による少年虐待(少年愛)という16年前の過去が、ミステリアスなタッチで、映画制作の過程を通じて、浮かび上がるというお話である。



『抱擁のかけら』は、実業家エルネストの息子であるエルネストJrが父への愛憎からかホモセクシュアルに走るという展開はあるが、同性愛そのものを主軸に取り上げられた作品ではない。
ただし、この実業家親子に、有名な偉大な父ヘミングウェイとその息子で親父を愛憎し、最後は性転換後に死んだ息子のグレゴリー・ヘミングウェイという存在をモデルにしているらしいところは興味が惹かれる。
むしろ、アルモドバル監督とは4作目のタッグであり、それ以前のミューズであったカルメン・マラウのお株を奪ったかたちのペネロペ・クルスの鮮烈な愛のかたちを描いており、これを女性讃歌の映画の系譜と見做すことも出来なくはない。
けれども、ひとつの映画の中に、映画(あるいは映像)というフィクションが二重、三重に入り込みながら、全体として「映画」とはなにかというアルモドバル監督の問いかけになっているという、映画の構造上の同質性で、『バッド・エデュケーション』という作品が想起されるのである。



2008年マドリッド。失明している脚本家のハリー・ケイン(ルイス・オマール)は、ライXと名乗る青年から「父の記憶に復讐する息子の物語」を映画化したいということで、脚本を依頼される。
ハリーは断るが、その依頼主が14年前の事件の当事者の一人であることを了解する。
1994年マドリッド。当時、ハリーは、マテオ・ブランコという本名で人気の映画監督だった。
『謎の鞄と女たち』というコメディを制作することになったが、女優志望のレナ(ペネロペ・クルス)が現われた。
大実業家であるエルネスト(ホセ・ルイス・ゴメス)の秘書を勤めていたレナは、父の病気もきっかけとなり、エルネストの愛人となっていた。
映画に出演したいというレナの夢に対して、レナを独占したいエルネストは不承不承、息子のエルネストJrを監視役につけるかたちで、認めることになる。
マテオとレオは互いに一目惚れをし、レオは主役に抜擢され、『謎の鞄と女たち』という映画は制作されるようになるのだが・・・。



この作品は、映画のオマージュに満ちている。
監督で脚本家であるという設定は、アルモドビバル監督の投影でもある。
ハリー・ケインという名前自体が、不遇の天才表現者オーソン・ウェルズの『第三の男』の主人公ハリーと『市民ケーン』からとられている。
逃避行をするマテオとレナが、部屋で見る映画がロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』であり、ヒロインであるイングリッド・バーグマンが抱き合ったまま溶岩で固まった男女の死体に感情移入する場面に、レナも永遠の愛を感じて涙する。
『謎の鞄と女たち』という作品は、アルモドバル監督自身が1988年にカルメン・マウラ、アントニオ・バンデラスで撮った『神経衰弱ぎりぎりの女たち』という作品を下敷きにしている。
その映画の中の、レナ演じるピナという主人公の女性は、どこかオードリー・ヘップバーンを思い起こすようなコケティッシュな愛らしさに満ちている。
また金髪のカツラでは、マリリン・モンローのようではないか。



その映画制作の過程を、「監視」するように撮影するのが、エルネストJrのビデオカメラであり、そのビデオカメラの映像を逐一持ってこさせ、唇の動きを読み取らせ、不穏な行動をチェックするのが、嫉妬深いエルネストである。
マテオとレナの逃避行に復讐を誓ったプロデューサーでもあったエルネストは、NGのフィルムばかりを継ぎ合わせてプレミアム上映会を開き、愚作であると新聞に貶めた記事を書かせる。
制作担当者でもあったマテオの知人ジュディット(ブランカ・ホルディージョ)が隠し持っていたフィルムを、ふたりの息子であるディエゴ(タアル・ノバス)と共に再編集し、マテオ=ハリーはようやく14年ぶりに、レイの女優としての姿を作品に定着させ、封印していた記憶を解き放つ中で、再生を図るのである。
「映画というものは完成させてはじめて映画となる」といったセリフを、アルモドバルは主人公に言わせている。
エルネストJrが並行して撮っている「メイキング映像」が、この作品の重要なファクターともなっている。
つまり、『抱擁のかけら』という映画時間の中に、14年前の出来事が重層され、そこに未完の映画の断片とレナを巡る三角関係(あるいはジュディットを含めての四角関係)が回想され、その謎解きに「メイキング映像」が挿入され、そしてもう一度未完の映画が時を経て、再編集され映し出されるという複雑な構成をとっている。
このあたりの劇中劇のような構成が、『バッド・エデュケーション』を思い起こさせるところだ。



マテオとレナが逃避行をするのが、カナリア諸島のランサロテ島。
奇妙なモビール風の現代オブジェが面白く、海岸線がまことに美しい。
かなり上方から海岸線で抱き合う二人を撮ったシーンがあるが、それはずいぶん前にこの地を訪れたアルモドバル監督が、たまたま撮影したショットの中に後から一組の男女が映っていることに気づき、そこからどんなカップルだろうかとイメージを膨らませたことが、今回のこの島での撮影に繋がったらしい。
撮影監督は『ブロークバック・マウンテン』や『バベル』で僕たちを驚愕させた、あのロドリゴ・ブリエトだ。
また、アルモドバドル監督のお得意の原色(特に赤)も効果的に使われている。
机の中の、びりびりに引きちぎられた、マテオとレナの愛の写真。
その写真を丁寧に、(息子である)ディエゴはつなぎあわそうとする。
そして、ひとりは死に、ひとりは失明し、そして周囲にも痛みを残した悲劇も、撮られた写真やフィルムやヴィデオ映像やなにより脳裏の記憶映像の中に、もう一度再現されることになる。
映像は、そしてそこに撮られた時間は、決して死なない・・・それがアルモドビバル監督の主題なのかもしれない。

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ボルベール<帰郷>















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6 コメント

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さまざまな映画に対する (sakurai)
2010-08-01 16:46:10
オマージュ!というのは感じとれましたね。
改めて、kimionさんの文章を読むと、あーー、そうだった!と思い返しました。
なのですが、どうにもこの男になんか釈然とせず、ペネロペちゃんのくっきりした存在がひかってたように思えました。
珍しく、粋な邦題でしたね。
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sakuraiさん (kimion20002000)
2010-08-02 01:32:54
こんにちは。
いろんな抱擁のかたちがあるわけですが、もう僕自身は「抱擁」という世界から遠く離れている感じで、寂しい限りです。
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赤の・・ (latifa)
2010-08-15 11:02:06
こちらにも☆
>撮影監督は『ブロークバック・マウンテン』や『バベル』で僕たちを驚愕させた、あのロドリゴ・ブリエトだ。
 そうなんですか。才能のある監督さんですねー。どれもとても印象に残る映像です。

アルモドバドルといえば、色使いがインパクトありますよねー
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latifaさん (kimion20002000)
2010-08-16 02:11:34
こんにちは。
そうですね、スペインの監督らしい原色の使い方がうまいし、またその色使いにペペロネがよく映えていますねぇ。
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明けましておめでとうございます。 (オカピー)
2011-01-01 01:34:55
今年も宜しくお願い申し上げます。
僕が幾つか読ませて戴いているブログの中でもkimionさんの記事は断然面白く、楽しませて貰っています。
いずれにしても、余り無理をなされずに長く続けて戴きたくお願い致します(昨年は休止・撤退された方が多くてがっかりしたものです)。

映画の記事とは関係なく、いつか日本人起源に関する本格的な文章を読みたいなどと勝手に思っているんですが、無理ですか(笑)。

この作品に関しては、僕はヒッチコックを想起せざるをえませんでしたね。実業家のペネロペにかける執念は「めまい」のジェームズ・スチュワートのようですし、階段の使い方とか、“ああやっているな”という感じでした。

主人公の名前は最初“ハリケーン”の洒落かと思ったのですけど、お話の構成から言って「市民ケーン」「第三の男」であることは間違いなく、一部で挙げられているミステリー作家のジェームズ・M・ケインは関係なかろうと思います。
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オカピーさん (kimion20002000)
2011-01-01 14:22:39
新年あけましておめでとうございます。
双葉さん後継のオカピーさんに、励ましていただけますと元気が湧いてきます(笑)。

日本人起源論ねぇ。最近、フリーメーソン論や幕末論・天皇論で独特のエンターテイメントカルトをやっている加治将一さんの『失われたミカドの秘紋エルサレムからヤマトへ』を読みましたが、漢字の起源論でもあります。
ちょっとこのトンデモはなかなかに遊ぶことができましたよ。
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