日課である若松進一さんのブログを開く。
心にとまる言葉が入ってきた。
「ふるさと」という言葉に敏感になった。
今日の若松さんのブログを読んで、
自分や姉の旅立ちの日の様子がよみがえってきた。
『○人はいつまでもふるさとを身につけている
私の同級生が死んだということを風の便りで聞きました。
自分ではまだまだ若いと思って暮らしているのに、いつの間にか同級生がひとりまた一人死ぬと、
自分もその歳になったのかと、いいようのない寂しさがこみ上げてきます。
その同級生は中学校を出ると間もなく集団就職列車に乗って中部地方へ就職して行きました。
京阪神なら修学旅行で行ったこともあるし、瀬戸内海には大阪~松山~別府の関西汽船が走っていて、
帰ろうと思えば直ぐにでも帰れたのでしょうが、
当時の名古屋のある中部地方など、地球の果てではないかと思うほど、遠い所だと思っていました。
終着駅で始発駅だった宇和島発の集団就職列車は、
田舎の駅々でオカッパや丸刈りの昨日中学校を卒業したばかりの子どもたちを乗せ、大都会を目指したのです。
家業を継ぐか進学するか直前まで迷った私は、すれすれで運よく高校へ進学することができ、
旅立つ同級生を見送りに下灘駅へ行きました。
駅のプラットホームで列車が来るのを待つ間は、打ち沈んだ沈黙が続き、同級生は目に涙を一杯ためていました。
「お前はいいなあ」
とポツリ言った彼の言葉は、今も私の脳裏にはっきりと残っているのです。
やがて列車が駅のプラットホームに入り、同級生は座席に着くと大きな荷物を網棚の上に乗せ、
直ぐに窓ガラスを一杯開け、身を乗り出して私や家族と手を取り合いました。
発車を知らせる「ボー」という汽笛と、駅員さんの「次はかみなだ~、かみなだ~」
という声も蒸気機関車のゴォーという声にかき消され、列車の赤い尾燈は日喰のカーブを曲がって闇夜の中に消えて行きました。
同級生は毎年開かれる盆や正月の同級会に顔を見せていました。
帰る度に都会的センスを見につけ、都会の香りを漂わせていましたが、いつの間にかその姿も見せなくなっていたのです。
60歳の還暦記念同窓会の幹事を務めた私の元へ返信が寄せられ、
「同窓会には帰る。先日ラジオ深夜便、心の時代であなたのハーモニカの音色を懐かしく聞いた。あなたに送ってもらって下灘駅を出発した時のことが思い出され、涙が出て止まらなかった。同窓会にはハーモニカを持ってきて欲しい」と書いていました。
同窓会はいつになく盛り上がりました。
同窓会が佳境に入った時、彼が手を挙げて「若松さんにハーモニカを吹いてほしい」と言うのです。
訳も分からぬままマイクの前に立った私は、彼の話を聞きました。
聞けば集団就職列車に乗って降り立った名古屋の駅で、井沢八郎の「ああ上野駅」という曲が流れていたそうです。
「あの歌はいわば私の応援歌です。ハーモニカで吹いて欲しい」とリクエストがありました。
言われて直ぐに吹けるほどハーモニカが堪能なわけではなく一瞬困りましたが、
それでも体感音楽とでも言うのでしょうか、一度歌った歌は体に染み付いて、何とか吹けたのです。
そして私のハーモニカで「ああ上野駅」をみんなで肩を組み大合唱しながら涙を流しました。
あれから7年が過ぎました。
同窓会が終って帰る時、その同級生が
「お前はいいなあ、生まれたところで死ねるのだから」とポツリ言いました。
40数年前、集団就職列車で分かれる時彼が追った同じような言葉を思い出しました。
「人はいつまでもふるさとを身につけている」
とは、フランスの詩人ラ・フォンテーヌの言葉ですが、
風の便りで聞いた同級生の訃報に、同級生の霊よ安らかにと祈りました。』
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