【神奈川・横須賀市】第三海堡が建設された当時、深い海の海上に築かれた人口島は世界的に例がなく、困難を極める海堡建設工事であったことから世界最先端の海洋港湾技術として外国でも高く評価された。 当時の米国陸軍から、首都ワシントン前のチェサピーク湾に海堡を建設する計画のためとして海堡建設技術の提供依頼を受けて対応したことが米国国立公文書館の公文書にある。
海堡建設工事は、日本古来の伝統技術(天守閣の石垣、橋脚の石積み土台、採石の運搬・投入技術など)と明治以降に取り入れた欧米の最先端技術(潜水技術、コンクリートブロック、鉄筋コンクリートケーソンの採用など)とを融合させて、無謀といわれた第三海堡を完成させた。
3つの海堡を建設した背景は、当時陸上からの砲撃では砲弾が敵艦に届かなかったため、富津岬の海中に「富津海堡」(後の第一海堡)が建設されたが、それでも敵艦の航行を阻止できないとして第二および第三の海堡が築かれた。 第二海堡および第三海堡は、当時の大砲の有効射程距離が3.0kmだったことから、富津と観音崎の間に約2.6kmの等間隔で増設され、大正三年(1914)に第二海堡そして大正十年(1921)に第三海堡が竣工した。
◆砲台砲側庫から指揮官が指揮や観測などを行った3つ目の観測所に進む。 まずは、観測所と一体の造りになっている砲側庫を見学。 砲側庫は、先に見学した内部が2つに分かれた砲台砲側庫とは違って、内部は1つだけだ。 また、砲側庫の入口の前に堅牢なアーチ天井の通路を設けているが、多分、観測所の指揮官が緊急時に退避する砲側庫なので防護のための通路だと思う。
砲側庫の内部の天井は半円形のアーチ状で、造りは先の砲台砲側庫と同じだ。 砲側庫の左隣の観測所に…円形筒状の構造だが何もなく、ここに何が据え付けられ、どのようにして指揮をとっていたのか全く想像できない。 観測所の後方に回る。 筒形の観測所の胴囲りがかなり太いので、分厚い壁で囲まれていることがわかる。また、砲側庫の後部の屋根は丸みを帯びていて、まるでドーム屋根のようだ。
別の晴れた日、うみかぜ公園に保存展示されている第三海堡の大型兵舎を訪れた。 金属製のフェンスに囲まれた大型兵舎をフェンス越しに見学。 兵舎正面に2つの入口と各々に2つの窓があり、入口周りのアーチ状壁面にはイギリス積みの煉瓦が積まれている。 入口と窓の上側の煉瓦積みを見ると、前者は弧状アーチ、後者には平アーチが採用されている。 案内板によると、大型兵舎は2つの居室部と連絡通路とからなっていて、居室部はヴォールト構造と呼ばれるかまぼこ型天井になっている。 訪問時、うみかぜ公園には多くの人がいたが、大型兵舎遺構に関心を示す人は見当たらなかった。
△指揮官が指揮や観測などを行った観測所....観測所は視界が広く高い6ヶ所に設置された
△観測所と一体構造となっている砲側庫の入口前のアーチ形通路....この砲側庫は緊急時に指揮官が非難のため利用するので、防護のため入口前に堅牢なアーチ型通路を設けたものと推測/側部下に排水管、側面に砲弾を出し入れする小窓がある
△砲側庫の入口/入口左側の上下に重厚な扉を固定した取り付金具が残っている
△砲側庫(砲側弾薬庫)内部の天井は半円形のかまぼこ型(ヴォールト構造)
△砲側庫の奥から見た入口と砲弾を出し入れする小窓/砲台に砲弾を出し入れする小窓....砲弾を傷めないよう小窓の周囲を真鍮で囲み、窓の内側に扉を固定した痕跡が残る
△右の砲側庫と一体構造となっている円柱状の施設が観測所....この施設は第三海堡最後部左側に築かれていた
△観測所の階段が失われていて金属製の階段が設置されている
△観測所の入口、入口左右に扉を3点で固定した痕跡が残っている
△指揮官が指揮や観測などを行っていた円形筒状の観測所
△円周の壁に2本の溝のような痕跡、また縦に並んだ何かの痕跡がある/底の周囲に排水溝が掘られている
△円柱状の観測所の後方
△丸みを帯びた屋根は砲側庫の奥の部分
△砲側庫の上や観測所の周囲は土を盛った土塁で覆われていた
△平成町の「うみかぜ公園」に保存展示されている第三海堡の大型兵舎....2つの居室部と連絡通路からなる
△大型兵舎は後部中央に設けられ,生活&防火用水等の濾過施設を兼ねた守備兵が生活する兵舎
△兵舎正面の2つのアーチ形の壁はイギリス式煉瓦積みになっている
△出入口上部に弧状アーチ、窓上部に平アーチの煉瓦積みが採用されている
△大型兵舎の側部と後部,側部のアーチ形の所は地上へ通じる連絡通路の出入口(と思う).....第三海堡の頭部側には千葉県側から横須賀市側に抜ける連絡通路(横断トンネル)があった