
【神奈川・横須賀市】鎌倉時代の建暦三年(1213)の和田合戦(鎌倉幕府将軍源実朝の時、和田義盛が北条泰時と戦って敗れた)の時、和田義盛(三浦義明の孫)に加勢した武次郎義国が、ただ一騎この地から鎌倉に馳せ参じて戦い、討ち死にした。 一騎塚の由来は、武次郎義国の討ち死を里人が哀れんで塚を築いて霊を弔ったという伝承による。
一騎塚に着くと、道脇の崖に鎮座する3基の青面金剛庚申塔が迎えてくれる。 中央の大きな駒型の庚申塔は江戸時代嘉永二年(1849)の造立、両脇の2基は明治造立の笠付型庚申塔で、いずれも足で邪鬼を踏み、左手で人の髪の毛をつかんでぶら下げている。
直ぐ左に急峻な木造りの階段があり、上に白壁の不動堂が建ち、不動明王像(武山不動の前不動)が安置されている。
庚申塔がある崖には他に、富士信仰の開闢輿樗地蔵尊像、木陰に小さな不動明王像そして三猿部の半分が土に埋もれて傾いた笠付型庚申塔がひっそりと佇む。
庚申塔前の石段を上り詰めると、武山村から出征して戦死した人達の供養塔「忠魂碑」、その左手に聖徳太子塔、駒型文字庚申塔そして笠が欠落した笠付型青面金剛庚申塔など数基の石造物が一列に並ぶ。 塚裾には、大正二年(1913)生まれの俳人・石田波郷の一騎塚を詠んだ句碑がある。

道路脇の崖の木陰に佇む青面金剛庚申塔

3基の青面金剛庚申塔..いずれも邪鬼を踏み、左手で人の髪の毛をつかんでぶら下げている


横須賀市内最大の駒型青面金剛庚申塔..江戸時代嘉永二年(1849)造立


笠付型青面金剛庚申塔(左側)..明治十七年(1884)造立/笠付型青面金剛庚申塔(右側)..明治五年(1872)造立


急峻な階段の上に建つ白壁の不動堂/不動堂に安置されている不動明王像


武山不動の前不動の不動明王像/右手に利剣、左手に羂索を持つ

足元に眷属の2童子が彫られているので不動三尊像といえる


小さな不動明王像/三猿部の半分が土に埋もれて傾いた笠付型青面金剛庚申塔

蓮華台に半跏趺坐で鎮座する富士信仰開闢輿樗地蔵尊像..明治二年(1869)造立

武山村から出征して戦死した人達の供養塔「忠魂碑」..元師伯爵東郷平八郎書の刻

「忠魂碑」の左手に並んで佇む石造物群


叶講中建立の「厄神祭祀五十年」碑と石祠/右は駒型文字庚申塔、中央と左は不詳



風化が激しいが、笠が欠落した笠付型青面金剛庚申塔と思う/笠が欠落した笠付型青面金剛庚申塔/明治十九年(1886)造立の「聖徳太子塔」

塚裾に立つ石田波郷の句碑「緑さす細田 掻きをり 一騎塚」
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