
【大分・国東市】奈良時代の養老元年(717)、仁聞菩薩により創建された寺で、宇佐八幡宮の神宮寺として建立されたと伝えられる。
平安末期の仁安三年(1168)の「六郷山二十八本寺目録」では、六郷山末山十ヵ寺の一つに数えられていた。 また、鎌倉初期の安貞二年(1228)の記録「六郷山諸勤行目録」では、六郷満山中山分の筆頭に位置し、「大嶽山寺社は豊後国の鎮守」と記されている。 大嶽山寺社とは、大嶽山の神宮寺と六所権現社を指す。 六郷満山では本山本寺八ヵ寺の一つに鞍懸山神宮寺があったが廃寺となり、いまは、末山本寺十ヵ寺の一つの大嶽山神宮寺のみがその名を留めている。
奥の院の境内には六所権現社、講堂、薬師堂、観音堂が建っていたが、明治二十九年(1896)に焼失。 最近、村々の寄進で六所権現社が建造された。 その際に発見された棟札には、江戸時代元禄二年(1689)の上棟で「大嶽山六所権現社一宇を再興」と記されている。 天台宗で本尊は不動明王像。 <六郷満山霊場第30番(六郷満山末山本寺)>
山門が無く、石段を上がると直ぐに民家風の本堂が建ち、本堂前に僅かな境内が....。
本堂に向かって聖観音像が鎮座し、鍵が掛っている扉に「密教仏具・焼け仏・修正鬼会面・懸仏」の張り紙がある収蔵庫が建っている。
本堂前には石造五重塔が立ち、その傍には穏やかなお顔の釈迦如来坐像と地蔵菩薩が鎮座。 境内の隅に鎮座する数体の石仏や石造物を拝観しながら、本堂の左側を回って奥の院に進む。 坂道と石段を登り切ると「六所権現社」の境内に。
「六所権現社」の前の苔生した平地が焼失した講堂の跡で、講堂跡の右手の雑木林を背にした一段高いところに数基の石造物が立ち並ぶ。 その中のひときわ大きくて姿のいい国東塔は、約680年前の南北朝初期の造立だ。 しかし、講堂跡の手前には立ち入り禁止を示すと思われる注連縄が張られており、残念ながら、近くでの石造物拝観ができなかった。


大嶽山の中腹、海抜約300mに建つ神宮寺の本堂/本尊の不動明王像は江戸時代中期作

入母屋造桟瓦葺の本堂..正面に向拝や扁額がない質素な建築


本堂周囲には石床の縁が設けられ、軒下に大きめの換鐘が下がる

本堂右手に建つ庫裡


本堂前に建つ収蔵庫..鍵が掛っている扉に「密教仏具・焼け仏・修正鬼会面・懸仏」とある(焼け仏は平安時代作のもので講堂炎上の犠牲に)/聖観音菩薩像

本堂前で穏やかなお顔で鎮座する釈迦如来坐像と地蔵菩薩坐像



石造五重塔..軸部の梵字の主尊は確認できず/斧を持つ3面6臂の石仏..尊名分からず/石造仏龕に鎮座する3体の石仏..手前右は閻魔王に見えるが

風化が激しい4体の石仏..大きい石仏は庚申塔、中2体は地蔵尊像のようだ..左端の石造仏龕に天明四年(1784)銘


石塔と石仏..石仏は禅定印を結ぶ達磨大師像かな/手水鉢


奥の院「六所権現社」の境内..「六所権現社」の手前は明治29年に焼失した講堂・薬師堂・観音堂跡

六所権現社の拝殿..手前の苔生した所は講堂跡


六所権現社は神宮寺住持が別当として守ってきた/見事な国東塔は南北朝初期の建武三年(1336)造立(総高3.34m)

六所権現社境内の講堂跡の右手の雑木林を背にして鎮座する石造物
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