
【栃木・栃木市】奈良時代の宝亀八年(777)、第49代光仁天皇の御代伯州(鳥取県中西部)大山の山麓に住んでいた名僧弘誓坊明願が、地蔵菩薩の霊夢を見たことで岩船山を訪れ、生身地蔵と謁見できたことから開山したと伝えられる。
山全体が一艘の船の形をなし、岩肌を剥き出した標高約173メートルの岩船山は、関東の高野山日本三地蔵の第一の霊場とされ、死者の魂や霊魂が集まる場所と伝えられている。 宗旨は天台宗で、本尊は地蔵菩薩像。
●山岳寺院の高勝寺は標高約173メートルの岩船山の山頂にあり、地図をみると山裾から寺院まで階段が記されている。 JR岩舟駅近くのタクシー会社で尋ねたら600段もの石階を上るとのこと、また、少し疲労があったのでタクシーにて高勝寺に向かった。 岩船山北側の曲がりくねった狭くて急な山道の裏参道から庫裡境内に着く。
石階の表参道と合流する所に楼門形式の仁王門が東面で建ち、両側の緑色に塗られた金剛柵の奥に鎮座する護法神の仁王像が迎えてくれた。 金網が張られていないので、仁王像の力強い姿がハッキリみえ存在感がある。 仁王門を通して供務所脇前に鎮座する金仏や本堂境内への石段が見える。 仁王門をくぐって石段前に。左手に簡素な手水舎が建ち、右手の高い基壇上に「金仏」と呼ばれる江戸中期造立の地蔵坐像が露坐している。
石段脇にある供養塔や石仏などを拝観しながら石段を上りつめると、玉砂利を敷いた境内があり、石段から幅広の切石敷の参道が本堂に向かって延びている。 脇に趣のある江戸中期造立の4基の金銅製燈籠が立ち並ぶ参道を進んで本堂へ。 本堂前には身舎幅の大きな庇を設けていて、向拝と庇の境が分かり難く、まるで巨大な向拝があるようだ。 身舎の四方の壁は全て羽目板で、正面の脇間四間を蔀戸とし、側面は1つの花頭窓を配した造りで虚飾を排した無駄のない蒼然たる佇まいだ。 大きな庇を設けたのは、風雨から柱や壁の木材の劣化を防ぐための工夫なのだろう。

△入母屋造銅板葺の仁王門....享保十五年(1730)の建立

△仁王門の規模は県内随一の大きさ

.△頭貫上の組物間の中備は脚間に彩色された動物と花の彫刻を入れた蟇股


△仁王門の緑に彩色された金剛柵の奥に鎮座する護法神の阿形・吽形の仁王像

△軒廻りは二軒繁垂木、蛇腹支輪と軒天井を設けている

△組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は撥束


△回縁を支える腰組は三手先....周囲に組高欄付き回縁/側面に上層への木の階がある

△仁王門を通して眺めた本堂境内への石階と、左右に建つ金仏と手水舎

△堂宇境内側(背面)から眺めた仁王門....下部の両側に古い瓦等が置かれている

△改修前に山門の屋根に取り付けていた花瓦....先端に地蔵の梵字「カ」を入れた鳥衾を乗せ、「岩舟山」の文字を入れている

△本堂境内への苔生した石階....金仏後方の建物は供務所



△切妻造銅板葺の水屋(手水舎)/昭和十六年(1941)造立の手水鉢....側面に月輪に「忍」が刻まれている/3本爪の龍の水口


△供務所傍の基壇上の蓮華座に露座する金仏と呼ばれる地蔵菩薩坐像/円光を背負い右手に錫杖,左手に宝珠を持つ金仏....享保九年(1724)の造立


△明和八年(1771)造立の石燈籠....正面の掘り窪めた中に「南無地蔵大菩薩」の刻/頂部に舟光背形地蔵坐像石仏が乗る供養塔とみられる(「塔」の文字が僅かに読める)


△石段脇に鎮座する2体の櫛型如意輪観音石仏....「信女」や「尼」の文字が刻まれているので女性信者の墓碑(と思う)....左は明和三年(1766)の造立、右は摩滅していて確認できず

△樹林を背にし金銅燈籠を構えた本堂が建つ....玉砂利の境内の中央に、比較的幅が広い切石敷の参道が本堂に延びている

△入母屋造銅板葺の本堂....正面に銅板葺の大きな庇を設けている


△本堂前に立つ4基の金銅製燈籠は宝暦十三年(1763)の造立....基礎の反花座の下の格狭間に獅子像を配す/金銅製燈籠の笠と火袋に菊の紋と法輪の飾りを配す....節、中台、笠下に飾りがある

△向拝屋根と境が分からないほどに設けられた庇が大きく張り出している

△正面切目縁の前に一段低い部隊のような造りがあり側部に組高欄

△中央間の格子戸の上に「地蔵大菩薩」の扁額、両脇間は軒から釣金物が垂れているので蔀戸(と思う)....前縁の右手に十六羅漢の第一尊者の賓頭盧尊者が鎮座


△軒廻りは一軒疎垂木で組物なし、身舎は縦羽目板....周囲に切目縁を巡らす、側面後方に花頭窓

△札所と金銅製燈籠越しに眺めた本堂
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