けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

牢屋に入る覚悟を持って政治決断をする勇気があるか!?

2012-09-11 22:12:04 | 政治
少々、唐突な議論であるが、日本国の刑法では「正当防衛」と「緊急避難」という規定がある。Wikipediaで調べると、以下の記述がある。

【正当防衛】正当防衛とは、急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為をいう(刑法36条1項)。正当防衛はこれを罰しない(同条1項)。また、防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる(過剰防衛、同条2項)。

【緊急避難】人や物から生じた現在の危難に対して、自己または第三者の権利や利益(生命、身体、自由、または財産など)を守るため、他の手段が無いためにやむを得ず他人やその財産に危害を加えたとしても、やむを得ずに生じさせてしまった損害よりも避けようとした損害の方が大きい場合には犯罪とはならない(違法性が阻却される)というものである。

この様に、常識的に外形的には犯罪行為そのものであっても、その背景を考慮し、公共の福祉に反しない特殊な状況を想定すれば、部分的に個人の権利や財産などに制限が加わることを許容するという規定がある。特に緊急避難では、「やむを得ずに生じさせてしまった損害よりも避けようとした損害の方が大きい場合」という規定があり、これを国家の安全保障や原子力管理などに適用すれば、国家が一部の国民の権利を侵害する判断を選択することがありうることになる。憲法9条などはその典型で、日本語を解する人であれば憲法9条の規定が自衛隊と相容れない表現になっているのは明らかである。しかし、国際的にも正当防衛は基本的な権利として認められているのと同様に、自衛のための権利までを憲法9条で放棄したと判断するのは世界的な共通認識に照らし合わせて不自然という判断から、他国からの侵略が合った場合に、その侵略者を殺害する外形的な違法行為を許容することとしている。この解釈の結果、警察予備隊を経て自衛隊が現在存在するのである。

ここまで極端な例でなくても、例えば成田空港の建設であったり、一部の道路建設などでの土地の強制収用なども、国家権力による国民の権利への制限の例は幾らでもある。だから、放射性物質の最終処分場の建設や、普天間飛行場の辺野古への移設などにおいても、国家は強権を発動して強制執行することは十分にあり得るのである。しかし、最近は多くの場合に権力側が遠慮して、その決断を先延ばしにする傾向がある。しかし、先延ばしの判断は時として、さらに甚大な被害をもたらす危険性を秘めているから、個別の事案ごとに判断は必要だが、本来は心を鬼にして決断しなければならないことは多々あるはずである。では、どうすればその様な状況で決断をすることが出来るようになるのだろうか?

少し話はそれるが、当然ながら刑法では事件が起きた後で、正当防衛や緊急避難に該当する事案か否かを明確に判定し、その結果を量刑に反映させる。完全に条件を満たせば無罪になるし、条件を満たさなければ有罪になる。条件は部分的に満たすがやりすぎと判断すれば、量刑の面で減刑されたりする。加害者側の立場になれば、当然この様な法律は必要であると考えるかもしれないが、被害者側に立てば、緊急避難と称して殺されてはたまったものではない。だから、この様な法律の是非は議論の対象となりうるが、現実には正当防衛や緊急避難も妥当なものとの共通認識があるのは、事後であるかも知れないがイザとなれば裁判所が(正当防衛や緊急避難の乱用とならないように)適切に判断してくれると誰もが信じるから、この様な法律が成り立つのである。

昨日のブログでも書いたが、放射性廃棄物の最終処分場の判断や、沖縄県の普天間飛行場の辺野古移設およびオスプレイ配備などは、当然ながら様々な立場の利害関係が対立し、正攻法で解決の道を探るのはほとんど不可能である。典型的な例はオスプレイの移設であるが、山口県の岩国基地へのオスプレイの移設反対運動などは、論理的には反対の理由を説明することは出来ない。危険であることが理由なら、安全性の検証を徹底的に行うとか、リスクの最小化のための対策などの議論が選択肢に含まれるはずである。しかし、反対派がその様な議論を求めた形跡はないから、本音である「嫌なものはイヤ!」がバレバレになるわけである。もちろん、彼らにすれば国家に対しての信頼関係が成立していないから議論は出来ないという言い分があるのだろうが、逆に「信頼関係がなければ何でもアリ!」という言い分を認めていれば、何も解決など出来るわけがない。「言ったモン勝ち!」がまかり通ることになる。だから、何処かでこの様な言い分を排除せざるを得ない。

だから、政治判断で超法規的(実際には法律に則っているのだが)な決断を行うことは当然ながらあるべきである。問題は、その決断が青天井に何処までも許されるものではなく、必ず行き過ぎにはブレーキがかけられるという担保を如何にかけるか?という点にある。ただし、その様な政治性のきわめて高い判断を行った場合、裁判所は(それを三権分立と呼ぶのか否かは知らないが)その政治判断を覆す判定を行うことを回避することが多い。せいぜい裁判所に出来ることは、被害者側の被った被害を金額に換算し、損害賠償を命じる程度である。しかし、政治的な判断を下す責任者にとっては、その様な賠償金の支払いはほとんど痛くも痒くもない影響しかない。これでは余りにもアンフェアなので、これに対抗する被害者側(ないしは被害者予備軍)は大々的な反政府キャンペーンを繰り広げ、決断を下した(ないしは下そうとしている)責任者の政治的な信頼性を陥れようとする。やっていることはアンフェアだが、アンフェアにはアンフェアで対抗せざるを得ないという言い分は、決して許せはしなくても、その気持ちの理解だけはできる。この様に、この不毛な行動を回避するための役割を裁判所に求めることは、現状のルールでは不可能である。

では、如何にしてこの様なブレーキを担保するべきか?以下はひとつの提案である。

例えば、この手の政治判断は、判断の時には当事者は頭に血が上り、その妥当性を判断できないことが多い。第3者である裁判所が何を言っても、多分、聞く耳を持たない。一方、政治判断を裁判所が覆すことが横行すれば、政治判断自体の有効性も疑わしくなり、身動きが取れない事態になる。そこで、何らかの政治的な決断が下された日を基点として10年以上経過後に、初めてその政治判断の妥当性を検証するための評価プロセスを実施可能としてはどうだろうか?そして、政治判断故にその判断自体は裁判で覆すことは出来ないものの、手続き的に瑕疵がある場合や、(所定の手続きを踏む時間的な余裕がなければ)その判断の妥当性に問題があると認められる場合には、その政治判断の責任者に実効的なペナルティを科すのである。

例えば、アメリカの例であるがブッシュ大統領がイラクに戦争を仕掛ける際に、大量破壊兵器を理由に将来の戦争に対する予防的な措置として、軍事行動の正当性を主張した。しかし、後からその大量破壊兵器の証拠として示されていたものは、相当、怪しいものであることが分かってきている。実際、イラクを制圧して調べても、当初、想定されていた大量破壊兵器は出てこない。この様な場合に、その戦争を開始した妥当性はアメリカ国内的にも議論されてしかるべきである。そして余りに酷ければ、禁固1年や6ヶ月の実刑判決としても良いし、政治家にとっては致命的な選挙権剥奪3年などといったものでも良い。話を日本に戻せば、ここでの責任者とは例えば閣議決定に署名した全員でも良いかも知れないし、例えば防衛上の案件であれば総理、官房長官、防衛大臣の3名に限定しても良い(外交上の判断であれば防衛大臣の代わりに外務大臣となる)。あくまでも、政治家の政治責任を明確にするということである。

また、仮に三権分立との整合性などを気にするなら、例えば最高裁の裁判官OB(つまり、現職の裁判官ではないという意味)の中から所定の数の評価員候補を事前に任命しておき、ひとたびことが起きたときにはその中から無作為抽出で所定の人数の評価員を選任し、彼らに責任者に罰則を与えるべきか否か、そして量刑はどの程度が妥当かの評価を行わせるのである。裁判官が裁判を行うわけではないから、ここで下した評価結果、量刑には司法上の法的根拠がなくて構わない。しかし、裁判所ではその評価員による評価プロセスに問題がないかだけを再評価し、問題がなければ指示された量刑の判決を裁判所名で下すのである。つまり、裁判所が政治に介入することは直接的には出来ず、司法機関から独立な立場の評価員を独立な陪審員的に扱い、その判断に後から法的根拠のあるお墨付きを与える役に徹することになる。

細かな事務手続き的な話は素人だから分からないし、本当にこんな制度があり得るのかも分からない。しかし、鳩山元総理や菅前総理などが本当の意味での政治責任を取ることなど到底期待できないから、自主的な責任の取り方(所詮、総理大臣の辞任で全てがチャラになると勘違いしているのであろうが)とは別の責任追及のシステムがあっても良いのだと思う。

普天間問題を解決するには、反対する側も真剣勝負である以上は、国家権力の行使を行う側も真剣勝負である必要がある。これでこそフェアな戦いであり、時の権力者が1年ぐらい牢屋に入る覚悟で臨めば、議論も前向きになるに違いない。マスコミは、単純に沖縄県民の感情を代弁するのではなく、プロセス的な瑕疵があるか、「やむを得ずに生じさせてしまった損害よりも避けようとした(場合によっては将来予測される)損害の方が大きい場合」に該当するかなどを議論するようになるかも知れない。政治家にとっても、そのぐらいの本気度を示すチャンスを与えられることになり、牢屋に入るリスクなどという悪い話ばかりではないと思う。もちろん、責任感と覚悟が伴う政治家に対してのみ言えることだが・・・。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます