日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

推測が当たるかどうか

2018年12月15日 | Weblog
推測が当たるかどうか

CViDは6か月あるいは一年で完了するように押し切らなければ

北の策略によって10年前と同じ結果に終わる。

つまり交渉は失敗する

cvid 完了はは6か月ないし1年というのが不可欠条件である。

何事によらず北はちみつな交渉計画が作成されているはずだから、

それを状況によってうまく活用して、成果を上げてきた。

今回もおそらくそうなるだろう。

北の読み方に意表をつくものでないと結果は北の勝利に終わる。

交渉中止の話が出たときの、北をあわてぶりを見ればわかる。
シナリオ外の出来事だった。

この会談が政治ショーに終わればアメリカは大国として相応の成果をあげることに失敗した。という点で世界中の笑いものになる。

交渉の結果が少しでも北に有利なものだと思われたら、トランプは愚か者の見本にされてしまう。

経済力、軍事力圧倒的な差がある現状では、国力に大きな差があり、それに見合う成果をあげなければ交渉は失敗である。


以上が交渉に対する僕の見解である。この見解が外れるように願うのみ

スーパーボランチア5-58

2018年12月14日 | Weblog
世間にはいろんな人が居るものだ。スーパーボランチアが現れた。

尾畠さん。文字通りスーパーボランチア

暗いことの多いニュースの中で心が温まり目が潤む出来事だ。

以下テレビで小倉さんとの会話をインターネットから引用する

「救助した尾畠さんは40歳で登山を始め、60歳前に由布岳登山道の整備ボランティアを始めてからボランティア歴約25年になる。

60代半ばまでは、大分県内で鮮魚店を経営していた。

 番組では尾畠さんが各地で災害が起きるたびに足を運び、遺品探しや泥かきに汗を流してきた映像を紹介。

11年の東日本大震災では発生当初から約2年、宮城で復興活動。

16年の熊本地震や昨年7月の九州北部豪雨、今年の西日本豪雨が発生した際も被災地に駆けつけた。」とある。

この人一体どういう人?誰もが関心を持ったのではなかろうか。

次に起こるのはこの人どういうつもりで、こういうことをするのかという疑問だ。
ここで答えは大きく分かれる。

立派なことをするもんだ。まさに賞賛ものだ。

やりたいことをやっただけだ。ボランチアが趣味なんだからやりたいようにやらせておけば。

褒めもしないし、けなしもしない。

いや本心は目立ちたがりなのだ。一回スポットライトを浴びたのだから、目的達成とばかりに、本心を引っ込めたのだろう。要するにめだちやがりの巧妙なスタイルだ。

どう考えようと、どう思おうと、どう評価しようと、人の勝手である。

しかし世の中には常識というものがある。おそらく大半の人は彼の所行を高く評価しただろう。
そしてそれこそ正しい見方や評価であると僕は思う。それにしても考えられないような考え方や、評価をする人も少数ではあるが、確かに居る。

それはそれで良いのかもしれないが、願わくば満場一致で彼を高く評価して欲しいものだ。

名歌唱とは

2018年12月13日 | Weblog
普通の人は感情を込めて声を出して歌うのが背一杯である。

ところが大御所といわれる歌い手は、いったん口から外へ吐き出した声をうまくコントロールして響かせる。

だから歌に引き込まれてしまうのだ。

どうすれば体外に出した歌声に、強弱を付けたり、ビブラート をかけたりしてコントロール

ができるのか。不思議に思えてならない。

おそらく人知れずの努力によって天賦の才に磨きがかっかたせいだろう。

この才能と努力には尊敬の念を表したい。

こういうことを強く感じたのはフイッシャー・デイスカウの「冬の旅」を聞いた時である

ほかにも上浪明子氏の「初恋」北島演歌を聞いた時である。

10-30最低賃金は

2018年12月12日 | Weblog
最低賃金は

時給1000円だとしても8時間働いて1日8000円25日働いて

額面20万円、手取りではおそらく15万円もあればいいほうだろう。

東京で月15万円で生活するとすれば病気した時働けない.
しわ寄よせは直ちに病人にも降りかかる。

毎日が精いっぱいの働きと、金でもって生きている人間は日本には何百万人もいるという。

先進国といわれて久しいが、下層レベルの生活者には、何と厳しい現実の日々であろうか

生活もままならぬ最低賃金とはいったい意味があるのだろうか。

金欲しさに体を壊してまでも働いたり、命失うまで働いたり。これは異常社会である。

どうしてもっと底上げをしないのか。政治家ならこの辺のことを考えて当たり前のはずだ。

だが与野党ともにあまり問題にはしない。憲法改正論や人管法、航空母艦の話

、その前にまじめに働く人が生活できるようにするのが、政治の役割ではないのか。

ゴーンのように見えないところで100億円の金が個人にわたる。悪質極まりない金の亡者である。

外国ではゴーンのような所得を合法的にもらっているというが、そんなこと引き合いに出して

話している場合ではない。

ここは日本国である。外国との比較なんて意味がない。

いかがなものか9-57

2018年12月11日 | Weblog
亡くなった歌手の生前の映像を使って番組を構成するのはいかがなものか、と思う。

こういうのを何趣味というのだろうか?わざわざ死者の映像を使わなくても、やり方はありそうなもの。

見渡せば現役で、ばりばりやっている人がいくらもいるじゃないか。

生放送だというのに、死者の映像を多用されると嫌悪感が走る。

懐かしの大阪メロデイというNHKの番組を見た。結局はわあわあぎゃあぎゃあ、の構成になっ

ていて心にしみこんでくるものは何もない。どこが懐かしのメロデイなのか????

いったいどこが懐かしいのだ?騒がしさが前に出て、しんみり聞く歌がかすんでいる。

わずか90分くらいの番組を作るのにあのくらいの数の歌しか大阪にはないというのか。

冗談じゃない。90分を埋める歌はたくさんある。それを見いだせないというのは、

企画構成の貧困と同時に番組を作るプロヂューサーの能力の貧困、分別する能力のなさ

お粗末そのものである。もっとまじめに勉強をしたらどうだ。積み重ねから何も学んでいない。

わあわあきゃきゃは観客席を盛り上げない。騒いでいるのは舞台の上

の人たちだけで、観客席は一向に盛り上がった気配はない。舞台の上から騒いでその騒ぎで

もって観客席を盛り上げようとしているのは、迷惑この上ない演出だ。

紅白もやってくる。ここらでしっかり目を覚まし視聴者が感動するような番組を作らないと

嫌気がさしてますます人心は離れていくだろう。関係者よ目を覚ませ。!!!!!!。

共生は難しい

2018年12月11日 | Weblog
共生は難しい

同じ人間のなかでもは、とりわけ女性のなかでも、生理的に全然受け付けない人がいる。生理面だけではなくて、

価値観や、思想や宗教や,人生観など全くあり受け入れることのできない人間がいる。

こういう人たちと話をしていると話がかみ合わないだけでなく、砂をかむような思いが残る。いやな気分に包まれるだけでなく、自分の内なる抒情性も失うことになる

好きや嫌いは、顔やスタイルだけではない。人間性そのもので、会わない人は徹底的に受け入れることができない。

そういう人たちと共生するということは、不可能に近いわけだが、でも共生しなければ生きていけないという現実がある。

共生ということは簡単だがは、いたそれを実行してという段になると途端に難しくなる。人間はすべてこういう問題を抱えているのだ。

では人間とし他の動植物との間の共生はとうか。爬虫類とりわけ、蛇と共生するというのは、考えただけでもぞっとする。

蛇ワニやトカゲをペットにする人がいるが、私には到底こういうことはできない。

だから言葉の上の共生はあり得でも、自分の受け入れがたいものとの共生は実行不可能のように私には思える。

たとえそれが皆命をもったものであったとしても。しかも命ずるところの共生とはこういう困難を含んでいる。

貧乏神

2018年12月10日 | Weblog
朝日新聞の夕刊に今週のお題として貧乏神の恋人があり、金賞は「神だのみ頼んだ神を間違えた」である。

僕は貧乏神と恋仲にあるようで、万年貧乏神にへばりつかれている。頼んだ神が間違えようが

間違えまいが、万年貧乏だから僕にくっついている神は貧乏神に違いないと思っている。

神さんも間違っても、僕には近寄らないように、ご注意願います。

 亀山公園展望台5-59

2018年12月10日 | Weblog
                  亀山公園展望台
 
今日は別な方向から上ってみた。

石段を数えながらゆっくり上っていくと、漱石の草枕の一節が急に口をついて出た。

若い時に読んだ本で、もうすっかり忘れかけようとしているのに、急に口をついで出た。

わたしの想像では、主人公はベレー帽スタイルだが私は土方スタイルである。ズボンこそニッカではないが、どんなに汚れても、どこに座っても、ねっころがっても、何をしてもいい服装である。

いろいろ考えもし、トライしてみたが、取材にはこの服装が一番便利である。恐らく生涯このスタイルを通す事になるだろう。どんな服装でもよいが、取材するのに最適なのが一番よい。
 頂上は小さいスペースではあるが、広場になっており木製のベンチがおいてあり、息を切らして上って来た身には、オアシスである。

汗が出た。カバンから水筒にストローを突っ込んでお茶で一息入れた。この水筒は自慢の代物である。カバンの中にしまい込んであるのだが、折り畳み式になっていて飲み干してしまえば、ぺしゃんこにしてもち帰れる。大きさが自分が1日に飲む量と丁度あっていて過不足はない。
近ごろのお茶は缶が大きくて飲み残したら、持って歩くか、捨てるかになってしまい不合理なことおびただしい。
 
今日は4月も終わりに近いから初夏の風である。汗ばむ陽気のなかで頬を通り過ぎて行く風は一服の清涼剤以上のものである。だれに煩わされる事もない、差し迫った心配事もない、暑くなく寒くない、自然も自分ものどかそのものである。いや流れ去る時間のなかで、のどかさ、を切り取ったといったほうがふさわしい。
 
隣はっとみると、先程から絵筆が走っている。保津川下りの船の行き交う姿もキャンバスの上にちゃんとキャッチされている。美しい景色を心の中で確かめながら筆を動かす
すばらしさは無心になって描いている本人が一番分かっている筈。

絵心のない私にはうらやましく思えた。


クリシュナ神0

2018年12月09日 | Weblog

            

バリンダーバン
 
ニュデリーのホテルの前からバスに乗って、アーグラとマツーラの観光に行った。途中交通事故が有ったので渋滞がおき、マツーラ到着は夜8時過ぎだった。

マツーラ近郊の、ブリンダーバンというところは、クリシュナ神 が幼少を過ごした所で、とりわけ宗教に関係の深い街である。日本で言うならさしずめ、遍路巡礼都市とでもいうところだろうか。夜のこと、どこをどう通ったのかわからないが、ツアー客は一団となってガイドの後をついて行った。
 
日本では神さんは、お宮・神社に祭ってあるから、さしずめお宮さん、神社参りということになる。日本のように別棟になっている訳でなく、軒を接していたように思うが、夜道のことでよく分からない。劇場のような感じのする所へ入って行く。

入り口を入ると幅2間くらいの土間の通路が有り、奥に向かって左手には、70から80センチの高さの床が作られて、一段高くなっている。奥ではローソクを一本灯して、御詠歌だろうか、粗末な身なりをした年寄りが二人、高低のない単調な歌を歌っている。近づいてみるとそれは老女だった。
 人々は靴を脱いでローソクと、裸電球と、薄暗い蛍光灯の光を頼りに、床に上がり腰を下ろした。
 
僕はといえば、神さんを拝む訳ではない。あくまで観光、冷やかし気分で来ている。上り口のところには寄付を求める賽銭箱があった。賽銭箱といっても日本でいう、あんな大きなものではなく、三宝さんの足のないやつ、というところか。
 賽銭の額が知りたかったのでこそっと覗いて見た 。100ルピー札が何枚も見えたので信仰の篤さがわかるような気がした。

確かに日本と違った信仰への思い入れが感じられて、インド人の信仰熱心の篤い思いが伝わってきた。
それはそうだが、賽銭の額など見えない方が良い。見た後で僕はそんな感じも持った。
見えると催促がましく感じたからである。
 寄付の看板は、勿論字が読めないからわからないから、推測するほかはないのだが、瓦のご寄進は1万円という風に書いてあるのだろう。
                
 クリシュナ神

 日本では、仏像は見えても、神像はめったにお目にかかることはない。というより神像は仏像のように数多くは存在しない。
 
僕がお目に掛かったのは、神仏習合時代の東大寺の僧形八幡神像くらいのもので、普通ご神体は鏡であったり、剣であったり、山や、岩であったり、自然の大木であったりして、像にお目にかかるチャンスはほとんどない。

ところがである。クリシュナという神様に、これからご対面できるというのである。僕は期待した。
 一般にアジアにおける神像は僕が見た限り、日本のそれに比べて作りが軽い。つまりおっちょこちょいなのである。少なくとも手を合わせて拝む対象であるならば、もう少し荘重で、威厳があり、荘厳な趣が必要ではないか。
 
ボダガヤのマハーボーテイ寺院で見たお釈迦さんだって、軽い作りだった。
あんな偉大なお釈迦さんを軽く作ってどうする。
見たり、飾ったりしておくならば別、少なくとも拝む対象であるからにはそれにふさわしい格調や貫禄が必要であると僕は思う。
これは文化の違いだと割り切って納得した。こう解釈することによって、自分が拝む対象にしたかったのだ。
 
いよいよご開帳がはじまった。ざわついていた場内は、水を打ったように静まり返った。 神殿即ち、舞台の袖にいた人が綱をひっぱると、カーテンがあいて神様が姿を現した。見たとたん、僕は空いた口が塞がらないだけでなく、キョトンとした。「なーんだ。これ。へえ、これが、、」
一瞬僕は我が目を疑った。「これが神様か。へえ、。」
 
身の丈、70から80センチくらいの大きさの、人形がたっているのである。全身はまっくろで、漆塗りか、黒光りしている。ちょっと目には、大きめの黒猫そっくりで、おまけに真っ赤な舌をベローと出している。そのうえ、首にはよだれ掛けをしている。 これじゃ猫のお化けじゃないか。

僕は失望した。いや呆れた。僕はこの猫のお化けの神像に見とれてはいたが、静まり帰った場内には突然地上から吹き上げるような、大きな歓声が沸き起こった。いっせいに祝詞を唱えるのか、むにゃむにゃいう人、手をあわす人、歓声を出す人。それが歓声の源だった。
 
そして次には大きな拍手が起こった。なにごとかと思ったらツアーのメンバーの一人が
かなり多額の寄付をしたようだ。拍手は寄付した本人に向けられていた。
 
次いで、紐が引っ張られて黒猫のお化けが、そろりそろりと前へ出て来た。じっと見つめている人。合掌して祈る人、真剣な眼差しからは、光のようなエネルギーの放射さえ感じられる。

へえ、これがインドの神様か。僕は改めて神様をまじまじと見つめた。
ものの10分も経たないうちに、クリシュナ神は紐に引かれて後ずさりを始めて、カーテンの位置から、中に入ると、カーテンも引かれて舞台は閉じてすべては終わった。
クリシュナ神は元の座に鎮座したのである。

日本流の仏像を見慣れてる僕はインドのみならず、東南アジアの荘重さを欠く釈迦像には、なにか物足りなさと違和感を感じて来た。ところが、このクリシュナ神には徹底的に驚いた。いやもう違い過ぎて嫌気が差し、更にこんな姿の神を拝み、うつつを抜かすインド人の信仰に腹がたってきた。

本家本元よりも、それを伝えられて自分なりのものにしている日本の方が余程宗教的雰囲気を持つ像を造り、もっと静かにおがんでいるじゃないか。

陽気なのは良い、賑やかなのもいよい。が、像はあくまで礼拝の対象物である。
黒猫のお化けみたいなふざけた神様など拝む気がしない。僕は今行動を共にしているインド人とクリシュナ神を共有しているのだが、心の中は全く空々しい。完全に一人だけ浮き上がっている。ついていけないのだ。
 
メッカの方を向いて1日に何回も頭を地面にすり付けて拝むイスラム教にも違和感を感じるが、このインドの宗教も到底受け入れることは出来ない。
 
先ほどからインド人の神に対する想いが色々な形を取って表現されているのをこの目で見てはいるが、我々日本人のそれとは大凡かけ離れたものである。
ただ、人々の神への想いは日本人のそれと比べて、大仰に表現されるので篤い想いだけは伝わってくる。
 
一体礼拝などというものは、心を静めて、出来る限り落ち着いた状態の心をもって、神様を静かに拝んでこそ、礼拝したことになる。心を騒がせて、興奮状態の心で、果たして心のこもるお祈りが出来るのか。僕は率直にそう思った。

バスに戻ってからも、人々の興奮はさめやらないのだろう、席をたって大勢の人が興奮気味に話している。

違うな、確かに違うな。深いところまでは分からないが、日本とインドは神様1つをとってみても大きな違いがあることを僕はしっかり心に刻み込みながらつぶやいた。 

勿論インドにはカーリー神やクリシュナ神しかいないわけではない。インドにおわす八百万の神々総てがこうだとは思わないが、今でも鮮明な記憶として残っているのを見るとやはり余程大きな違和感だったんだろう。

インドは貧しい国だ。だが民衆の神に対する想いは熱狂的なものがある。現世が貧しく苦しいから人々は熱狂的に神を求めるのか、それとも来世の幸福を求めて熱狂的になるのか、その辺の所は分からないが、いずれにせよ、日本とは大分違うなという感じが残った。

悪法も法なり

2018年12月08日 | Weblog
悪法も法なり というが悪法に従う気持ちは起こらない。

外国人が日本社会に入ってくると。共生が出来るのか。後々まで禍根を残さないか

人手不足を低賃金で補おうとする姿勢は考え物だ。その前に条件整備をしなくては。

問題が起こってからは解決は国際的になるので大変だ。

世間虚仮0

2018年12月07日 | Weblog
 世間虚仮          

南九州は暖かい。冬は2月までで終わり、3月になると、ぐっと暖かくなる。

ぽかぽか陽気に誘われて、春先になると冬眠していた蛇が、太陽に照らされて暖かくなった、人の通り道に寝そべっていることがよくある。
 たぶん中学生ぐらいの時のことだったと思うが、鼻歌を歌いながら歩いていたら グニャと異様な感覚が足の裏から伝わってきた。私は咄嗟に蛇をふんだんに違いないと思って大急ぎでその場を逃げた。

恐る恐る本の場所に戻ってみると蛇は動かないで、そのままじっとしている 。近づいてよく見ると、それは大きさも色も蛇によく似た縄切れだった。蛇と縄切れはとてもよく似ていた。

「なんだ。縄か」。一安心したが、ふんずけだときは実にびっくりした。足の裏には、まだあのぐにゃっとした感覚は残っている
 
縄切れなのにどうして蛇とに間違ったのか。僕はこのことを今でも考え続けている。目には縄として映っていたはずである。 だが私はそれを蛇と認識してしまった。

明らかに事実と、認識したものとでは、違いが生じている。目に映った物体の事実が、認識される過程において類似のものに変更されてしまったのである。

だとすれば認識の主体は何だろうか、たぶんそれは脳だろうか、それ以外のどこかにある種の意志が働いて縄が蛇になってしまったのだろう 。これは縄と蛇に限らず、枯れ尾花を幽霊に見間違うことと、同じ理屈に違いない。

じゃ脳に働く意思とはなんだろう 。目に映った像に対して脳のどこかに命令判断する部分があるのではないか、たいていは見たものをそのままに認識するようになっているが、時として映った像を別のものとして認識することが起こる。

目に映った像は紛れもなく縄であるが、認識する脳が認識する過程で、ある種の力が働いて 縄を蛇と認識してしまうのだ。

ある種の力とは、その時の置かれている状況によって心の奥底に潜む心理的な力が、意思として働き、誤った認識を生じさせるのではないかと思う。

ただしこの場合、自分の意志を自覚できないままに、人は自分が見たものは真実だと思う。

縄(真実)を蛇(判断が加味された真実)と認識するから次の行動として、びっくりとびっくり声が出るのだ。つまり人は真実を真実として認識するとは限らない。言い換えれば人の認識には真実の認識と錯覚による認識がある。

人の見た事実は、それが真実である場合もある、錯覚によって作られた事実の場合もある。ところが人は自分の見たものは真実であると信じて疑わない。

世間虚仮 唯仏是真 これは聖徳太子の言葉である。

人間の世界は真実で満たされているのではなく、人間そのものが不確かで、時として錯覚の上に世界を構成展開する。これは不確かな世界であてにはできないにもかかわらず人は自分の認識の正しいことに拘泥する。だから人間世界は矛盾に満ちているのである。

つまり我々が住むこの世には、もちろん真実はあるが、それを認識する主体、言い換えれば

人間は不確かなものであるということに気づくべきだと思う。
今まで私は自分の五感に触れるものは、それがそのまま真実と思ってきたが、こういうことを考えると、果たして自分の認識に100%の信頼を置いて良いものかどうか。自信が無くなってきた。

もし自分の五感があてにならないということになればいったい何を信じただよいのか。
 
あいまいな自分の認識やそれに基づく判断から身を守るためには、物事に頑迷にこだわる態度を改めるべきだ。ということは頭のどこか片隅に疑念を抱く部分を残しておくということだ。

今後起こりうる自分のこと、他人のことを判断する際には、すでにこの部分から光を当ててみる習慣が必要だ。そしてそれはすべてに対して猜疑心を持ち続けるということではない。

そういう次元ではなくて、人間は不完全なものだということをすでに念頭に持っておくということが大切だと思った。

聖徳太子の言葉 「 世間虚仮 唯仏是真 」
、こういうことを考えてみると、改めて聖徳太子の偉大さが身にひしひしとしみこんでくる。
























世間虚仮0 

2018年12月06日 | Weblog
 世間虚仮          

南九州は暖かい。冬は2月までで終わり、3月になると、ぐっと暖かくなる。

ぽかぽか陽気に誘われて、春先になると冬眠していた蛇が、太陽に照らされて暖かくなった、人の通り道に寝そべっていることがよくある。
 たぶん中学生ぐらいの時のことだったと思うが、鼻歌を歌いながら歩いていたら グニャと異様な感覚が足の裏から伝わってきた。私は咄嗟に蛇をふんだんに違いないと思って大急ぎでその場を逃げた。

恐る恐る本の場所に戻ってみると蛇は動かないで、そのままじっとしている 。近づいてよく見ると、それは大きさも色も蛇によく似た縄切れだった。蛇と縄切れはとてもよく似ていた。

「なんだ。縄か」。一安心したが、ふんずけだときは実にびっくりした。足の裏には、まだあのぐにゃっとした感覚は残っている
 
縄切れなのにどうして蛇とに間違ったのか。僕はこのことを今でも考え続けている。目には縄として映っていたはずである。 だが私はそれを蛇と認識してしまった。

明らかに事実と、認識したものとでは、違いが生じている。目に映った物体の事実が、認識される過程において類似のものに変更されてしまったのである。

だとすれば認識の主体は何だろうか、たぶんそれは脳だろうか、それ以外のどこかにある種の意志が働いて縄が蛇になってしまったのだろう 。これは縄と蛇に限らず、枯れ尾花を幽霊に見間違うことと、同じ理屈に違いない。

じゃ脳に働く意思とはなんだろう 。目に映った像に対して脳のどこかに命令判断する部分があるのではないか、たいていは見たものをそのままに認識するようになっているが、時として映った像を別のものとして認識することが起こる。

目に映った像は紛れもなく縄であるが、認識する脳が認識する過程で、ある種の力が働いて 縄を蛇と認識してしまうのだ。

ある種の力とは、その時の置かれている状況によって心の奥底に潜む心理的な力が、意思として働き、誤った認識を生じさせるのではないかと思う。

ただしこの場合、自分の意志を自覚できないままに、人は自分が見たものは真実だと思う。

縄(真実)を蛇(判断が加味された真実)と認識するから次の行動として、びっくりとびっくり声が出るのだ。つまり人は真実を真実として認識するとは限らない。言い換えれば人の認識には真実の認識と錯覚による認識がある。

人の見た事実は、それが真実である場合もある、錯覚によって作られた事実の場合もある。ところが人は自分の見たものは真実であると信じて疑わない。

世間虚仮 唯仏是真 これは聖徳太子の言葉である。

人間の世界は真実で満たされているのではなく、人間そのものが不確かで、時として錯覚の上に世界を構成展開する。これは不確かな世界であてにはできないにもかかわらず人は自分の認識の正しいことに拘泥する。だから人間世界は矛盾に満ちているのである。

つまり我々が住むこの世には、もちろん真実はあるが、それを認識する主体、言い換えれば

人間は不確かなものであるということに気づくべきだと思う。
今まで私は自分の五感に触れるものは、それがそのまま真実と思ってきたが、こういうことを考えると、果たして自分の認識に100%の信頼を置いて良いものかどうか。自信が無くなってきた。

もし自分の五感があてにならないということになればいったい何を信じただよいのか。
 
あいまいな自分の認識やそれに基づく判断から身を守るためには、物事に頑迷にこだわる態度を改めるべきだ。ということは頭のどこか片隅に疑念を抱く部分を残しておくということだ。

今後起こりうる自分のこと、他人のことを判断する際には、すでにこの部分から光を当ててみる習慣が必要だ。そしてそれはすべてに対して猜疑心を持ち続けるということではない。

そういう次元ではなくて、人間は不完全なものだということをすでに念頭に持っておくということが大切だと思った。

聖徳太子の言葉 「 世間虚仮 唯仏是真 」
、こういうことを考えてみると、改めて聖徳太子の偉大さが身にひしひしとしみこんでくる。
























気温計は43°0

2018年12月05日 | Weblog
インドで一番熱い経験をしたのはナーランダ遺跡であった。

気温計は43°を指していた。ペットボトルから水をいっぱい飲むとそれが直ちに皮膚から汗となって吹き出した。

半袖で露出した腕からは汗粒が吹き出してくる。

この時ほど木陰が頼もしい存在であると思ったことはなかった

このクソ暑いのにどうしてインド人は長袖を着ているのか

となかば軽蔑したような思いでいたがそれがいかに非現実的なことがよくわかった。

現地の人が長袖を着るにはちゃんと正当な理由があるのだ、

日本の気候に慣れひたしんだ人だったら多分半袖だという気持ちになるだろうが、それはそうではなかった。

野蛮だなあと思ったインド人が、急に頭越しに自分よりも、偉く

く思えた。

今年の夏は41、1度が最高みたいでだったが、この間に熱中症で何百人もの人が亡くなっている。

日本もこの調子だと来年の夏に、42°を体感するかもしれない。


大中恩さんの訃報5-60

2018年12月04日 | Weblog
大中恩さんの訃報

昭和11年に作曲されNHK国民歌謡として放送された歌曲
『椰子の実』(詞・島崎藤村)は詞も曲も叙情性にとみ、えもいえぬ
気分になる名曲で僕は毎晩のように聴いている。
ふあーっとしてなつかしい気分になるのはどうしてだろう。

近頃のうたにはない美しさがある。美しい日本語の詞にそれを倍加させるメロデイ。

今頃の歌とは天地の差がある。日本人の心の中にはこの曲に盛られた様な叙情性が失われたのだろうか。いや、そんなことは絶対にないと思いたい。

現代でもこんなに美しいメロデイを持った曲を作れる人は居るはず。

そういう人とその人の芸術を探し出すのもプロヂュウサーのしごとだとおもうが、、、、、。

大中恩さんのお父さんが寅二さんである。あの名曲「椰子の実」を作曲した寅二さんの息子さんが大中恩さんで親子二代にわたって日本に名曲を提供した人たちである。

今日の新聞に 大中恩さんの訃報が載った。もう90歳を超えた人だから、忘れた人も多いと思うが、「犬のおまわりさ」んとか「さっちゃん」の歌は、何かの拍子に口をついて出て、いつの間にか口ずさんでいることがある。何十年も歌い継がれた名曲である。

名曲の寿命は長い。大中恩さんのことを忘れても、あの名曲はこれからも歌い継がれていくことだろう。

ご冥福を祈る。

人手不足

2018年12月04日 | Weblog
人手不足

人手不足が叫ばれてから久しい。
それを補うために、外国人労働者を取り入れることが議論されている。

日本人労働者が本当に足りないのか。安い賃金だから日本人は働こうとしない面はないのだろうか。

安い賃金だから働かない、その分を安い賃金で働く 外国人で埋め合わせをしようというのなら、何か釈然としないものがある。

日本人の高賃金では経営が成り立たないから、外国人の安い賃金で
経営をしようというなら、いずれは経営が成り立たなくなる恐れが十分考えられる。
日本人に高賃金を支払っても経営が成り立つように何らかの工夫が必要ではないだろうか。

高賃金を払っても人手不足というのなら、外国人に働きに来てもらうほかはない。