キリングフイールド
カンボジャの首都、プノンペン市内にある国立競技場のそばを、バイクタクシーで通り抜け、しばらく走ると人通りはまばらになり、田舎道にでた。
田舎道は舗装がされて無く、昨日降った雨のためにどろんこにぬかっていた。バイクの後ろ座席に跨り、でこぼこ道を十分ばかり走ると、道の両側に家が有り、家の前には店が出ていた。
店といっても小屋に商品が並べてある程度で、都会の店の感覚ではこれが店かと思ってしまう。市街を抜けて村につくのには一五分くらいかかった。その間、対向する車もなく走ったから危険は感じなかった。
T字を左に回り、ものの五分も走らないうちに門の前についた。それは門というよりは鉄柵といったほうがふさわしい。鉄の棒を組み合わせてつくった柵の前には門番兼入場者記録係がいて、僕は窓口に置かれているノートに自分のことを記帳して2ドル払った。
目の前に有る建物は四方ががガラス張りになっていてそのガラスを通して頭蓋骨がこちらを向いている。
縦横同じくらいの長さ、たぶん7、8メーター高さが10メーターくらいの建物は中が幾層にも分かれていて、各層ごとに髑髏が四方八方に目をむいている。
僕は生まれて初めての経験でじっと見つめることも、面と向かい合うこともできなかった。それは数が多いからではなく、このようにして死んでいった同胞(僕の心の中では世界のあらゆる所に住む、いま生きている人を国が違うということで線引きはしない)の無念の悲しみの大きさに、身のすくむ想いがしたのである。
僕はいまにも落ちそうな涙を堪えながら、声もなく後ろ手にしてその御堂をぐるりと回った。しばらくたたずんでいると、韓国人らしい一団がどやどやと入ってきた。
威勢良く入ってきた彼らも急に言葉を失い、黙って御堂の回りを歩いていたが、そのうちの一人が机の前においてあった花火のような線香に火をつけて供えた。
それを見た僕は我に返り、同じく線香を供え賽銭箱とおぼしき箱に500リエル札一枚をこそっといれた。僕はその場に立ったままでお経を唱えた。仏教国カンボジャの同胞のために。いや、為に祈ったのではない。祈らないではいられない衝動に駆られてお経を唱えたのだ。
内戦だから仕方がないというのは大雑把すぎる。確かに戦争だから殺しあう事があっても不思議ではない。しかしそれは戦闘員においての話である。無差別に(ポルポトの場合は知識人とそうでない人をより分けてインテリ層を中心に虐殺したという)殺してどんな正当性を主張できるのか。
正確な数字は分からないが、全人口が八百万人とか九百万人とか言われる中で、百万人単位という数字は大きすぎる。
しかもそれが知識層中心に殺されたとなると戦後復興の力は大きく削がれる事になる。
戦争によって荒廃した国土を立て直すとき、頭脳が最も必要であるのに、その部分が消えてなくなっているとすると、カンボジャは何を頼りに元の国力の回復を図るのか、他人事ながら気になった。
世界の歴史をひもといてみるとき、歴史とは戦争の歴史でもある。戦争の為にどれほど多くの人が命を失ったことか。
二十一世紀も近くなり人類はやっとそのことに気づき始めているか、それでも地域紛争は絶えない。ボスニヤでも民族対立から多くの人が犠牲になり死んでいった。アフリカでも事情は同じことで、今なお死と直面した大量の難民が大きな問題となっている。
そして人々が武器を手にして戦う場合は必ず犠牲者が出る。人類がこうした蛮行を続けている限り悲劇は後を絶たない。それぞれに言い分があり対立する現実は分からないではないが、それを乗り越えないと弱者はいつも犠牲になる。そんなことを漠然と考えていた。
ところがちょっと待て。今そんな悠長な事を考えている場合ではない。
僕の足下には虐殺の犠牲となった人が着ていたと思われる衣服が、半ば腐りかけて土からのぞいている。恐らくこの服の下には遺骨が埋まっているはずだ。
つまり僕は墓の上に立っているのだ。踏まないようにどちらかに避けなければならないのだ。こう思ったとき急に抑えがたい憤りに全身が包まれてしまった。
殺せ。罪のない人を死に追いやった奴は殺せ。それが人が生きて行く上での、世の中のルールである。罪のない人を殺したものが責任を問われる事なく、のうのうと生きている社会は無法社会である。
無法社会には正義もなければ人権もない。それは人類が営々と積み重ねて来た血の滴る努力、人類が目指して来た方向に逆行する。歴史の針を逆に進める事、それは人類の進歩に対する挑戦である。
殺せ。この地上から抹殺する以外には放置できない。そしてそれが恨みを呑んで死んで行った人の恨みを晴らす方法でもある。異民族ならまだしも、よくもまあ同国人を何百万人も殺したものだ。
僕は全身がかたくなり、心臓がドキドキ早打ちしているのに気づいた。そして覗いている犠牲者
の衣服を避けながらそこへ、へたり込んでお経を唱えた。
今の僕は何が出来る訳でもない。あなた達の無念を晴らす事も出来なければ、身に覚えのないことで命を失った不条理にたいして何をしてあげられる事も出来ないが、ただ一つ祈ることだけは出来る。
罪なく地獄の苦しみを味わったあなた達の魂の苦しみを解き放つ事を神や仏に祈り、そのお力で魂を極楽へ誘ってもらうことによってどうか安らかに眠り給え、
僕は心のなかでそう叫んだ。
カンボジャ。それは日本からは遥かかなたの遠い国である。距離もさることながら、日本人にとっては関心のない国である。歴史的にもたいしたつながりも無ければ、現在経済交流が盛んでもない。
なじみの薄いのも当たり前だ。日本人に知名度が有るのはアンコールワットの遺跡くらいのものである。しかしだ。いまキリングフイールドの現場に立ってみて僕が思うには、1996年7月にこの地上に生きているかどうか、それが問題なのであって、国の別は問題では無い。
カンボジャ人であろうと、日本人であろうと皆同胞なのである。そう思うから余計に心に引っ掛かってくる。僕はこの地上に存在する命は共生、とも生きで無くてはならぬという哲学を持っている。
そしてこの哲学は神が人間に与えた最大の哲学だと確信しているので、神の御意に反した事をした人間は生存は許されないと思う。そういう観点からこの虐殺は許すことが出来ないのである。
先程から振り出した雨は、小雨から本降りに変わった。御堂で雨宿りしながら、僕はカンボジャの国土復興よりは、犠牲になった人々に心奪われていた。というよりはここにある、しゃれこうべから放たれるパワーによって圧倒されていた。
二度と有ってはならないことだ。僕は何回も何回も呪文のようにそう唱えた。かくして僕のカンボジャの旅は晴れることが無かった。
アジアを方々回ってみて、それなりに得たものは多かったがこのような場面に遭遇する事は無かった。のどかな風景の田舎、活気あふれる都市を見て歩くのもよい。
しかしこの場所のように人類の悲惨な現場を直視する旅は歴史や人間を考えるという点では自分を肥やすためにはよいのでは無かろうか。
僕は心底そう思った。かくてカンボジャの旅は終わったが、僕の心にはいつもキリングフイールドが横たわっている。
かくてカンボジャの旅は晴れることのない旅だった。