日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

 蛇と縄1- 

2014年04月24日 | Weblog
        蛇と縄 


南九州は暖かい。冬は2月までで終わり、3月になると、ぐっと暖かくなる。
ぽかぽか陽気に誘われて、春先になると冬眠していた蛇が、太陽に照らされて暖かくなった、人の通り道に寝そべっていることがよくある。
 たぶん中学生ぐらいの時のことだったと思うが、鼻歌を歌いながら歩いていたら グニャと異様な感覚が足の裏から伝わってきた。私は咄嗟に蛇をふんだんに違いないと思って大急ぎでその場を飛び跳ねて逃げた。
恐る恐る本の場所に戻ってみると蛇は動かないで、そのままじっとしている 。近づいてよく見ると、それは大きさも色も蛇によく似た縄切れだった。蛇と縄切れはとてもよく似ていた。
「なんだ。縄か」。一安心したが、ふんづけだときは実にびっくりした。足の裏には、まだあのぐにゃっとした感覚は残っている。
 縄切れなのに、どうして蛇とに間違ったのか。僕はこのことを今でも考え続けている。目には縄として映っていたはずである。 だが僕はそれを蛇と認識してしまった。
明らかに事実と、認識したものとでは、違いが生じている。目に映った物体の事実が、認識される過程において類似のものに変更されてしまったのである。
だとすれば認識の主体は何だろうか、たぶんそれは脳だろうか、それ以外のどこかにある種の意志が働いて縄が蛇になってしまったのだろう 。これは縄と蛇に限らず、枯れ尾花を幽霊に見間違うことと、同じ理屈に違いない。

じゃ脳に働く意思とはなんだろう 。目に映った像に対して脳のどこかに命令判断する部分があるのではないか。たいていは見たものをそのままに認識するようになっているが、時として映った像を別のものとして、認識することが起こる。
目に映った像は紛れもなく縄であるが、脳が認識する過程で、ある種の力が働いて 縄を蛇と認識してしまうのだ。
ある種の力とは、その時の置かれている状況によって心の奥底に潜む心理的な力が、意思として働き、誤った認識を生じさせるのではないかと思う。
ただしこの場合、自分の意志を自覚できないままに、人は自分が見たものは真実だと思う。
縄(真実)を蛇(判断が加味された真実)と認識するから次の行動として、びっくりとびっくり声が出るのだ。つまり人は真実を真実として認識するとは限らない。言い換えれば人の認識には真実の認識と錯覚による認識がある。
人の見た事実は、それが真実である場合もある、錯覚によって作られた事実の場合もある。ところが人は自分の見たものは、真実であると信じて疑わない。

世間虚仮 唯仏是真 これは聖徳太子の言葉である。
人間の世界は真実で満たされているのではなく、人間そのものが不確かで、時として錯覚の上に世界を構成展開する。これは不確かな世界であてにはできない。にもかかわらず人は自分の認識の正しいことに拘泥される。だから人間世界は矛盾に満ちているのである。
つまり我々が住むこの世には、もちろん真実はあるが、それを認識する主体、言い換えれば
人間は不確かなものであるということに気づくべきだと思う。
今まで私は自分の五感に触れるものは、それがそのまま真実と思ってきたが、こういうことを考えると、果たして自分の認識に、それを真実として、100%の信頼を置いて良いものかどうか。自信が無くなってきた。もし自分の五感があてにならないということになれば、いったい何を信じたらよいのか。
 あいまいな自分の認識や、それに基づく判断から身を守るためには、物事に頑迷にこだわる態度を改めるべきだ。ということは頭のどこか片隅に疑念を抱く部分を残しておくということだ。今後起こりうる自分のこと、他人のことを判断する際には、すでにこの部分(事実)から光を当ててみる習慣が必要だ。そしてそれはすべてに対して猜疑心を持ち続けるということではない。
そういう次元ではなくて、人間は不完全なものだということを常に念頭に持っておくということが大切だと思った。
聖徳太子の言葉 「 世間虚仮 唯仏是真 」
、こういうことを考えてみると、改めて聖徳太子の偉大さが身にひしひしとしみこんでくる。