日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

国家的メリットとデメリット

2013年04月14日 | Weblog
国家的メリットとデメリット

原発事故の後、経産省では原発を維持するとともに、頑丈な電力供給構造を作る必要がある…中略
震災後産業界は電力不足を理由に生産拠点を西に移すと言い始めている。こんな時、原発を全部止める事はできない。電力の供給を考えたら現実的には原発は欠かせない。 「プロメテウスの罠より対外秘ペーパー 」

以上の経産省方針について僕は疑問に思う。いかにも役人的発想でスケールが小さい。国家のあり方から現状をどうするかという大局的視点が欠如している。

1,原発が日本にもたらすメリット=電力の安定供給と、国家存亡の危機に迫る=原発の存在を秤に掛けて計算ができているとは思えない。
2、どんなに知恵を絞ってみても、人間のやることには限界があり、想定外の事が十分考えられる。しかし仮に想定外のことが起こったら国を滅ぼすことにもつながる。経済界はガタガタすると言う事と国家存亡を秤にかけると、どちらが上位に来るかは議論の余地がない。
3,現実に原発が稼働しなくても、電力供給は賄えている。こういう現実を考えると電力の発電、送電を見直す。新しい体制を作る事がたいせつで、
今までの電力業界のあり方を変えて、より合理的な電力供給体制を作る事によって必ずしも原発にこだわる必要はない。
4,安全安心があってこそ国家は成り立つ。原発による電力安定供給があっても、それは国家があってならばこそである。原発のメリットデメリットを考える時なぜ国家的次元について論じられないのであろうか。
産業とか電力供給とか言う小さな体制で将来を論じ合う事は国家発展の大計にはそぐわない 。

放置自転車

2013年04月13日 | Weblog
放置自転車

メーカー名は忘れたが、 30年ほど乗ったポンコツでブレーキの効かない自転車が鍵をかけ忘れたために盗まれた。
盗人はこれをどのように運転したのだろうか。想像しただけで吹き出す。

地下鉄の駅が近いところでは、空き地は自転車で埋まる。
もちろんここは駐輪禁止区域である。だから不法放置自転車の回収車もよく来ては、自転車をトラックの荷台に積んでいく。

保管場所は市有地のどこか何カ所で、取りに行かない自転車は売却されるか、鉄くずになる運命にある。

監視員が休日になる土日の放置自転車はものすごい数である。それを見ながら考えた。
違法駐輪という排除の論理を優先させるのではなく、利用者の利便性を優先させられるようなことができないものであろうか。大勢の人が知恵を出し合えば禁止区域を少なくしても、なんとか収まりがつくようにも思うが、、、、
回収された自転車は違法駐輪車であるから文句は言えないが、なんらかの目印を付けて中古車として再販したらどうだろうか。鉄くずにされるよりはそれの方がマシだろう。
自転車は泣いているような気がして、そんなことを思った。

警察総点検

2013年04月11日 | Weblog
警察総点検

長崎における殺人事件も、各警察が真面目に積極的に取り組んでいたら、事件は未然に防げたかもしれない。
尼崎の連続殺人事件では警察が36回も通報を受けながら、まともな対応をせず事件を発生させてしまった。
両事件とも後になって事実調査が行われ、連絡連携の悪さが指摘されている。市民の生命や安全を最大限に守るのが警察の本務であるはず。

前もっての事件性の判断は難しいのかもしれないが、忙しい面倒くさいなど後ろ向きの姿勢が問われるのはどうしてか。
いろいろもっともらしい理由をつけて後ろ向きの姿勢で、どうして市民の安全は守れるのか。少々踏み込んでも、事件性の匂いをかぎ分けるプロでなくてはならない。

こういう事態が起こるのは警察の組織教育の問題か。それとも警官と言う特別な任務を与えられた人間としての資質に欠けている問題なのだろうか。
いずれにせよ、全国上げて警察は総点検する必要がある 。

作曲

2013年04月10日 | Weblog
作曲

詞を暗記して家を出る。歩きながら詞を頭の中で繰り返すと、メロデイとリズムが浮かんで歌ができる。それを家で ピアノで確かめながら楽譜に書いていく。とにかく家にいてピアノにしがみついていては駄目だ
吉田正

東京行進曲を作曲するとき古賀政男先生は 神宮外苑を車で走っているとき曲ができた。
体を動かしていると、脳が活性化されて、そこで曲が生まれやすくなるのだろうか。
旅で列車の中で曲想が湧いてくる。景色が変わるとそれに反応して脳の活性化が起こる。

創作家は孤独でなくてはならない。人に邪魔されるのを避ける
。 自分と向き合っている時には周りに関係のある人がいると気遣いをして創作の邪魔になる
歌に限って言えば以上のようなことが実感できる。

援助と体制維持の保証

2013年04月09日 | Weblog
援助と体制維持の保証

周辺各国は金正恩がいったい何を欲しがっているか、よくわかっています。援助と体制維持の保証です。しかし、これはヤクザの恐喝みたいなもんでキリがない。一方、オバマ政権にしてもリスクを冒してまで辺境で軍事行動を起こす気は低いようですし、中国や韓国、ロシアも難民の流入を恐れ、北朝鮮国内の混乱は避けたいと考えているでしょう。金正恩は関係各国の思惑を見抜き、過激な挑発を止めません、、、インターネットより引用

外交戦術かも知れないが、はなはだ迷惑な話である。もし事が起これば日本はなすすべがない。周辺国と協力して云々や、万全を期すといったところで、一体何が出来るというのだ。出来るとすれば、先制攻撃で北朝鮮が一発の銃弾も撃てないように、壊滅的打撃を与えることぐらいか。
もともとアメリカが言うように、やくざ国家だから何をしでかすか読めないところが不気味である。

小澤征爾さん

2013年04月07日 | Weblog
小澤征爾さん

これもNHKニュースで見たことである。同年代といっても根性が違う。文字通り月とすっぽんだ 。
どこがそんなに違うのか。それは音に対する情熱だ。どんな音をどのくらいの大きさで出せば、それは魂のどの部分に届くか。その辺が読めているのである。作曲家の魂やその目的などを作曲家自身以上に、楽器を使って音で再現して聴衆の心に届ける。
そのために彼は自分の命を懸ける事を惜しまない。己優先ではなくて音楽聴衆優先である。その迫力たるや鬼気迫る物がある。それは彼の目を見ているとよく分かる。身体を使って魂から絞り出した命やエネルギーを一点目と手に集中させて演奏者に伝える。いわゆる指揮である。
そのエネルギーを感じた演奏者は彼に自身の魂を揺さぶられ、彼のエネルギーに共振する。この辺の所は聴衆は目で見たり、音で確かめたり出来る。彼全体から発するエネルギーが音に変わるのだ。この前提には作曲理解がある。作曲家解釈がある。それらを完全にマスターして血肉化した上での作曲家の命の再現であり、表現である。
大層な自己研鑽の積み重ねだろう。常人はとてもまねの出来ないことである。その特異さが世界の小沢を生み出したのだと僕は思う。

音楽の分野は広い

2013年04月06日 | Weblog
音楽の分野は広い

演奏する部門では、
オーケストラ、 1万人の合唱、ソロの歌手や演奏者、少人数のバンドなど
学問的分野では
対位法 和声学 管弦楽法 リズム論 旋律学 表現法(指揮)などがある

10小節ぐらいから多くて30小節ぐらいの歌の中には大きな宇宙がある
例えば北国の春は10億人の人々に歌われている。
単なる歌書きだから、たかが知れていると言う事は決してない。

しかも音楽は演奏や学問をするということのほかに、生まれながらに持つ才能が大きく作用してくる。だから誰でもプロの歌書きになれるとは限らない。
芸術はどの分野においても、そうだとは思うが、人間の生々しい命がそこに込められている。
くめどもくめども尽きない新しい感覚で、歌に対峙するのは苦しいことであるが、同時に楽しい事でもある 。

余計なお世話8-31

2013年04月05日 | Weblog
余計なお世話

お屋敷街は豪邸がかたまっている。側を通りながら塀の内側に咲く見事な桜を覗きながら歩いた。
そして思った。ここの住人は何歳ぐらいの人だろうか。
300坪はあるような広い庭の草取りはどうしているのだろうか 。
駅や近隣マーケットに行くには、少なくとも歩いて2,30分はかかるだろう。不便なことだ。病院はどこにあるのだろうか。歩いて何分くらいかかるのだろうか。こういうことは常に自分が住んでいるところと比較して思うことである。30年以上も団地住まいの便利さになれてくると、こういうお屋敷街に住んでいる人達は毎日の生活に不便だろうと同情する気になる。
高齢になったとき例えば、80才くらいになって、健康でも我が身をもてあますようになると、やはり生活に便利が、最優先になるのではないか。この大邸宅の相続はどうなるのだろう。相続はよく争族に通じると言うではないか。車があるとは言え、運転できなくなる年齢になると、どうするのだろうか。

余計な心配とお世話が次々に頭を持ち上げる。
馬鹿馬鹿しい。他人様のことだ。便利だろうが、不便だろうが、人それぞれだ。
そう考えながら塀越しにしだれる桜に、しばし見とていた。

千姫6-48

2013年04月04日 | Weblog
千姫

時の権力者、徳川家康の孫娘・2代将軍秀忠を父に持つ家庭に、千姫は生まれ弟には3代将軍家光がいる。
そんな名門に生まれながら、政略結婚で豊臣秀頼に嫁ぎ、大阪城落城で主人秀頼 と義母淀君をなくす。夫婦仲が良かったのか悪かったのか、人間の本心なんて分からないから、真実は判らない。
が、主人は落城と共に死に、彼女は救い出されて生き残る。これも救い出されたものか、自らある目的を持って城を後にしたものか、いくらでも推測は出来る。

臆測は別にして、彼女には災難が襲いかかる。秀頼の死に始まって母、息子の死、再婚相手の本多忠刻の年若い死、という不幸が彼女を襲う。
そしてこの事実を彼女は、秀忠の呪いだと思い、世間もまたそう思う。
苦しみ抜いた彼女が占いをして貰うと、それはやはり豊臣秀頼を初めとして滅んでいった豊臣側の恨みが原因になって、このような悲劇が彼女の身の上に、ふりかかる ということである。あまりにも立て続けに起こる不幸の原因を、恨み怨念怨霊のたたりとして恐れたのは当然であろう。そして彼女は江戸城近くに住まいを設けるが、ある説によると、ここから姫の乱心が起こり、残虐非道な振る舞いがあったといわれている。またある説では岡山の池田光政が自然の大飢饉に見舞われたときに4万両の金を用立てて20万人の命を救ったともいわれている。
いかに歴史の光があたろうとも、ひとりの女性が被った不幸は救いようがないものだ。
名門に生まれ名門に嫁ぎながら、不幸の連続が彼女を翻弄し続けたことだけは真実のようである。スポットライトが当たろうが、あたるまいが、数奇な運命を生きた人は、貴賎身分を問わず、数こそ少ないが、いたことは事実だろう。
出自と人間が背負う運命とは別物であるようだ。

石川啄木年譜

2013年04月03日 | Weblog
石川啄木年譜

1886年姉二人の第三子として生まれる
14才  与謝野鉄幹の起こした明星の新詩社に入る
 18才  与謝野鉄幹より雅号 啄木をえる
20才結婚
21才 渋民村尋常小学校の代用教員になる  長女京子生まれる
23才 上京
24才東京朝日新聞社校正係
25才 一握の砂 出版
27才  死去

悲しきは 飽くなき利己の一念を もてあましたる男にありけり

非凡なる人の如くに振る舞える後の寂しさは  何にかたぐえん 

わが抱く 思想はすべて 金泣きに因する如し  秋の風吹く

悲しみといわば言うべき 物の味 吾の嘗めしは余りに早かり

感想
 27才で世を去る運命だから、すべてが早熟だ。そこにはたぎり、ほとばしる情熱がある。己の才に対する自信と不安がない交ぜになっている
人生の味を早く知りすぎたのはやはり悲しみだったのだろう。ただここに彼の若さを見る。もし彼が長生きして、気性の激しさが取れて来たときには、彼は円熟した人生の味を歌い上げていただろうか。

啄木歌集より9-18

2013年04月02日 | Weblog
啄木歌集より

友がみなわれよりえらくみえるひよ 花を買い来て 妻と楽しむ


石川啄木の出身地、岩手県の渋民村 を訪ねて来た。
ここの空気を吸って彼なりの世界を作っていたのだなと感慨が深かった。
整理はされていたのであろう、この住処はがらんとした空間だった。でも彼は強烈な個性でこの空間を切り裂いていく。彼にとっては浜の苫屋でも広々とした大邸宅も、違いはなかったのではあるまいか。なぜなら彼は自分の空間を持っていたから。物理的な空間は問題ではなかったと僕は思う。
強烈な個性の持ち主の石川啄木は余りにも若死しすぎた。
もし彼が倍の人生を過ごしていたら、どんな秀句、秀歌が生まれていただろうか。若死にが惜しまれる。

かにかくに 渋民村は恋しかり おもいでの山 おもいでの川

佐村河内守氏の音楽

2013年04月01日 | Weblog
佐村河内守氏の音楽

昨夜NHKで見た、氏の音楽制作、命との関わり合いとしての音楽、聴力を失うというハンデイを乗り越えて、聞く者が涙する様な感動を与える交響曲「広島」の作曲。常人では考えられないような作曲の劣悪環境下における素晴らしい音楽には惜しみない拍手を送りたい。

あれが30以上の楽器の音色を調和させて、対位法的にも和声学上も、音色の特色などを絶妙に生かしながら、総合する所に彼の魂が息づいている。魂の音楽。まさにその通りである。
作曲家の魂が聞く者の魂と交流するところから生まれる感動。そういう彼の音楽はまさに称賛に値する。1つのメロデイだったら聴力を失っても作曲できる。ところが30以上の楽器の音を継続的にと言うと、オーバーに言えば、格闘が始まる。彼自身の命の戦いである。そうやって作品ができあがる。おそらく死者との魂のやりとりも在った事だろう。魂の交流ならばそれが出来るからである。
最初からそれを狙って等という芸当は出来ない。なぜなら自身の魂との応答がなければならないからである。これは簡単にできる物ではない。
巷間言われているように、聴力を失っもベートーベンが偉大な作品を残したのも、やはり当代のあるいは未来の人達との魂の交流があったからに違いない。だから人びとは作品に感動するのだ。曲が魂の中に食い込んでくるからだ。常人にはまねの出来ない世界の出来事である。

生きている今を9-53

2013年04月01日 | Weblog
生きている今を

竹内まりやの歌の中に「あと幾たび花見ができるだろう」かという文句に続いて「ただ今を楽しまなくちゃと言うフレーズがある。
これが僕の胸にぐさっと刺さった

ニュートンはりんごが木から落ちるのを見て万有引力の法則を知った。

竹内は花を見てあと幾たび花見ができるだろうかと思うと同時に「だから今を楽しむ」と歌う

この言葉は胸にジーンと響いた。
歌の文句は実にその通りで、自分が日ごろぼんやり考えていることをズバリ指摘した。

メロディーを聴くよりはそのまま詞を読む方が胸に深く染みとおる。また共感を呼ぶ