日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

閑居して不善はしない

2010年06月14日 | Weblog

閑居して不善はしない

先生は几帳面な性格を生かして毎日日記をつけている。
定年退職をしてのち先生は何もしていない、。仕事はもちろんのこと
社会奉仕も、勉強も、何もしないで、1日ごろごろとして、時を過ごしている。

先生は、年はもいかない若い時から働き、続けてきたので、定年退職を契機にして、自分の人生を見つめ直すとういうことに、関心を寄せている。

と同時に、先生は、毎日新聞とテレビで、ニュースを必ずチェックする。
そして自分と、意見の違うことや、意にそわないことがあったら、彼は、日記に、自分の思いをつけて書く。こういうことは、まめに書くし、しかも真面目に取り組んでいる。 独断と偏見に満ちあふれる部分もあるが、たいていは小市民の常識の上をなぞって文章を書いている。どちらかといえば、毒にもならない薬にもならない。
可もなし,不可もなしというところであるが、これが、唯一の先生の生き甲斐であり、暇つぶしである。

先生はいつも細君から、かさだかいと、小言を言われている。夜にしか返ってこない男が、朝から晩まで、べったり、家におられたら、奥さんは、それまでの気楽さに比べて、窒息しそうな気分になる。そこで、先生に、健康を兼ねて、散歩にでも行くとか、何かスポーツをするとか、そういうことを勧める。

もともと先生は、飲む、打つ、買うという、男の楽しみを知らない。
それほどまじめで、堅物かというと、そうでもないのだが、大体先生は、遊びというものは無駄であるとしか思っていない。
たぶん貧しい育ちがそうしたのだろう。そのせいだろう。先生は勝負ごとは、まっなく、興味を示さず駄目である。
競輪競馬競艇などは、見学にすら行ったことがない。したがって、そのルールが分からない。ルールが分からないから、お金をかけた勝負など出来るはずがない。
大衆化されたゴルフについても、そうである。先生は、誘われて2,3回コースへでたが、クラブで、ボールを叩いて見て、このゲームは、自分とは、まったく縁がないものだということを体験的に知った。

先生はまた酒が嫌いである。体質に合わない。と言うのか、体質が受け付けないと言うのか、晩酌など、生まれてこのかたしたことがない。ひとり酒だけではなくて、アルコールの入ったものはすべて嫌いなのである。
ビールであろうが、梅酒であろうか。飲む気がしない。
これは自分の体質が受け付けないからだと体質の問題と割り切っているが、飲む同僚からは人生の半分は損していると言われているが、これをからかいだと受け止めて耳を貸さない。

それでは買い専門かというとそうでもない。もちろん男だから、女が嫌いであるはずがないけれども、細君の目を盗んででも、というような気力も行動力もない。

細君には、自分がいかにもてるか、ということを口一杯のこと言うが、それは悔しいさの裏返しである。
今日はどこそこの誰にもてたなどというセリフを持てる男が、細君に言うはずは無い。そういうことは細君の目を盗んで、こそこそとやるのが男である。

ところが先生は、細君を恐れているわけではないが、外出するときには、今日はどこへ行って、誰にあって、どういう話をして、何時に帰る。と明細書をつけて、外出する。
そして、はんこで押したように、明細書を通りの時刻になったら帰ってくる。
40年もつれ添った細君なら、その辺のことが、わかりそうなものなのに、細君もこの先生によく似た、硬い部分を持っている。

話し合いで先生は、ついつい細君を相手におしゃべりをしては、
自分の自慢話を聞かせる。また始まったか、と思いつつも、細君は近ごろ気が短くなったのか、あるいはおとなしいと思っているのに、先生にかみつく。

もともと筋の通ったことを言うわけではないから、理屈を通せば先生は引き下がらざるを得ない。そして気分を悪くして先生は、自分の部屋に閉じこもる。
そこからくよくよが始まる。こんな気分の悪いことになるのなら、初めから話しをしなければよかった。いくら言っても男と女は、通じ合わない部分があるから、これからこういう手の話はぜんぜんヤメにする。と何回も自分には違うが、友達も親しい人も、身の周りにも話し相手がいないので、どうしてもまた細君を相手にして、ぐちゃぐちゃ喋ることになって、気分を悪くする。
毎日毎日、こういうことの繰り返しで、時間は過ぎていく。

こういう状況のなかで、先生はある日、日記を書くことを、思いついた。自分が思っていることを自由自在に、紙に書いていけば、それなりに胸の内は吐ける。
しかも日記を書くということは、一方通行だから、日記の方から先生の方へ向かって、口応えしてくることは全くない。そこが、細君とは決定的に違うところでる。 だから先生は、せっせと、日記を書くのである。

これじゃ高等遊民名ならぬ、単なる遊民、平たく言えば怠け者だ。勿論先生にも言い訳がある。
教師をしていただけあって、ものを書いたり、読んだり、することは、わりにまめに行う。そうとは言っても、難しい本や文章は、とても読んだり書いたりする事が、億劫になって、できていない。せいぜいに日記帳にかける程度の文章量と、その程度の質の文章を日記に書いている。

これが唯一の仕事というは仕事である。これが唯一の楽しみかというと、それはそうでは無い。が、何もしないで、1日を過ごす事自身は、相当な苦痛である。

小人閑居して不善を為すと言うが,積極的に、害を撒き散らすことはないにしても、当たり障りのないことをして生きているわけだから、小人閑居して不善もしないという部類である。


人生とは本質的に

2010年06月13日 | Weblog
人生とは本質的に


 こちらがそう見るから人生が悲哀、憂いなどマイナス感情一色に塗りつぶすされてしまうのであろうか。それとも、人生とは本質的に悲哀、苦しみによって構成されており、生きている限り、これらから逃れることができないものなのか。
流れるままに毎日を過ごして、悲しみにつかり込むのか。
 
ここで反転
マイナス感情を振り払い、悲しみ色を希望色に塗り替える努力が不可欠になる。
つまり人生はバラ色に塗り替えたらよい。苦労はあろうがそれは可能である。
この世は心の持ち方で、どうにでも成るからである。

暴力

2010年06月12日 | Weblog
暴力


 何かあったんだろう。男はぶすっとした顔をしていた。女が何か言ったら、男は彼女を汚い言葉でののしり、女の顔を素手でなぐった。満員電車の人混みの中で人目もはばからずに。
こんな粗野な男とくっついた、女は生涯が不作になる。私はすぐ横で、こんなことを思った。やさしいばかりで甲斐性のない男も困るが、さりとて粗野で乱暴な精神しか持ち合わせていない男も困り者。
 女にとって男は不可欠か、男にとって女は必要なものか。今アバ面を見ると考え込んでしまう
。暴力は腕力だけではない。精神的な暴力もある。しかも暴力というものはわれわれ人類が進化し始める以前から動物的な部分として、体の1部としてくっついて持っているものである。そういう状況の中で女も男も生きていかなければならないのだ。それが現実だ。女性がはっきり自己主張する様になって、離婚が増えた。是非もない。忍従だけが美徳ではない。

どんなおもいで

2010年06月11日 | Weblog


他人がどんな思いで、毎日を過ごしているのか、誰にもわからない。 私も、私の1日の思いにしかわからない。

こういう現実を考えると、自分の命の色合いは、自分一人で味わうほかは無い。

肉体的な条件や周りの状況によって醸しだされる、喜怒哀楽の感情を、自分一人で受け止めること以外に、自分の命を噛みしめることは、できないのである。

コギト エルゴ スム

2010年06月10日 | Weblog
コギト エルゴ スム 

我思うゆえに我あり

この響きは人間がいるから神がいる,仏がいると言う響きに共通したものを感じるのは,僕一人であろうか。

仏教の経典を読んでみるとそんな気がしてならない。

少し古い話になりますが

2010年06月09日 | Weblog
少し古い話になりますが

事実 情況 
新潟県警は 9年2カ月女子、誘拐監禁 の犯人を、探し出すことができずにいただけでなく、発見、救出までの不手際を嘘で固めた。

警察庁の対応
この不手際に対して警察庁は、処分を行った。本部長が、10分の1、1カ月分
辞職したためにおとがめなし もちろん退職金が出る

国の対応
総理、   言語道断、あるまじきこと
官房長官 個人的には怒りがこみ上げてくるか公安委員会の決定を覆すことはできない
自民党の有力者 内部監察では何もできない。

庶民の意見
警察も公安委員会もこのレベルでは信じられない

私の意見
警察は責任感がなさすぎる
公安委員会はぼけているのではないか
何事も正義の感覚を持たないこんな連中に法による 正当性を任せるわけにはいかない。

今の日本は、たるみ切っている。 警察がこんな状態ては1体何をどう考えたらいいのか法律があっても、これでは意味がないじゃないか。
どうして、日本の国)まで、上から下までたるみきったのか。

聖人の言葉

2010年06月08日 | Weblog
中国の聖人はいった。「女と子供はやしないがたし」 。これは一体どういうことだ。

女性と、子供が自己中心的存在であることは一つの特徴として、認めても、それだからと言って、男性に比べて能力が劣るとか、

人間的に、劣るとかいうことにはならない。

例外的な例ではなく、一般論として、男より忍耐心や包容力があり、無条件なる愛が、女性には備わっている。

それが本能的に、備わっていて、発揮できるのはなんとすばらしいことだ。

我々は、無批判に、聖人の言うことを受け入れがちだが、時代背景は別にして、自分たちが生きている時代の諸般の事情を考慮しても
酒をくらい、博打をやり、大量殺人のリードを取り、本来平等ではあるはずの男女をいろいろな意味で差別した男こそが、

愚かな存在として、位置付けられて、しかるべきだ。間違っても、「女と子供はやしないがたし」、などと思ってはいけない。

自民党政治と官僚

2010年06月07日 | Weblog
自民党政治と官僚

現在日本の借金は1400兆円あるという。現在のGNPが40~50兆円だと言うから借金の大きさが判るというものだ。

戦後昭和30年代から60年代にかけて、冷戦の恩恵を受けて日本の国民総生産は2桁の成長を続けて、世界第二位の経済大国だと言われる迄にのし上がった。要するにそれだけ国は富んだのだ。
今日、少子高齢化時代に入り莫大な借金が残った。このツケはいずれ子や孫いやひ孫の世代までが背負い支払いを続けることになる。

一体こんな状態を作った原因はなになのか?アメリカのようにサブローン問題が生じていたわけで無し、一体国富はどこへ霧散して膨大な借金が残ったのか。

つらつら考えるに、これは完全に政治の舵取りが間違っていた結果だ。とすれば犯人は一体誰なのか。まさか農民が、漁民が、サラリーマンが、メーカーが食いつぶしたわけではあるまい。これは一重に政治家それと手を組んだ官僚の犯した罪である。

政治家なんてその道に精通したものが、その任に付くと言うよりは,もっと訳の分からない要素でもって、ことがきめられその任に付いた。従って官僚の智慧を借りなければつとまらない人間が大半だった。政治家の無能を利用して,官僚は自己保身と立身出世に浮き身をやつし、国民のうえに君臨した。

2桁の経済生長を30年も続けながら、借金で首が回らないような状態を作ったというのは,あきれるばかりの話で、その無責任さには開いた口がふさがらない。この責任は誰がとるのかと言えば、子や孫やひ孫達だ。

歴史的に見ると日本開闢以来2000年の中で最も繁栄したと思われた昭和時代に経済規模の拡大や国富を増やしたというのは、単なる見せかけか。それとも誰かが甘い汁を吸うようなシステムを作り、50年間にわたり、国富を食いつぶしてい行ったのか。

最悪だと思われるのは、日本の官僚制度だと思うし、そこにすくった官僚達ではなかったか。無能政治家を適当に操って官僚制に関わる人間の保身に全力を尽くしたのではないか。
自民党ではおそらく暴かれることのなかった官僚制度の自己本位制が暴露されて、今行政改革の一環として行われている仕分けを見ると、天下りと称する官僚がどれほどいるか。またそれによってどれほど税金が食われているか。

官僚集団と言えば、その代表格は東大法学部出身者であろう。確かに彼らは勉強は良くできた。しかしそれだけである。日本国を背負うという自負もなく、己の天下り先でごっそり税金を持っていく。何と卑しい人間の集団だ。本来公僕として、あるいは国家のリーダーとしてこの国を更に豊かにして国民生活に寄与するのが本来の姿ではないのか。

その本分からそれて、巧妙な天下りで税金ををかっさらえていく 。今それが暴かれて国民の批判の的になっているのは当然のことである。勉強は出来るが国家のリーダーとしては余りにもお粗末過ぎはしないか。こんな連中に日本国を任すわけにはいかない。

ここで官僚組織を変えるために東大法学部の採用を中止するか、極少人数しか採用しないか、厳しい倫理観を課して厳しくチエックして採用し、ためにならない人間は遠慮会釈無しに官僚という特殊な社会から放り出して、厳しいしごきを受けさせるか。
何か革命的チエックシステムを作らない限り、今でこそなりをひそめているが、嵐が過ぎれば、またぞろ自己のためにこの国を食い物にする輩が増えるに違いない。

東大は人間教育をしないところであると言われても仕方がない。頭だけが良くて人格的には並か並以下で有ることを、天下り官僚制度の実体をさらけ出して証明した。国民は今回の政権交代で良くその実体を知った。

東大法学部に対して世間は疑惑と嘲笑の目で見ていること、あるいは痛烈に批判していることを東大の教員は知るべきだ。まともな人間教育も出来ないところが一流大学それも日本のトップ校と思っているなら、それはおめでたい話で、まず世間の評価に耐えうる教育をすることが何よりも肝心だ。学生も教員も同罪だ。

立場。肩書き

2010年06月06日 | Weblog
立場。肩書き
人間に色をつけるのは、その人がいる立場である。立場にはすでに色つきがなされており、その色の人間として人は判断を下す。

たとえば、僧一は人に説教する立場の人だから不道徳なことはしないと決めてかかっているが、現実はどうか。
お布施で生活ができない僧が窃盗罪で捕まったじゃないか。

警官が泥棒したり、万引きしたりしているではないか。それは僧や警察官は不道徳、反社会的行動をしないと、勝手にこちら側で決めてかかっているだけで、つまり信頼しているだけのことで、実際肩書きをはずせば、神と悪魔が同居する人間のことだから、本来あって当たり前の話である。

別に驚くには当たらない。表に出ている色を見て中身まで同一の色だと判断する方が完全に錯覚しているのである。 


聖衆来迎図

2010年06月05日 | Weblog
          聖衆来迎図  

二五菩薩が死者を迎えに来る図
二五菩薩が来たのかどうか知らないが、父は焼き場へ行くのはいやだと声を振り絞り、手で宙を切り、引っ張られている手をほどこうとした。

しかし彼は翌日菩薩によって、あの世に引っ張られていった。再びこの世に生還は出来なかった。
この事実から、死ぬ前にお迎えが来るというのは実際にある話だと思う。

この経験談と スエーデンボルグの説をかさね合わせると、彼の言う霊のお迎えはあながち架空の話ではないように思われる。

また平安時代のこの作品は画家の単なる空想ではなくて、実際に経験した事実に基づいて聖衆来迎図が書かれているような気がするが、いかがなものであろう。


 一心同体

2010年06月03日 | Weblog
            一心同体

口で言うのは,簡単だが,百人百様という個人が2にして1になるということは至難のことである。
男と女の場合,お互いに引き合うものを持っていても,最終的には 1と1であって,二人で1とは滅多にならない。体をつなぐことはまだやさしいが,心をつなぐということは,非常に難しい。瞬間的にと言うならばともかくも,長い間というのは,不可能に近い。なぜが?

心はころころ変わるからだ。なぜ変わるのか?状況の変化に対応して,細胞の働きまでが,変わるからだ。

やはり人間は究極においては一人で生まれてきて,一人でこの世を去っていく定めを背負っているのだ。それはひとり人間だけでなく,命のあるのもはすべてそうなんだ

遺跡

2010年06月02日 | Weblog
           遺跡

何もないところに適当に建物が建ったわけではない。建物は人間の思いが目に見えた形で、表現されたものである。

その思いの奥には宗教がある。神仏の世界があり、その世界に強いあこがれを権力者がいだいた時、建造物として結晶する。

こうしてアンコールワットやアンコールトムなどの遺跡は現代に残った。

まず思い想念があり、それが形となって表れる

目に見えるもの(建造物)
奥に思いをいたすこと、それが遺跡見物のポイントであろう

アンコールワットの参道にあの壮大な石造建築物を見たとき、私は身ぶるいし、鳥肌が立った。それが石工の鬼 小杉さんの言葉である

職人とはこういうものか

アンコールワットを見たときそれは文章を書く感動の宝庫であり、果たして鳥肌が立ったか、そこが職人魂を持たない私の悲しい姿である。

楽しまなくちゃ

2010年06月01日 | Weblog
楽しまなくちゃ

私は、作曲するために、作詞をするために、エッセイを書くために、この世に、生まれてきたのでない。
よりよく生きるために、生まれてきたのである。出来る限り苦痛を少なくして、より多くの快楽を、より多くの嬉しい事、楽しいこと、気分の良いこと、心地の良いことを楽しむために生きているのだ。

よりよく生きること。与えられた命を楽しむこと。それが私がこの世に生まれ出たことの目標である。
百年の命を持つ芸術作品を残すために、人生のあらゆる楽しみを犠牲にするなんて。まったくばかげている。そう言えば誰か言ってたな。地位や名誉何するものぞ、今飲んでいるうま酒に勝るものがあろうかと。