日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

オールド・ブラック・ジョー

2008年09月18日 | Weblog
     オールド・ブラック・ジョー


若き日早や夢と過ぎ 我が友 みな世をさりて

あの世に楽しく眠る かすかに我を呼ぶ

 オールド・ブラック・ジョー

我も行かん 早や老いたれば かすかに我を呼ぶ 

 オールド・ブラック・ジョー

これは黒人の魂の歌で、我々になじみのある歌である。この歌の中には、奴隷として虐げられた、黒人の切ない魂のあこがれが、うたい込まれている。奴隷生活の現実は、言葉で表せない厳しいものであり、その現実から逃れようとする魂の叫びが、歌になったのである。
全世界の人々の人権を守ると、自負しているアメリカにおいてさえ、過去にはこのような厳しい現実が存在した。
人間を人間として扱わない、白人の黒人に対する言いようのない差別、主にアメリカ南部を覆った、差別の歴史をこの国は持っている。この苦しい現実を乗り越えて、黒人は人権獲得に多くの血を流した。現実にはまだまだ差別は存在するだろうが、キング牧師らの努力の甲斐もあって、法律的な差別は過去のものとなって、今は建前は差別の壁が無くなっている。
 いきとしいけるものが皆、平等の基盤に立って、生活できることは良いことだ。生きていくだけでも、大変なことだのに、いわれの無い差別によって、さらに大きな荷物を背負わされるなんて、とんでもない話だ。そうでなくても、人生には多くの苦がつきまとうのだから。
生きる事に失望し落胆した人々は、この世を早く去ってあの世に、楽しく眠る人々に対し、憧れを抱くようになる。いやこれは奴隷になった黒人ばかりではない。白黒人種に関係無く,生きることの苦しみから解放されたい、逃れたいと願うようになる。

 彼女もそんな心境で、日々の生活を送っていたのだろうか。
彼女は小柄で、ぽっちゃりした体型をしていた。顔はお多福の面を想像させた。いつも物静かで、余りしゃべらなかった。口数は少なく、おとなしい感じの娘だった。
彼女は私が受け持ったクラスの生徒だった。本人から直接聞いたわけではなかったが、友人の話によると,実母は早く死んで、後妻つまり義理の母と一緒に暮していたが、この人が、何かと難しい人で、押し入れに入って何度泣いたかしれないということだった。
 親しい友人には、そんな苦しい胸のうちをもらしていたらしい。僕の耳にもそれとなく伝わってきた。可愛そうに、何時もそうは思ったが、だからといって特別なことは何もしてあげられなかった。彼女は不幸を背負いつつも、何の問題も起こさない、極く普通の生徒だった。

 たった今彼女の死を、友人からきかされたが、僕の感覚では十七八の若い身そらで死ぬなんて、不自然きわまりないもので、実感がわかず、ぴんとこなかった。
しかし級友は黒のワンピースを着ているし、今から彼女の告別式に行くという。僕はあわてて家にとって帰し、式服に黒のネクタイを締め、彼女の家へと急いだ。
もちろん告別式には間に合わなかった。

 彼女はすでにお骨になって、白木の位牌とともに、自宅に戻っていた。彼女の自宅は線路沿いの安アパート、いわゆる文化住宅である。細い道を尋ね尋ねて、自宅へたどり着いたが、そのときはもう皆帰った後で、寂しさが部屋一杯に漂っていた。
玄関の戸をノックすると、酒で顔を真っ赤にした年輩の男性が面倒くさいそうな表情をして出てきた。僕は自分がクラスの担任であること、彼女の急な死をしって、とりあえず駆けつけてきたこと、
出来ればお線香をあげさせてもらいたいと言った。
初めて会うのだが、この男は彼女の父親であった。めんどくさそうな顔をしながら
「それじゃあがれ」と言う。
 詳しいことは知らないが、この人は運転手をしていて、先妻つまり彼女の母親とは死別した後に後妻をもらって、生活していたということだった。彼女はこのなさぬ仲の中で、気を使いながら今まで生きてきて、持病の喘息であっけなく、この世を去ったのだ。

小さなちゃぶ台に白い布がかけられて、その上に高さ十センチくらいの、小さな箱に彼女は納まっていた。
 僕はお経を唱えながら、同時進行で彼女に会話を試みた。
「君は今この世の苦しみを抜け出して、平安の世界へと移っていった。もう普通の人間が持つ肉体は失っている。ひょっとしたら、君を生んだ母さんが、早くこちらの世界においでと招いたのかもしれないね。それとも、もう君はこの世がいやになったのか。苦しみの多いこの世で、生きる気力を失って、心の底では死を待っていたのか。君のような若さでこの世を去るというのは、僕には不自然きわまりない事だ。寿命まで生きて、死んだのとは訳が違う。君は今から人生の花が開く、夢多い青春のまっただ中にいたではないか。
それがどうして、こういうことになったのか。何か答えてくれ。
僕は悲しいよ。教室や授業では、個人的には話したことはなかったね。君のことは君の友人から、少しはきいていたけれど、深くは知らなかった。だって君、喘息で学校を休んだことがあったかなぁ。僕の記憶では、君にそんな持病があるなんて、全く知らなかったよ。もし命に関わる重大な病気を持っているということならば、それは必ず、保健か養護の先生から連絡があり、申し送り事項として、
生徒記録のどこかに記載されているはずだ。そういう記憶が、僕にはない所を見ると、学校を卒業してから、この喘息の発作が出たと言うことなんだろうか。
あっ。そうだ。もう君はこの世にいないんだ。寂しいな。君は誰にも打ち明けられない苦しみを一人で背負っていたんだね。せめて僕にでも少し位、話したら荷は軽かったかもしれないのだが。もうこの世とでは、連絡はとれないから、会話は無理かもしれないが。
なんとか気持ちだけでも伝えたいものだね。僕は若い人相手の商売だが、今まで17や18歳の人が死ぬなんて、想像だにしなかった。いや出来なかった。真実僕は驚いているんだよ。だがこうして、君の死という厳守な事実にぶち当たると、腹の底までこたえるよ。
十八歳で死んだ君と、オールド・ブラック・ジョウとは同列に扱えないにも関わらず、僕にはオールド・ブラック・ジョウの歌声が聞こえてくる。オールドブラックジョーは君の母さんだったんだ。
君よ、母さんとあの世で楽しく眠り給え。」
ほらほらまた聞こえてくる。
「かすかに我を呼ぶ、オールド・ブラック・ジョウ」のあの歌が。



























等質、同質は集まる

2008年09月17日 | Weblog
等質、同質は集まる。 
 似たもの夫婦 同じ価値観を共有 思考、行動、道徳律など共有できる出来る者といることは心安かである。なぜなら比較的すぐにお互いが理解出来るからである。
ただしこの考え方は差別意識を生まないか。排他的にならないか。異質な者との共生を掲げる地球規模での思考や価値観と対立しないか。偏狭にならないか。

生活上のパートナーとして妻が必要になり、仕事上の女は恋愛という無責任な関係が必要悪として存在している。なんたる身勝手と思う事なかれ。過去も現在も将来においてすらも、社会的に良い仕事をした、する男は恋愛を求めた。過去の実績が示すところである。彼にとっては仕事も恋愛も
人生のロマンの1つなのだろう。

女の碑の会様

2008年09月17日 | Weblog
   女の碑の会様

お便りありがたく拝見しました。皆さんの熱気みたいなものが伝わってきて、圧倒されそうになりました。
人数の多い、少ないではありません。
人の心です。想いです
皆様のお気持ちは、すがすがしいです。
私が動くことが、皆様にとって何かの役に立つならば、こんなにうれしいことはありません。

「女の碑」作曲しましたので、お届けします。

「女ひとり生き、ここに平和を希う。」   
              市川房枝

 初めて見たとき、曲になるかなと思いました。たった一八文字に込められた皆様の思い、生活実感や感慨に、思いをめぐらすとき、私は二つの側面を思い浮べました。
人間として女性の誰もが望み、誰もがあこがれる結婚。その相手になる年頃の男性が戦争で、多くは戦死して、絶対数が不足している為に結婚できなかった人たちの、悔しい気持ちや、心情を察するに、私にはいろいろな想いが過ぎります。
 一つは深い悲しみの霧に包まれて、泣いている心。そして時の経過とともに、沈潜した悲しみに代わって、浮上してきた、あきらめの気持ち。
さらに透明度を増した、やすらぎみたいなもの、いや、灰色を青空色にかえていった心境の変化。もっと突き詰めて言えば、アクが抜けて純化された魂の世界に住むことを願う気持ち。
前者は悲しみを表す単調。後者はどこまでも澄み切った宇宙の色両者の間に、一八小節を取り、心境の変化のプロセスを表しました。
色にたとえると、真っ暗が、徐々に灰色になり、さらに白になっていくみたいなものです。
私の心で表現するならば、悲しみに、涙で濡れた頬に、泣いた後のさわやかな気分が、込み上げてくる。このすがすがしさです。

本当に生きるということは、大変なことなんですね。でも、命が尽き果てるまで、私たちはこの世で生きなければ、仕方がないのです。
 だから私は、今を境を精一杯生きなければ嘘だ、と思うのです。私よりもさらに、苦しい環境を生き抜いてこられた皆様に心から、拍手を送りたいと思います。どうか力を合わせて楽しい日々を続けてください。とりあえず、ソロで入れておきます。

あれから、また考えました。会員の中には、寂しくて、当時は御法度だった不倫をして、その時の気持ちを赤裸々に綴った手記を書いておられる方があったが、それを読み、我が身に置き換えて、考えてみると、実感がひしひしと伝わってきました。

 大正末から、昭和一桁生まれの人たちの、苦しみが容易に想像できて、何ともいえない気持ちになりました。
男は戦争にとられて、この世の地獄を見て、なくなっていき、銃後を守ると、いうスローガンの下に、結果的には、結婚相手を失い、生涯独身を強いられた、気の毒な状況下に置かれた女性達。
彼女たちが生きる権利の一部として、不倫をしたとしても、何ら責められる理由はない。それが倫理にかなっていないとしても、人情の自然でしょう。
 社会道徳とは、相容れないものだろうが、
僕の意見としては、この種の不倫は、自然なこととして、受け入れます。いや秘密をもちながら命を燃やして、不倫した人にたいしては、責めるどころか拍手を送りたい気持ちです。
 
 命の華といえる、青春時代の男女の味わいを、戦争という異常な出来事のために、奪われたのだから、戦争が終わった段
階で、それぞれの青春を取り戻すべく、不倫を重ねても、その方が人間らしくて、よいように思います。
 今の時代ならともかく、戦前の古い女性道徳教育を受けられた人たちは、そう易々と、自由奔放に、恋愛や不倫に走ることには、大きなためらいがあったことでしょう。多分大半の女性は、泣く泣く、自分の想いを抑え込んで、苦しい想いに涙して、生きてこられたのでは、ありますまいか。
 結婚をしたくない人が、結婚しないのは納得ずくのことです。しかし結婚したくても、相手の男性が大半戦場へ送られている状況下では、どうしようもありません。泣く泣く自分を抑え込むか、跳ね上がるか、しか解決方法はない。
そういう状況下での不倫でしょ。たとえ世の常識がいかにあろうとも、また女性教育がいかにっあたものにせよ、しないよりはしたほうが人間らしく思います。
 不倫をしていても、それは一時の麻薬みたいなもので、その場限りの楽しみだけで、その裏には、深い悲しみが待っている。あなたは帰る家庭がある。私は家に帰っても、ひとりぼっちで、寂しさは余計に体に応える。
本には体験談として書かれていたが、不自然な男女関係は、いずれにせよ、芯から心を温めるまでには、至らないのですね。
時代というのが、運が悪いというのか、人生どうしようもない、ど壺にはまった気の毒な世代です。心から同情いたします。僕もあと一〇年早く生まれていたら、皆さんと同じ運命をたどったことだろうと思います。
戦争は非情です。残酷です。むごいです。無法で正義も、真もありません。
国民をこんな状況に導いたり、引きずったりした戦争責任者は当然国民に対して、責任を負わなければなりません。
言葉で以上のような理屈を、どんなに唱えても、失われた青春と人生は、取り戻しようがありません。こんな手紙を書いてみても、皆様の心を芯から温めることは出来ないでしょう。だから書くのはもう止めます。どうか心をしっかり持ち、似た境遇の人達と、仲良くお暮らしください。ご健勝を陰ながら、祈っています。
女の碑文に作曲して
              圭史

武器よさらば

2008年09月17日 | Weblog

武器よさらば

赤ん坊はどうしたんですか
ご存知なかったんですか ええ

一応生きさせることができなかったんです.その緒が首がどこかに巻きついていたんです

で、死んだのですね

おそらくに生き帰って呼吸を始めると思ったのだろう。

僕は宗教を持たないが赤ん坊が洗礼を受けるべきだとは思っている

キャサリンのお腹の中で赤ん坊がけっているのをたびたび僕は感じた
この一週間は感じなかった。きっと窒息していたのだろう

今度はキャサリンが死ぬのだろう
人間とはそんなものなのだ。人間は死ぬ。それがどんなことが人間にはわからないのだ。わかる暇もないのだ。
引き込まれてルールを教えられ、初めてホムベースを離れたとたんにタッチアウトになるんだ。

でなければアイモのように 理由もなく殺されるのだ。でなければ、リナルデイのように梅毒をもらってしまうのだ。が、結局は殺されるのだ。それは確かなことだ。うろうろしているうちに、殺されるのだ

あるときキャンプで僕はたき火の上に丸太を乗せた。それにはありがいっぱい集っていた。それが燃え始めると、あるいはぞろぞろ出てきて 、まず、火のある真ん中のほうへ行った。それから引返して、橋のほうへ行った
端にいっぱい集まるとありは火の中に落ちた。何匹かは逃げ出したがたいていは火の方に行きhそれから端の方に戻ってきて
熱くない端に群がってついには火の中に押していった。

僕はこのとき、これこそ世の終わりだ、救世主になっで火から丸太を摘みあげ 放り出して、ありが地面に逃げていけるようにしてやる素晴らしい機会だと考えたことを覚えている。だが僕は何もしないで、
ブリキのコップの水を丸太にかけただけだった。それもコップを空にして、ウイスキーを先に入れてから、水を割りたかったからだ。

燃えている丸太にコップの水をいっぱいかけたのでは、ただありを蒸し焼きにすしたにすぎなかっただろう

すごく危ないのです
看護婦は部屋の中に入りドアを閉めた。
僕は外も廊下に腰掛けだ。僕の体からすべてが抜けて行った。僕は考えなかった。考えられなかった。
彼女が死にそうだということがわかり死なないように祈った。
死なせないでくださいアー神様どうぞ死なせないでください。
死なせないでくださったら、何でもいたします愛する神様。死なせないでください。どうぞどうぞ。死なせないでください神様どうぞ死なせないでください。
死なせなかったらおっしゃることは何でもいたします。赤ん坊はおとりだけになったが彼女は死なせないでください。赤ん坊はかまいませんが、彼女は死なせないでください。どうぞどうぞ、愛する神様死なせないでください。

看護婦がドアを開けて僕に入ってくるように合図した僕は彼女について部屋に入っていった
かわいそうなあなたとキャサリンがとても静かにいった。顔は真っ青だったすぐよくなるよと僕はいった。

もう死ぬのよ。と彼女が言った。
もしもの時に手紙を書くつもりだったのに書けなかったわ 
牧師さんが誰か呼んでこようか  あなただけでいいのと 彼女がいった

何か僕にしてほしいことがあるかい、何か持ってきてあげようか
いいえ それからしばらくたって他の女の人と私たちのしたこと、したり同じこと、いったり、しないで。ねえ?
しやしないよ。 でもあなたに好きな人ができて欲しいわ 
僕はないよ
君がしっかりしてるんで嬉しいよ 僕は廊下で待った長いあいだ待った。

看護婦がドアのところに来て僕のほうへやってきた。
奥様がすごく悪いようですどうも悪いようです。死んだんですが いいえ意識がないのです

出血が次々になったようだ。それが止められなかったのだ。僕は部屋に入りキャサリンが死ぬまでそこにいた。彼女は意識がなく、死ぬまで対して時間はかからなかった

ノーベル賞作家・アーネスト・ヘミングウエイ 1961年 猟銃で自殺
主人公 ヘンリー 看護婦愛人 キャサリンバークレイ

法文系28番教室で現代英米文学論で大橋教授が解説してくれた以上の文章がまだ頭に残っている。

僕はこれ以前から人間がいきることってどういう事だろうと考え続けた。人間の生と死について。勿論今も考え続けている。 宗教っていったいなんだろう 。

9月11日

2008年09月17日 | Weblog
人々は想像を絶する.テロだというけれども、よくよく考えてみるとこのテロを許したということはやはりぬかっていたとしか言いようがない。

9月11日歴史上経験のなかったテロ攻撃を受けてアメリカは騒然となった。いや世界中が驚愕と恐怖の渦の中に巻き込まれた。
テロや犯罪を未然に防ぐ役目を持つCIAは完全にメンツをなくした。

テロリストたちはアメリカ国内定期便の航空機を使ってニューヨークにある二つの貿易センタービルを攻撃し完全に破壊した。犯人はもちろんのこと、飛行機の乗客やふたつのビルで働いていた人たち、約6000人を巻き込んで大惨事をひき起こした。

それにとどまらずアメリカの国防をつかさどる国防省にも同じく、飛行機を激突させて建物を大きく破壊させた。ここでも約200人の犠牲者が出た。

後の1機はおそらくホワイトハウスか議会の建物を狙っていたに違いないが、これはピッツバーグ郊外に墜落した。この事実同時多発テロが報じられると全世界が騒然となった。
特にアメリカでは大統領がホワイトハウスを避けて別の場所から指揮するという異例の事態となった。
僕は日本のテレビ局が放映するテロニュースだけでは満足せず、アメリカのテレビ局たとえばCNNやABCの放映に目と耳をそばだてた。この冷酷無悲で冷徹な計算し尽くされたテロの計画と実行に激しい憤りを覚えると同時に罪もなくこの災難に巻き込まれて命を失った人々に対する哀悼の気持ちに心を奪われて寝つきが悪かった。

中秋の名月
あれから2週間がたった。仲秋の名月も近い。
秋ばれの夜空に煌々と輝く満月は、ここ京都の秋の夜空をロマンチックに染めあげている。
水面を渡る風はかすかに頬をなでて通りすぎるが、半そでシャツ姿では寒い。

あの悲惨なテロを適当に受けながして、月見をする心の余裕がほしい。これからいつまでテロ事件が自分の内で、尾を引くのだろうか。10年の歳月を経て、いまなお僕の胸の内にはテロの後遺症がのこっている。


よりよく生きるテクニックを教えるところがない

2008年09月16日 | Weblog
よりよく生きるテクニックを教えるところがない

学校
小、中、高、大学と、学校は学問を教えるところで必ずしも、よりよく生きることを教えるとは限らない。現在の教育状況からすると絶望的だ

家庭
家庭ではまれに教えるところもあるが<よりよく生きる>テクニックは教えない

社会
生きるという現場であって、各自がテクニックを学ぶことがあっても社会から個人に向かっての働きかけはない。

人々が求めているのは(よりよい生き方)のテクニックや考え方であって、必ずしも学問的知識ばかりではない。   

肖像画を見て

2008年09月15日 | Weblog
人類に普遍的に通用し、あらゆる人々を差別しないで、幸福をもたらす真理を
この世で今,
実現しようとしている崇高な精神の持ち主が、たとえ凶弾に倒れようともそれは仕方のないことである。

歴史は人類のために何か新しいことを企て、実行することは常に犠牲を伴うということを証明している。

ベンジャミンフランクリンの肖像画を見てそう思った。そしてこのことは洋の東西を問わず、時を越えて通用する一つの真理なのだろう。

ホテル・ド・パリ

2008年09月14日 | Weblog
ホテル・ド・パリ



 バラナシにつくと、カントン駅の表玄関と反対方向、つまり北側の一番端のプラットフオームに行ってから線路へ飛び降りた。
破れた金網をくぐり抜け、細い路地のような道を通り抜けて広場に出た。  このほうが今から行こうとしているシッダルタ・ホテルへ行くのに近道が出来るようだし、うるさく付きまとう、リキシャ、ワーラーに煩わされる事もないように思ったからである。だが実際はバラナシ市内なら、どこでもそうであるように、広場にたむろしているリキシャワーラーが、僕を見るなりわっと押し寄せて来た。 仕方がないので、そのなかから人の良さそうな五十代のワーラーにシッダルダ・ホテルにいってくれと言って乗った。ワーラーは調子よく
ヘイ、分かりましたという顔をして軽やかにペダルをこぎ出した。
ところが先程から、彼が行く方向が気になる。地図で見る限り、逆の方向に走っているように思えてならないのである。僕は何回もシッダルダ・ホテルへ行ってくれと繰り返した。やがて広い道を左折して奥まった所で、
リキシャは止ったが、そこは新しくできたゲストハウスであった。
またか。カルカッタでの、あのいやな気分が頭を横切った。
建物から人が飛び出して来て、そのゲストハウスへ引きずりこむように部屋を案内した。
 僕は「ここは違う。シッダルダ・ホテルへ行ってくれ、」と語気をあらげた。 しつこい勧誘を振り切って、表路へ出ると、リキシャはどこをどう通ったのか知らないが、大きな庭のある瀟洒な白い建物が立ち並ぶ、閑静なホテルの前を通った。入り口にはホテル・ド・パリと書いてある。
ははーん。これが有名なホテル・ド・パリか。
僕はしばらく見とれていた。大きな木の陰で、ワーラーといっしょに休みながら、なめ回すように、僕はこのホテルの様子や、たたずまいを観察して
脳裏に焼き付けた。
インドにあっても、このホテルは西洋の香りを漂わせている。ホテルの雰囲気にマッチするかのように、庭内を散策する人も西洋人らしい人達ばかりで、ここだけは喧噪もなく、バラナシで別世界を構成していた。金持ちによる租界か。 下町がインドならここはヨーロッパだ。そう思ったが、僕は今インドに来ているのだと自分に言い聞かせた。ヨーロッパには用はない。

  さあ、行こう。僕はワーラーをせきたてた。彼は相変わらず行き先が分からないのか、ぐずぐずしている。インドで短気は禁物だといわれたアドバイスを思い出しながら、忍耐はしたが、これじゃ日が暮れる。
僕は適当な所で降りて、リキシャを乗り換えることにした。
乗り換えたリキシャに揺られながら、僕は先程のリキシャについて考えた。
そういえばあのワーラーは、にこにこ笑みは絶やさなかったが、ひょっとしたらインド人ではないのではないか。ネパールかどこからか流れ込んで自分の言葉以外には何も理解できなかったから、変なゲストハウスへ連れ込んで、ここが宿だと思い込んでいたのではないか。そういえば、あのゲスト
ハウスのマネージャーが話していた言葉も、理解出来なかったようだった。
成る程。言葉に関しては文盲だったんだ。僕は勝手にそう決め込んだ。
そうしたら心の中にあった、もやもやが少し晴れた。怒鳴ったり、露骨にいやな顔をしなくてよかった。よしんば僕が不機嫌をあらわにしても、彼はただ
にこにこしていただけだろう。やっぱりインドでは、短気では暮らして行けない。僕はたったこれだけのことだったが、なにか大切なことを学んで、得をしたような気になった。

立場は違うが、これと似たような経験をしたことがある。
僕がまだ進駐軍のキャンプで働いていた時の事である。
特別寒い冬のある夜、僕は玄関のドアーを半開きにして、友達と立ち話をしていた。そこへこのクラブの総支配人であるジョン・シャネシーが通りかかった。
赤鬼のような顔をした、この大男は僕を見るなり
「ガッテメ、ゲラルヒヤー」、
と語気をあらげて怒鳴りつけた。そのすさまじい勢いに、僕はどうしたらよいか分からないで、咄嗟に、にこっと愛想笑いをした。彼は顔を真っ赤にして
僕の腕をつかみ、部屋の中に引きずり込んだ。彼は大きな声で二言、みこと、怒鳴った。僕は怖じけついているうえに、英語はからっきしわからない、ぽっと出の田舎者である。ただ彼の顔をじっと見つめる外はなかった。最後に背中を突き放すようにして、うしろからジャブと言葉を浴びせられた。
言葉が分からないというのは、ある意味では幸せなことである。何を言われているのか、全く分からないから反論のしようもないし、腹も立たない。
 ただ暖房をがんがん焚いて暖めている部屋のドアーを閉めるために
雇われている僕が、半開きにしているのだから、怒られるのは当たり前の話である、と僕は自分の非を認めて納得した。
後日僕は英語の分かる友人に、ガッテメ、ゲラルヒヤーとジャブの意味をたずねた。友人が言うことを、僕なりに解釈して言い換えると
「この野郎。馬鹿もんめ、そんなところで何やってんだ。とっとと出て行け。
こんちくしょう。日本人野郎めが。」
かなりきつい軽蔑と差別を含んだ言葉だ。後で聞いた言葉に僕は腹が立って来た。もう何十年の昔のことだけど、未だにはっきり覚えている。
今だったら、しっかり言い返してやる。
そのことがこんな場面で急浮上したのだ。よかった。嫌みの一つも言わなくて良かった。言ったところでどうなる事でもない。

ほどなくしてリキシャはシッタルダホテルに到着した。
やれやれこんなに時間がかかるのなら、初から正面の中央コンコースを通って、リキシャのたまり場へ行けば、よっぽど早かったかも知れない。
インドでは急がばまわれか、僕は計算違いに苦笑した。










興福寺五重塔

2008年09月13日 | Weblog
興福寺五重塔

近鉄電車は、奈良市内に入ると、地下に潜って、中心部に乗り入れる。駅を降りて
階段を上り、地上に出て、すぐ目に付くのは、噴水の真ん中に立つ行基菩薩の立像である。
行基さんの前を通りすぎ、すぐ右折するとにぎやかな商店街になる。

そこをとおりぬけると道は、3条通りと、T字型に交わる。それを左折して3条通りを100メーターも歩けば、右手に、猿沢の池が見える。それを無視して、もと来た道を行くと、なだらかな上りの坂道が続く。阪を上り詰めると、その道の左手に興福寺の五重塔が、そびえている。

塔はかなり高い。そして古めかしい、古色蒼然、としているが、荘重で美しい。やはりこれは国宝だった。
均整のとれた建築美が読み取れる。奈良市を紹介するパンフレットや冊子の写真は、たいていこの五重塔だ。日本人なら、誰が見ても、壮麗美だと思うだろう。

ほれ込む人は、建築美の極致だというかもしれない。近づいて、カメラを覗くと、塔の下から、上までの全景は、収まらない。そこで、南円堂にぐっと近づいて、つまり塔からずっと離れて、1枚とった。

五重塔の原型は、スツーパである。お釈迦様が入滅されたとき、その遺骨は、八つに分けられて、インド各地に分散されてその上にスツーパがたった。その一つが、インドのパートナーの近くにある、最近の発掘調査でバイシャリー遺跡の、ここに収められていたことが分かったらしい。

舎利すなわちお釈迦様の遺骨を収めたのが、スツーパで、それが時代を経て塔になり、今僕の目の前にある。興福寺の五重塔がそうである。こんなことも、インドに行ってこないと気がつかなかっただろうし、わからないことだったのだ、というコトが頭をよぎった。

インドの旅はきつかった。自然条件の違いもさることながら、僕と接触するインドの人々(インド人がどうかわからない)とは、心情的に違うものを感じて、最後まで、気が許せなかったから、溶け合うことは無かった。日本では、釈迦は尊敬され、合掌して拝み、その教えを日常生活の隅々にまで、染み込ませてきたはずの日本人のぼくの心情とは、全然異質なものがあると思った。これは一体なぜだろう。日本には現れないで、聖なる大地マハーバーラタ・インド、ここ地元に、大聖人が現れたというのに。

釈迦の教えもその影響も、果ては匂いさえも、完全に消されてしまったのだろうか。仏教に壊滅的打撃を与えたイスラム教のために仏教的なものは全てかき消されてしまったというのだろうか。

釈迦はインドに生まれた。正確には、現在のパール領のルンビニに生まれた。インド人も日本人も、その人に帰依してその教えを精神生活の支柱ともしていたというのに。

そこで僕は考えた。その他大勢の雑魚は、インド人でも、日本人の僕でも、普遍的なことを考える前に、己の立場を最重要視するために、言い換えるならば、己の損得に、こだわるために、溶け合わない部分が目立つのではないか。
そういう理屈をつけても、じゃ握手と言うわけにはいかない。まだ心に引っかかるものがある。いったい何なのだろう
ぼくの気質によるものか、相容れない価値観を持っているからだろうか、自然環境によって形成されたものの考え方の違いによるものか。理由が何であるにせよ、うちとけられない。インド人と見ると身構えてしまう。


目の前の国宝のこの五重塔を見ていると、やはり日本を見てしまう。木造の塔ならネパールで、よく見かけた。特に、カトマンズ郊外のバクタプルで見かけたあの木造建築の塔と日本のものはどこか違う。
しかし、基本である尊いもの(舎利)をまつるというスツーパの原理は、石造か木造か、スケールが大きいが、小さいか。そんなことには関係なく、仏教では、重要な建造物である。

せっかくインドの仏蹟めぐりの旅に出て、サルナートまで、いきながらサルナートにある有名なスツーパを見逃したのは、何とも残念で悔しい。バラナシには、幾日も滞在したのに、サルナートの見学は、1日で済ませた。なぜだろう。多分相当疲れていたんだろう。

ここにあるムルガンダ・クテイ寺院では、日本語を話せるインドの若い修行僧がいたし、ぼくが生まれる1年前に、既になくなっている日本人画家・野生司香雪が、この寺の壁に、釈迦の一代記を壁画で残している。
画伯のことは何も知らないが、懐かしい想いと同時に誇らしい気分になった。日本に生まれてよかった。先人にはこんな誇らしい人もいたんだ。学校では美術史でも歴史でも習わなかったが、釈迦に熱い思いを寄せて
ここまできてこんなすばらしい一代記を残したのは、彼のみならず日本人の誇りだと思った。
ぼくは彼がまるで自分の先祖か何かのように嬉しくなった。
ついでに書くと、画伯の名前・野生司香雪はアジャンタの石窟寺院の案内書でも見た。

サルナートは、バラナシの北約15キロのところにある。境内は、芝生の緑が眩しい。そして、なによりも、静かである。小さな動物園があり、池にかかった橋を渡るとき、水面を見ると、小魚がたくさん泳いでいる。ポケットから、パンを取り出して、水面に放り込むと、小魚がぱっと押しよせて銀鱗が踊る。心がなごむ一瞬だ。そして、境内には、釈迦が初めて説法をしたときの様子が、像で表されている
一番初めに。釈迦の弟子になった5人の弟子たちの像が等身大で設置されている。

ところが像は、日本人の僕から見ると、ちゃちである。日本では、釈迦であろうと、その高弟であろうと、荘厳であり威厳があるのを見慣れているので、物足りないものを感じた。どうしてあの大聖人も、こんな軽いタッチの像に仕上げられているのだろうか。人種によって美的感覚や宗教的感覚も、違うのだろうか。

まず最初ブッタガヤのマハーボーテイ寺院にある釈迦像を見たときの第一印象は、日本のそれと比べて、なんと軽いタッチの像だろう。まるでおっちょこちょいに仕上がっていると不思議に思った。荘厳で厳粛で威厳があるとありがたさが湧いてきて拝む気にもなれるが、威厳もなく荘厳さにかけると、拝むありがたさも半減する。
日本の仏像・とりわけ釈迦像が頭にこびりついて、それとこれを比較するからちゃちに見えるのだろうか。ぼくは今も日本を引きずっているのだろうか、とも思ったが、それは違う、作りそのものが荘厳なものではなく、僕の眼から見ると、軽いタッチで作るのが、インドの国民性なのかもしれないと思い直した。

どうしたわけか。興福寺の五重塔を目の前にして、次々と、頭をかけめぐるのは、インドの仏蹟のことだった。
釈迦が難行苦行から自らを解放してスジャータの差し出した乳粥で元気を取り戻し悟りを開いたというブッタガヤ。当時世界最大の仏教学問所・大学があったナーランダ。ブッタが晩年をすごしたマガタ王国のあった当時の都・ラージギル。ヒンズー教3000年の歴史を持つ聖地バラナシとガンジス川、 そこから10キロほど北へ行ったサルナート 、など訪れた仏教遺跡が次々と走馬灯のように頭の中を駆け巡った。

やがて五重塔は西日を浴びて、明るく輝きだした。それを見てぼくの頭はインドから日本・奈良、興福寺前に切り替わった。


金粉現象

2008年09月11日 | Weblog

金粉現象

 彼とはバンコクのゲストハウスで出会った。目指すはカンボジア・シエムリアプ、アンコールワット 。陸路でいくか、空路でいくか迷ったが、やはり空路を選んだ。
 
旅行代理店の話では、陸路ではカンボジアのビザこみで1650から1750バーツだという。飛行機だと、カンボジアエアーが往復で5500バーツ。約1時間の飛行である。ぎりぎりまで迷ったが
空路にした。理由は体が楽だということだ。
 
陸路だったら、アランヤプラテートまでは列車で行き、国境を超え、ポイペトに入ってからは、トラックの、荷台に乗ることになる。おまけに、道路状況はいつも変わる。橋が壊れて通れなくなっていたり、道路が冠水して通じなかったり、所定時間はあくまで未定で、ベストコンディションのときのことで6時間、運が悪いと10時間以上かかって真夜中になることもあるらしい。

そんな話を耳にしていたので、ワイルドで面白いじゃないかと胸が騒がないでもないが、今回はこれを見送って、彼=陸路、僕は空路ということに決めた。空路でプノンペン、に入り、そこからボートでシエムリアプに行き、アンコール・ワットで落ち合うことにした。どうせ狭い町のこと、1週間も滞在すれば、どこかで会うだろう、と言って彼と別れた。

 滞在中、彼を見かけなかった。ひょっとしたら、予定変更で
シエムリアプに来ていないかもしれないし、遺跡の大回りコースを楽しんでいるのかもしれないと思い、僕は僕なりの計画に従って行動した。来る日も来る日も、あせまい町でありながら、彼には会わなかった。

いよいよ最終日シエムリアプからプノンペンに向けて出港する高速艇は満員だった。この日は夜来の、雨が上がらず 降り続いている。今朝もまだ降っていた。
そこでボートの屋根に登って旅を楽しむはずの人が、皆座席の方にいるので、座っていても、足を延ばすことすらできなかった。

僕の座席は、最後尾の2人掛け116だった。 となりの、席の人が来ないので、これはしめたと思ったら、僕の名前を読んだ奴がいた。
「おう。君か。あわなかったねえ。どこにいたの? 君の席は何番だ?ええっ。なに?117。それじゃ僕の隣の席だ。荷物はどうした。?貨物室?」
「よかった。僕マラリアを心配しているんです。」
「ええっ。それはいったいどういうことだ。?」
「体が、熱っぽくてだるい。それに体がフラフラして、頭がぼーっとしていて、いつもの感覚と違うのです。ガイドブックには、タイ国境地帯は要注意と書いてあります。」
「それではチョット聞くがね。下痢はしないか。そうか。睡眠は何時間ぐらいとっているの?、悪寒はあるの。?」
「今はないです」
「ということは、ここ、2、3日中には あったということだね。ふるえが来たのは。いつだって?」
「夕べです。夜中にかなりきついのが、あってどうなることかと心配しました。チョット、熱を見てくれませんか。」
「確かに熱い。それに、白目がピンク色になっている。確かに体のどこかが変調をきたしているのだ。」

ぼくはあわててガイドブックで、マラリアのことを書いたページを開き、指さして、彼に読むように促した。

ガイドブックには、かなりきついことが書いてある。耐性パワーの付いた蚊には強烈なのがいて、脳にきて死に至るケースだってあるという。

「君の症状は、君しかわからない。プノンペンに着いたら病院にいった方がよい。
宿ではクーラーは厳禁で、フアンもオールナイトはダメ。休養して体力を、回復させることだ。体力がないと病気に負けてしまうから発病するよ。素人の僕の見立てでは、マラリアではないと思う。
連日3時間しか、ねないで、睡眠不足を重ねると、それだけでも体力は消耗する。熱はこの程度だったら微熱。37度台だ。食欲をあり、ムチャな事をせず、静養するぐらいでどうだろう。それでもこれは素人考えなので、病院でチェックだけは、しておいた方がいいよ。悪性になったり、進行して、もう後へは戻れないというだけの事態だけは避けなければ」

「ありがとうございます。そう言われてだいぶ、元気になりました。雨も上がったことだし、屋根に登って景色を楽しみます。僕の席に、水のボトルを置いていきますから」
「気を付けて。すこしでも不調を感じたら、すぐ戻ってくるように。わかったね。」

意見を求められるならば、彼はやばい。あれは若者特有のいけいけどんどん。向こうみずも甚だしい。この感覚では、決して健全なバックパッカーにはなれない。

人が金で済ませるところを、金を使わないで、自分の気力、体力
知識、経験などをフル稼働させて、旅する者の名称それが、バックッパッカーである。

ついでに言うなら、自分との戦いである。旅のだいご味はバックパッカーにしかない。彼はコントロールする前に体を全て、若さに委ねている。それに耐えられるときはいいが、行き着くところまで行くと、簡単に回復できない状態になる。
それでも誰に助けをもとめる訳にも行かず、自分一人で呻吟することになる。そんな心細い事はない 。


 僕は彼に安静にするようにいった。プノンペンに着くと、フランス大使館の横にある大きな病院に行くように勧めた。一刻も早く診断を受けた方が良いと思ったからである。

僕たちはキャピトル泊まることにした。翌朝彼の部屋を訪ねて病院の結果を聞いたが、なんのことはない。彼は大使館に相談には行ったが、病院にはいかなかった。それでも、15時間寝たおかげで体調は基へ戻ったと彼は言った。確かに元気がみなぎっている。そこで彼の部屋で、旅の話をすることにした。僕は清水寺とバイヨンの観音様を関連付けて、その不思議を語った。

その話は彼にも不思議だったらしい。ところが、彼にとって1番不思議なことは、ボートでの出会いである。偶然と言えばあまりにも偶然すぎる。確かにこれも不思議な出来事ではあった。

それから僕たちは、神とか仏などの神秘な体験の話しなった。こういうことは信じる人には通じるが、そうでない人には丸で馬鹿げた話なのである。

二人はかなりつっこんだ話をした。勿論個人的な体験談である。その内に彼の肩に金粉が現れた。それは僕が見つけた。彼は自分で見ることが出来なかったので、鏡で確認した。彼は金粉現象ははじめてだといった、が僕にはよく起きる事だ。

「こういう話は、僕にはごまんとある。聞きたいというなら、いくらでも信じられないようなことを教えてあげるよ。僕はこういうことに興味があり40年間のキャリアがある。でも普通誰にも言わないことにしている。誤解を受けるだけだからだ。もしあなたが興味があるのなら、いくらでも教えてあげる。遠慮なく聞いてください」と付け加えた。

彼は、出会いの不思議に驚き、続いて出会った人から今まで経験したことのないような話を聞き、自分の体験した事に驚きながらも
世界が広がったことを喜んでいた。

僕は、これから彼の旅の道中で、わが身に起こることを、詳細に記録して、当然のことと、当然でいないことを、区分けするように
アドバイスした。常識で考えられないようなことを、体験した場合にはその場で、自分なりの解決を試みる必要がある。もし、その答えが出なかったならばいつまでも、ペンディングにしておくのがよい。ある日突然、思いもよらぬことから回答が生まれる場合だってあるから。とアドバイスした。

それから、僕は今回感じた不思議についてバイヨンの話をした。
バイヨンで背中に異様なパワーを感じたこと、金粉現象こそ起こらなかったが、バイヨンの第二回廊の上では、体をさすような 強烈なエネルギーを感じたこと、またそのせいで、胸騒ぎがしたことなどを話した。なぜそのような、現象か起こるのか。ぼくにはまったく分からない。だが、結果として、僕がそう感じたのは事実である。このことも正直に、付け加えた。

ひとり旅をして考えたり、感じたり、経験したりすることを、文章という形で、記録にとどめ、それをもとに、エッセイを書くのも、非常に楽しいことであるが、旅の途中で、出会った人たちと道連れになりながら、そういう体験を語りあうことも、旅の楽しみの中では、大きな喜びとなる。未知の世界へのあこがれが、しからしめるバックッパッカーへの贈り物である。

ついでに言うと、だから、海外旅行病という治療薬のない病気にかかるのである。
それでもあえて、つける薬は?と聞かれると、
「海外に行くんだね。」 それしかない。

道学者

2008年09月11日 | Weblog

生存できるかどうかというぎりぎりの線上にある人に、モラルを説いた何の価値があろう。こういう人を道学者と言って人間の実態を知らない学者か、かさもなくば人を欺いているか、どちらかだろう。

法律を守れ、道徳を守れといえるのは、恒産あり恒心を持つ人々にだけ通じる言葉であると思う。

アウランガバードにて

2008年09月11日 | Weblog
私が思うに

私が思うに人間というものは何か意図があってこの世に出てきているということだ。また使命があってこうして巡礼しているようにも思う。もちろん自分自身の意志でしていることには違いないが、それでも一方では何かの大きな力に導かれてここまでやってきていると言うのが自分の素直な実感である。
 
アウランガバードはボンベイの北東約350キロくらいの所にある。大阪から静岡あたりまで行く距離である。エローラやアジャンタなどの遺跡を巡る基地のようになっている町である。ボンベイから夜行バスで発った。夜9時過ぎに出発したが着いたのは翌朝の十時過ぎであった。

アウランガバードではツーリストホームに宿をとった。ここで私は一人の日本人女性に会った。彼女はもうかれこれ6ヶ月も一人でインドの佛跡を巡っているという。何が目的で?こんなにきつい旅を強いられるインドくんだりまで来て。
 冷やかしではなくて、私は強い好奇心を彼女に向けた。この人は心の中に何か持っているに違いない。その何かは決してミーハー的なものではなく、多分私の心にずっしりと響く何かを持ってここまでやってきたに違いない。私は失礼にならない程度に踏み込んで彼女のことを聞いてみた。


彼女は要旨次のようなことを話してくれた。そして僕は深く胸を打たれた。
 「日本に帰ったら福祉の仕事をしたい。こうして巡礼の旅を続ける間にずっと思い続けていることは福祉とは何か、と言うことです。この問題に関して私は自分自身の回答を得たいと願っています。確かにその道の学校に行けば福祉と言うものに関して教えてはくれるだろう。が私は自分の心の中に、本当の意味での福祉というものつかみたい。そう思うからインドへ来る前に、四国八十八カ所の遍路、千四百キロを一人で歩いて回りました。しかしまだまだつかめていないと言う感じがしたので、お釈迦様のふるさとをあるいてその御足をたどり、出来る限り仏教精神の真髄みたいなものを心に詰めて帰りたいのです。人が人のお世話をするというのはどういうことなのでしょう。やり方はいろいろあると思うけれど、私はまだ自分が納得できるような方法で理解が出来ていません。カルカッタのマザーテレサのホームにも立ち寄りました。確かに神は困った人を助けるのが人のつとめと説いています。お大師様はどのようにおっしゃってるのでしょうか。ご存じ有りませんか。」

「いやはや、貴方の方が僕よりもずっと勉強していらっしゃいますよ。話を伺っていて感じることですが、貴方は近頃の若い人になく深く物事を考えていらっしゃいますね。貴方のような人には滅多にお目にかかれませんよ。こんな格好をしているけれども実は僕も同じようなことを考えて求めています。詳しくは知らないのですが人の喜びが我が喜びに成るというのは観音様ですよね。理想ではあるが我々はなかなかそこまで到達できません。いや、話がちょっと脇道にそれました。先ほどのおたずねですが、私の読んだ本(十住心論)によると第六住心は自分以外の人(もの)に対して慈悲の心を起こすと言うことですか、このあたりのことが貴方が求めておられることではないでしょうか。人々が心の奥底に持つ菩提と言うものを、言い換えれば心の有り様を十種類に分けてそれを段階的発展的にとらえて説明しているのです。本能の赴くままに生きている動物的な人間の心、これが第一段階です。
第十段階(第十心論)ではまず自分が飛び込んでいく、、体を動かして飛び込んでゆくそうすることによって現実世界がそのまま理想世界となって現れる。自分の心を徹底的に極めていくと自分自身の中に悟りがあると言うことに気づく。つまり菩提心の自覚ですね。

体を動かしてそこへ入っていくと言うことなんです。難しいことで僕もよくわかりませんが、知識としては持ち合わせています。ほら、利他行とか菩薩行とかいうじゃありませんか。人間が求める崇高な理想です。」

「話や知識としてはわかったような気になりますが、真実心の底から理解しているかどうかと言うことを自問自答するときやはり自信がもてません。もう少し歩きましょう。インドのこの暑さを身に受け、歩き回っていると少しはわかるでしょう。」
「自分を鍛えると言うことは大変なことですが、それは実に尊いことだと思います。だがお釈迦様が難行苦行のおかげによって悟ったかというと、どうもそういうものではなさそうです。そこで言いたいのですが、苦行も程々に願いたい。もし貴方が文字通りこの暑さの中を歩くとすれば、いつか病に倒れはしないかと危惧します。人間はどんなに良いことを考えていても健康損ねたら何もできません。だからご存じとは思うが体だけはいたわってください。

もし差し支えなければ貴方の住所とお名前を教えていただけませんか。申し遅れましたが私は仏教歌曲を作る作曲家です。立場は違うけれども仏教精神を追い求めることは同じです。これからもお互いに自分の歩んだ道を話し合い、教えあいながら少しでも高い境地にたどり着きたいものですね。
 
僕は日本に帰ると今度こそ四国八十八カ所遍路をやります。インドとはまた違った何らかの啓示があるように思います。そのときには是非貴方に連絡を取りたいと思います。
あっ いけない。もう二時ですね。早く寝ないと明日は五時起きですよね。今日は長い時間、ありがとうございました。多分明朝はおあいできませんが、どうか気をつけて楽しい旅を続けてください。ご無事をお祈りします。ではお休みなさい」。

話はここまでで終わった。この人以外にもアジアを旅をしていると日本人に出会うがかってこんな会話を交わした経験はない。大抵は旅の情報で,安全に関するもの、食事の話,ホテルの快適さ、利用する交通手段の話、旅中でであった珍しい話や、面白い話など当たり障りの無い日常会話で終わってしまうのが普通だ。

僕は自分の部屋に戻りベッドに潜り込んだが先ほどの話が頭の中で渦巻いてとうとう一睡もしないままに朝を迎えた。
 日本の国内で遍路や巡礼をしているならまだしも、インドまできてこんな話が出来るとは想像だにしなかったことだった。しかしインドでこの話が出来たのは何か不思議な気がした。担いで言うなら、これはきっとお釈迦様が同じような問題意識を持つ二人を出会わせお互いの胸の内を語らせ、それによって仏教をより深く考えるチャンスを与えたもうたのだということだ。

もちろんこの程度までの深みのある話を旅行者としたというのは生まれて初めてのことである。


ドンチャン騒ぎ

2008年09月10日 | Weblog
ドンチャン騒ぎの無礼講

日ごろ人間を分けているところの垣根を、すべて取り払い,貴賎,,上下の区別が一切なくドンチャン騒ぎをすることである.。
ドンチャン騒ぎをして一体何になるのか,。
考えないわけではないが,しいていえば、このばかばかしい振る舞いは,ガス抜きの一種であり,社会的には
大きな役割を果たしているのだろう。

昔と違って,いろいろな娯楽が繁盛する現在においても,祭という名を借りて,そこにたまっている社会的なガス抜きをしているのは、それなりに意味のあることである。

ところが騒ぎすぎて事故が起こり、死者が出る。そういうことになると、このガス抜きのイベントが果たしてよいのかどうか考えざるを得ない.。

1年に2,3回の贅沢な楽しみではなくて、現代では娯楽はいくらもあるし、しようと思えばガス抜きは個人的にできるはずである。にもかかわらず集団でガス抜きをするというのは、一方ではいかがなものかと思う人もいるだろう。

それも一理ある。しかし時代がどのように変わろうとも、この世で不満なく生きている人は、ほとんどいないのである。表面はともかくも、心のうちには、うつうつとした欲求不満があり、それを解消するために、やはりスケールの大きい無礼講の中に、己が抱えるストレスをすべてはきだして処理したいというのは、時代の問題ではなくて
基本的には人間の命が続く限りつきまとうものである。

とすれば、花見の宴は人間の命にまとわりついたものであって、それがドンチャン騒ぎという形をとって表面化したものである。

ドンチャン騒ぎによって迷惑を被る人々は、現に何回かのこの種のお祭りに、もう少し柔軟な態度を見せるべきだ、という考えが僕の考えだ。

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口画伯

2008年09月10日 | Weblog
口画伯


図書館でかりた本は、順教尼・即ち堀江の6人殺傷事件の生き残り、両腕をなくした大石よね自身が書いたものだから、当時の様子や彼女が心に受けた傷やその癒しについて記述したものとしてはこれが一番正確なものであろう。

大阪の堀江新地でおきた6人斬り事件の概要はこうである
海梅楼で養女になっていた大石よねが17才の時、養父である中川万次郎の狂気乱心の為に両腕を切り落とされた。他の家人5人は凶刃に倒れ、皆命を失うという事件が堀江で起きた。

犯人万次郎は自首して死刑になったが、原因は万次郎の妻が男を作って出奔してそれに逆上した狂気のあげくの殺傷事件だった。
 
此の実話はそのストーリーだけでも十分興味をそそるが、それよりもすごいのは、順教尼の生き方が並はずれて立派で、真面目に生きる者に勇気と示唆に富んだ人生の教えを与えていることである。

両腕を失いながら彼女は口に筆をくわえて絵を描く画伯だと言うことである。画才のない私から見れば、口に筆をくわえて、これほど上手な絵が描けるのかと感嘆してしまう。

絵は手を使って書くものだというのが常識だから口でなんて言ったところでピンとこない。この種の話は雪舟がオツトメを忘れて、絵ばかり描くのに業を煮やした和尚が彼を柱にくくりつけた。後になって和尚は彼が本堂の床に零した涙で足を使ってネズミの絵を描いて、びっくりさせたという逸話ぐらいしかしらない。

不条理だとは思うが、神は時として人を選んでハンデキャップを与え、それを乗り越える智慧や力と勇気、聡明さなどを与えて、人間の可能性を目の前に示されることがある


現代ではこのような話も風化してしまって、人の口にのぼることはない。
だけれども彼女はなにがあろうとまったく意に介さないで生前のあの、レベルの高い崇高な精神状態を保ちながら この高野山の、奥の院墓地で静かに眠っている。

ものが豊かになり心がやせ細った現代の人々は家のある所の生き方から何か生き方を学んだら良いと思う。

塩と砂糖

2008年09月10日 | Weblog
あれから何回も、あなたの写真を見ましたよ。
とにかくあなたは幸せです。 満面に微笑をたたえて命の花を咲かせている
そうだ。人生は喜びが多い方がいいに決まっている。

ところで
お釈迦様は人生の真実を、苦だと悟った。生老病死のほかに4苦があるあわせて八苦だと説いた。

満面に微笑ををたたいている、あなただってその内面には、苦があるに違いない。

当たり前だ。幸せだけしかないというような、人生はあり得ないのだ。
砂糖ばかりなめている人に、砂糖の甘さはわからない。

甘さはその対極にある塩のからさを知ってわかるのだ。

人生は苦と楽がコインの表裏のをようになっている。そこはしっかり押さえて現実を見ることが大切だ。